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[ショートショート] ラストアナウンス

「発車します。ご注意ください」
 自動アナウンスと共に、○沢駅行きバスは△台駅のロータリーを出た。
 その朝はいつになく乗客が多く、立たざるを得なかった。最初は吊革に捕まったが、どうも腕を上げているのがわずらわしく感じ、すぐに目の前のポールに持ち替える。
 目的の停留所までは少しばかり時間があるので僕はポケットからスマートフォンを取り出した。
 通勤時に限らず、手持ち無沙汰になるとついスマートフォンを手にしてしまう――すっかりそんな癖がついてしまった。僕はその癖の命ずるまま、半ば無意識にロックを解除し、アイコンをタップして馴染みのSNSアプリを起動した。
 バスは発車してから一二分ほどで最初の停留所に達し、滑らかに減速して停留所を示す標識のもとに停まると、待っていた二組ほどの乗客を呑み込んで再び走り出した。停車時同様滑らかな加速だった。
 スマートフォンを使うようになってから、急激に目が悪くなった。また、背筋せすじや首筋も曲がってきたように思う。
 それでも僕の上司――もういい年の冴えない万年係長だ――よりは随分ましな方だ。あの係長は何をするにもスマートフォンを眺めているし、ちょっと室内を移動するくらいではスマートフォンから目を離さない。廊下でもスマートフォンを見ながら歩く。
 今の会社に入って少しした頃だ。バスを降りると、僕の前に停まったバスから係長が降りて、会社に向けて歩き始めたのが見えた。
 係長と僕は正反対の方向からのバスで通勤している。僕が乗るのは△台駅発の○沢駅行き、係長は○沢駅発の△台駅行き。当然通勤時間は同じなので、似たような時間帯に同じ停留所に到着する。経路の関係でこの二つの路線は途中で合流する形となっているため同じ停留所に到着するのだ。
 最初、前を歩く人物が係長とは分からなかった。てっきり脳溢血か何かで身体が麻痺してしまった人が歩いているのかと思ってしまったくらいだ。それほどまでに姿勢が悪く、また足を引き摺るような歩き方をする。
 見ればスマートフォンを胸くらいの高さに保持し、顔を近付けてかじりつくように凝視している。前は見えているのだろうか。よくあれで誰ともぶつからずに歩けるものだとおかしな感心の仕方をしてしまった。
 それにしても、あのだらだらとした歩みはどうだい、まるでゾンビが歩いているみたいじゃないか……などと思っていたら、あにはからんや海外でもスマートフォンを見ながら歩く人の事を『スマートフォン・ゾンビ』と言うのだと知った時は思わず笑ってしまった。連想する事は洋の東西を問わないらしい。
 あの係長の有り様を思い出すたびに、ああなっちゃいけないな……という思いを新たにする。おかげで歩きながらスマートフォンをいじる事はなくなった。反面教師というやつだ。
 しかしバスや電車に乗った時などは、ボンヤリし続ける時間が無駄に思えてしまい、ついスマートフォンを取り出してしまうのだ。
 この日は何ともうららかで、窓から射す陽光が柔らかくバス全体を包み込むのだ。ポカポカとしてまぶたが重みを増す。ともすれば立ったままでも居眠りしてしまいそうだった。
「次は✕✕前です」
 自動アナウンスの声で、はっと心がバスの車内に戻った。『ピンポン』という音に続いて「次、止まります」の自動アナウンス。誰かが降車ボタンを押したのだ。
 これくらいの距離ならば駅から歩いてもそれほど時間はかかるまいに……と思うところもあるが、実際に歩いてみると違うのだろうか。少し重たさを感じる瞳をしばたたかせつつスマートフォンの地図アプリを開いてみた。駅から次の停留所までの距離を調べてみようと思ったのだ。
「間もなく✕✕前です。バスが止まるまでそのままでお待ちください」
 自動アナウンスが流れ、バスは件の停留所に到着した。
 小さな子供を連れた若い女性が席を立ち、降車口に向かっていった。親子だろうか。杖をついた白髪の男性がそれに続いた。そうか、それならば納得できる。
 やがてまたバスは走り出した。
 何だか調べる気が失せ、僕は再びSNSアプリに戻った。SNSでは政治についての不満や、女性の地位が低いという嘆き、はたまたおかしな体験談など様々な書き込みがなされている。中には目を背けたくなるような罵倒や呪いの言葉が書かれている場合もあるが、そういったものも珍獣を眺めるような感覚で見ればなかなか楽しめる。暇潰しには持って来いだ。
