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[短編小説] 紅葉の記憶

 啓蟄けいちつ間近の、うららかな陽の射す午後。
 とある商店街の、表通りから一本入った筋の呑み屋横丁に、小さな店たちの間に埋もれるように『スナックあづま』はあった。
 正式な屋号は『軽食喫茶 スナックあづま』で、店先に掲げられた看板には屋号の他に『営業時間 十一時半~、アルコール五時半~』と記されている。
 呑み屋横丁の店の大多数の例に漏れず『スナックあづま』はカウンターだけの小ぢんまりとした店だ。常連客はそれなりに付いてはいるものの、それほど流行っているという訳でもく、有り体に言ってこの時間帯に来る客はさほど多くない。
 現にこの日も、この時刻までは店内にはカウンターの内側で女が一人、ひまそうに雑誌を眺めるばかりだった。店内には有線放送の歌謡曲が小さく流れていて、少し前の流行歌が流れた時にだけ、ややハスキーな鼻歌が混じる。
 女はこの店のママで、年の頃は四十の半ばから五十の手前といったところだろうか。衰えてはいるものの若い頃の美貌の面影は今も残っており、ひっつめ髪にくだけた服装でもなお枯れきらぬ色香を醸している。
 と、ドアに付けられた鈴の音が軽く甲高い音を立てた。ママが顔を上げると、一人の中年男が入ってきた。常連客の緒戸山だ。
 小ざっぱりとしてはいるものの、あまり身なりには気を使わないらしく普段着そのものといった服装で、髪は短く刈られ、その下の痩せた――やつれたと言った方が正確か――顔には無精ひげが伸び、また血色が悪く、あまり健康そうには見えない。
「あら、いらっしゃい、緒戸山おとやまさん」
 ママの声に緒戸山は会釈で応えると、慣れた様子でカウンターの一席に座る。いつもこの席に座ると決めているのだろう。
「卵サンドとコーヒーをお願いします。お腹が空いちゃって……」
 ママは「はぁい、卵サンドとコーヒーね」と復唱して奥に引っ込み、じきにサンドイッチが四つ載った皿を持って戻ると、熱いコーヒーと共に緒戸山の前に差し出した。
「お腹が空いてるだなんて、何か疲れるような事でもしたの?」
 ママは閑を持て余していたせいか、カウンターに寄りかかるようにして、しきりに話しかけてくる。緒戸山はたちまちサンドイッチを二つ平らげ、コーヒーを一口すすってようやく答えた。
「実は、ここ数日、どうも頭の中に紅葉こうようの山の景色が浮かぶんですよね。脳裏をよぎるって言うのかな……どうにもすっきりしなくて。それで今日、思い切ってすぐそこの浅間山せんげんやまの上まで行ってみたんですよ」
 緒戸山は自身の右の方角を指差しながら言った。浅間山はすぐ近くにそびえる山だ。名前に山と付くものの、丘陵と言っても過言でない程度の小山であり、麓にある幼稚園では遠足でこの山に登るほどだ。
「でも、やっぱり紅葉なんてひとつも見られませんでしたね。枯れ枝ばっかりでしたよ。無駄足でした」
「そりゃそうよね。もうとっくに紅葉の季節は過ぎちゃってるもの」
 そんな会話を交わしていると、再びドアの鈴が鳴った。
「ママ、コーヒーちょうだい」
 背広姿の大きな体躯をした男がずかずかと店に入ってきた。上着を小脇に抱えて、息を切らせたような呼吸をしている。丸々としてのよい顔には、外交的な人物である事をアピールしているかのように明るい笑みをたたえている。太っているのが幸いしてか、あまり老けている印象は受けないが、よく見れば髪にはごく僅かに白いものが混じっている。
「ああ、衵井じついさん。いらっしゃい。もうお仕事終わったの?」ママはそう言いながらコーヒーを準備し始めた。彼もまたこの店の常連客なのだ。
「うん、直帰にしたんだ。お得意さん回りで随分歩いたからね、今日はもう終わりっ!」
 衵井は陽気に笑いながら、緒戸山の席から一つ置いた、いつもの椅子に腰掛けるとコーヒーに砂糖を二つばかり入れて呷るようにごくりと飲んだ。
「……ありゃ、緒戸山さんじゃない。今日は、体調、大丈夫?」衵井はコーヒーを飲んでから初めて緒戸山に気付いた様子で、そう話しかけた。緒戸山は微笑んで肯く。
「緒戸山さんね、急に紅葉が見たくなったって言って、浅間山に行ってきたんですって」ママは物静かな緒戸山に助け舟を出すようにそう繋いだ。
「へぇ、紅葉ね。珍しいんじゃない?、そんな風に思うなんて。……もしかして、何か思い出してきたのかな、事故のこと」
 衵井の言葉にママは、はっとしたように言う。
「あ、確かにそうかも! 病気、良くなってきてるんじゃない?」
 ママも衵井も親身になって緒戸山を気遣っている様子だ。
「そうですね、少しずつ回復してきているのかもしれませんね」
 緒戸山はそう言って微笑んだ。