 するうち次の停留所は通り過ぎた。その次の停留所も同様だ。さらにその後も降車ボタンは押されずにバスはそのまま走り続け、そろそろ僕の降りる◇ヶ谷停留所だ。
「次は◇ヶ谷です」
 自動アナウンスに応じて降車ボタンに手を伸ばすと、誰かが僕より僅かに早くボタンを押した。『ピンポン』の音と同時に『とまります』の表示が降車ボタンに浮き上がり、わずかに間を置いて「次、止まります」の自動音声が車内に流れる。
 やがてバスは長い下り坂に差し掛かった。この坂を下り切ったところにある十字路を左折した先に、◇ヶ谷停留所がある。僕の職場はそこから歩いて数分のところだ。
 バスに乗っている全員が前に向かって倒れようとする力にあらがう。毎日の事なのですっかり慣れてしまっている僕は無意識のうちに後ろに重心を傾け、いつものとおりスマートフォンに表示される文字やら写真やらを眺めた。
 その矢先、突然ギィィィッ!という不快な音が響き、鳴り続けた。
 顔を上げると、全てがゆっくりと動いていた。窓の外に流れる景色も、車内にいる乗客たちも。
 坂を下る時の、あの前に落ちるような感覚はどこまでも終わらない。
 いつもならすぐに坂を下ってしまって、底の交差点を左折する横向きの力に抗わねばならない筈なのに。
 いつもなら自動アナウンスが「まもなく◇ヶ谷です。バスが止まるまでそのままでお待ちください」と告げる筈なのに。
 目の前の席に座っている年配の女性が進行方向に向かって大きく目を見開いていた。そちらを見るとフロントガラスの向こうに別のバスがいた。ちょうど交差点を右折しているところで車体の側面を見せている。表示機に『△台駅行き』と行き先が記されていた。
 僕らを乗せたバスはそのまま目の前の△台駅行きバスに向かって進んでいき、その側面中央の乗車口の辺りに突き当たった。すぐさまは扉は捻じ曲がって弾け飛び、側壁が裂けた。そこへ僕らの乗ったバスがアコーディオンの蛇腹を縮めるように変形しながらえぐるように相手にり込んでいく。こちらの運転席や降り口はみるみる潰れて行き、いつもの半分ほどの厚みに圧縮された。
 ゆっくりとフロントガラスが砕け散り、客席に向けてガラス片がまっすぐ飛んで来た。窓から差し込む陽光を受けてガラス片はキラキラと輝いている。さらに前から順番に窓ガラスが砕け、バス内外にガラス片を撒いた。
 それと同時に、まったく抗うことのできない強い力が僕を含めた全ての乗客に働いて全員が前方に向けて舞い上がった。すぐに座席や床に叩き付けられる者もいればバスの車内を飛ぶ者もいる。僕も為す術なく宙を舞う。
 車体前部に顔を向けダイビングをするような格好になった僕の目に、△台駅行きバスの中にいる係長が映った。係長は座席に浅く腰掛け、この期に及んでもなおスマホに齧りついている。
 △台駅行きバスの車体は大きく変形して座席がちぎれ、その反動で係長はバスの外に放り出された。すっ飛んで行きながらもなおスマホに見入っていたのだから大したものだ。
 係長と入れ替わるようにして、僕の身体は△台駅行きバスに放り込まれ、床に叩きつけられてもんどりを打った。続いて糸の切れた操り人形のような乗客たちが後から後から跳び込んできた。ある者は車内に折り重なり、ある者は勢い余って車外に飛び出し、またある者は僕の身体にぶつかり覆い被さる。

「――まもなく◇ヶ谷です。バスが止まるまでそのままでお待ちください」
 自動アナウンスが、決して到着する事のない停留所の名を告げた。

*  *  *

 交差点近くの中央分離帯に小さないしぶみが建てられてからどれくらいになるだろうか。
 今となってはほとんど忘れ去られ、足を止める者とてないが、実は皆この辺りにいまたたずみ続けている。
 どうも最後の瞬間の思念が残っているらしく、時おり「バスが……」「ぶつかる!」「ブレーキが」「痛い」など、めいめいつぶやくのだが、たまに聞こえてしまった人が慌てて逃げる姿が見受けられる事がある。
 ちなみに僕はどういう訳か「まもなく◇ヶ谷です。バスが止まるまでそのままでお待ちください」と、あの最後の自動アナウンスの文言を呟いてしまうのである。
 ああ、それともうひとつ、係長もやっぱりここにいるという事を最後に付け加えておこう。呟く事はないが、その代わり延々スマートフォンに齧りついている。
 それはそれで幸せな死後なのかもしれない。

<了>

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