*  *  *

 一昨年の晩秋の頃だ。ある事故を機に、緒戸山は人生のほとんどの記憶を失った。
 その日、緒戸山は友人と共に、ハイキングに出かけた。行楽日和の爽やかな空の下、標高一二〇〇メートルほどの山が連なる尾根を縦走する計画だった。が、その途中で二人は行方不明になった。
 緒戸山は尾根からすぐの、崖下数十メートルのところで発見された。滑落したらしい。他のハイカーの通報によって救助され一命を取り留めたが、打ち所が悪かったのか、目覚めるとほとんど何もかも忘れていた。
 同行していた友人、瀬棚せたなは未だに見付かっていない。ただ、現場周辺で荒らされた荷物だけは見付かった。おそらく熊に襲われたのだろうと結論付けられ、捜索は打ち切られたのだった。
 緒戸山の記憶は戻らないまま、時だけが過ぎていった。それまでの仕事は辞めざるを得ず、今は障害年金を受給して細々と暮らしている。
 そんなある日、リハビリの為散歩していた緒戸山は、いつしか家から大分離れたこの商店街に辿り着いていた。何故か心惹かれたのだと緒戸山は回想して言うのだが、気付くと『スナックあづま』の前に立っていたのだ。
 こうして緒戸山は『スナックあづま』に昼間だけ顔を出すようになった。
 ママや、衵井を始めとする常連客――昼間に来る常連客はほぼ衵井だけだったが――はこの不幸な境遇の緒戸山を温かく迎え入れたのだった。

*  *  *

「そんなに気になるなら、ひとつハイキングに出かけてみるかい? 紅葉は流石にもう無理だけど、何か思い出すかもしれない」
 衵井はそう言いながら緒戸山の隣の席に移ってきた。
「ママもどう?」下心があるのだろうか、衵井はママにも水を向ける。
「あら、いいじゃない。私も行きたいわあ。ハイキングなんてここのところ全然してないもの」
 ママも乗り気のようだ。それに気をよくしたのか、衵井はどんどん話を進める。緒戸山はそれに相槌を打つばかりだ。
 こうして、とんとん拍子にハイキングの計画はまとまった。参加者は緒戸山、衵井、ママの三人。次の連休の中日なかびの早朝に駅前で待ち合わせ、電車とバスを乗り継いで天振山あまふりやまの登山道入口に赴き、そこから山に入る。頂上で昼食をとり、反対側の道から下山して、麓にある温泉に入って帰る予定だ。
 衵井によれば天振山は標高一〇〇〇メートルに満たない低山で登り易く、また裾野が広くてハイキングには持って来いの山なのだという。
「今はこんなだけど、学生の頃はよく山に登ってハイキングしたもんだよ。最近はなかなか行けなくて体がなまってはいるけど、まあ天振山は初心者向けの山だから心配ないよ。はははっ」
 衵井はそう言って笑いながら丸いビール腹をポンポンと叩くのだった。

 数日を経て、ハイキングの当日となった。三人は滞りなく待ち合わせ場所に集合し、予定通りに天振山へ足を踏み入れた。
 衵井は初心者向けだと言っていたが、実際に登ってみると、なかなかどうして険しい道もあり、最初はお喋りを交わしながら歩いていた一行もいつしか言葉少なになっていく。そうして曲がりくねった登山道を抜けると、ぽかりと開けた場所に出た。
 木々の向こうに低い山々が連なり、その向こうに小さく街並が、さらにその先には海がきらめいている。
「はあ、いい眺め」
 ママは息を弾ませながらも、うっとりと眺望を見渡した。緒戸山もママの隣に立って景色を眺める。そよ風が頬を撫で、心地よい。
 そこへ衵井が、荒い息と共に二人の許に辿り着いた。
「ふうふう、二人とも意外と体力あるなあ」衵井はそう言うなり、倒木の幹に腰掛けて汗を拭った。
「もう、衵井さんったら、言いだしっぺの癖にだらしないわねえ。ほら、あそこからの眺め、最高よ」ママは笑いながら衵井に歩み寄る。緒戸山もそれに続いた。
「もう眺めどころじゃないよ。思った以上に体力が衰えててショックなんだから。ママはすごいね」
「私は週に最低一回はジムに行ってるもの。衵井さんはまずダイエットして体重を落とした方がいいわ。緒戸山さんだってずっと登山してないのにシャンとしてるじゃない。体重の違いよ、きっと」
 ママのその言葉に、緒戸山は静かに微笑んで、水筒の水を一口飲んだ。
 この先は天振山の稜線を伝うようにして頂上へ向かう。衵井が言うには、これまでの道よりは傾斜がきつくない筈だとのことだ。
 それは確かにそうだった。が、今度は道が良くない。整備されているのか怪しいほど荒れている。そもそもここは道なのかと思うほどだ。
 さっきまで時折見かけていた、他のハイカーたちの姿も一切無くなって、ひっそりと静まり返っている。
「ううん、どうもおかしいな。……でも稜線を進めば少なくとも頂上には着くはずだから、このまま行こう」
 この山を最も知る衵井の意見が尊重され、三人はそのままこの道を進む事にした。道の左右は下り斜面になっているから稜線を進んでいるのは間違いない。
 ところが、しばらく歩いていった所で、先頭を進む衵井が「あっ!」と言葉を発して体勢を崩し、山道に膝を突いたのだ。
「衵井さん、大丈夫ですか?」緒戸山が衵井に歩み寄ったその瞬間、緒戸山は、はっと息を呑んで立ちすくんだ。
「緒戸山さん、もしや、思い出したかい?」
 衵井が、膝を突いたまま緒戸山を見上げて、ゆっくりと言った。
「見覚えがあるだろ、この恰好かっこう……。瀬棚もな、こうしてつまづいた俺に歩み寄ってきたんだよ、……」
 ママが衵井の言葉を継いだ。
「そうして油断させた所で、瀬棚の奴に後ろから一撃喰らわせたのよ――緒戸山、あんたがね」
 緒戸山は戸惑った様子で衵井とママを交互に見るばかりだ。
 衵井はゆっくりと立ち上がり、右手を上着のポケットに突っ込んで話し始めた。
「瀬棚は勤めてた会社から多額の金を横領して貯め込んでたんだ……それこそ一生遊で暮らせる額さ。あんたがその金の在り処を知って、俺たちに話を持ち掛けてきたんだ……瀬棚を殺して金を奪おうってな。それで上手いことハイキングに行くって名目で瀬棚を誘い出したんだ。
 あとは万事計画通り、油断した瀬棚を三人で袋叩きにして殺しちまったって訳さ。思い出してきたか?
 ただ、あんたが誤算だったのは、俺とママが結託して取り分を増やそうとしてた事なんだ。ちょいと痛めつけて、あんたが知ってる金の隠し場所を吐かせようとしたんだが逃げられちまった。あんた昔からすばしっこかったからなあ、その事をうっかり忘れて油断したよ。
 挙句崖から足滑らせて、落っこちた時には肝が冷えたぜ。一応生きてるのを確認したから他人のフリして通報したって訳さ。瀬棚の死体を始末した上でな。
 ただ、全部忘れてパーになっちまってたのは予想外だったね。お陰で金がお預けになっちまったんだから。
 でも、そのうち思い出すかもしれないってんで、ママと二人で今まで監視してたんだ」
 衵井は氷のような笑みを浮かべながら話し続ける。
「のこのこ『あづま』に現れた時は驚いたぜ。記憶の片隅に残ってたんだろうな。まあこっちとしてはぐっと楽になったんで、ラッキーだったけどな」
 喋りながらポケットに入っていた右手を引き出し、勢いよく振った。すると軽い金属音と共に黒い棒状のものが出現した。伸縮式の特殊警棒だ。
「もうすっかり思い出しただろう、緒戸山ぁ!」衵井の怒声に緒戸山はギクリと身体を振るわせた。どうやら衵井の言葉どおりのようだ。
「よおし、そんなら金の在り処を吐いてもらうぜ」
 警棒を左のてのひらにポンポンと当てながら、衵井は緒戸山の方へ歩を進める。同時に、衵井の左側から回り込むようにママも距離を詰めてきた。その手にはいつの間にか細いロープが握られている。
 次の瞬間、衵井は獰猛な獣のように緒戸山に飛びかかった。
「ひっ!」緒戸山は反射的に両腕で頭を庇ったが、おかまいなしに全力で打ち込まれた警棒は左肘の辺りをしたたかに打ち据えた。
「ぐあああっ!」
 激痛に耐えかね、緒戸山は打たれた肘を抱えてのたうち回る。
 衵井は愉快で仕方ないといった風に「ヒャハハハハッ!」と下卑た笑い声を上げ、もう一撃加えようと再び警棒を振り上げた。
 その瞬間、緒戸山は衵井のがら空きになった両足に素早く組み付いた。不意を突かれて両足を刈られる恰好となった衵井は勢いよく地面に叩き付けられた。
 その機に乗じて緒戸山は傍らの草むらに飛び込むと、打撃を受けた左肘を右手で押さえながら、けつまろびつ草むらの先の森へ向かって逃げていった。
 衵井は腰をさすりながら立ち上がり、舌打ちした。しかし慌てるような様子は微塵も見せない。一昨年のと同様、逃げ道の無い場所を選んで連れてきたのだから。
「おい、そっちに行っても崖になっているから逃げられんぞ! それとも、また崖から落ちる気か? ああん?」
 衵井は枯れ藪を漕ぐ緒戸山の背中に向かって叫ぶと、二三度警棒を素振りし、ママに目配せした。
 ママは軽く肯き、衵井と同じ特殊警棒を取り出し、振り伸ばした。
「さあ、いい子だから出てこい! 指を一本ずつへし折ってやるぜ!」
 再び緒戸山に向かって叫び、いかにも相手を傷めつけるのが楽しみでたまらないという顔で、衵井は森に向かって歩き出した。
「衵井、調子に乗って殺すんじゃないよ? 殺すのは金の在り処を吐かせてからだからね?」
「へっ、分かってら」
 衵井は振り向きもせずに答え、そのまま無造作に森に分け入る。
「本当に分かってるのかね」
 溜め息混じりにそう言うと、ママも続いて森の中へ入っていった。

 数分後、山中に数発の銃声が響いた。

*  *  *

 ある日を境に『スナックあづま』は突然営業を停止した。何の告知も貼紙もなく、表のドアにも勝手口にも鍵がかけられたままとなったのだ。
 入口の小さなガラス窓から中を覗くと、什器や調度品などがそのままになっていて、今にも営業が再開されるのではないかと思われるほどだった。が、ママが戻ってくる事は二度となく、かつての常連客は呑み屋横丁で顔を合わせる度に駆け落ちしたのではないか?、いや夜逃げしたのではないか?などと噂し合うのだった。
 それと時を同じくして姿を消した常連客が二人いたのだが、その事に気付いた者はなかった。

*  *  *

 寄せては返す穏やかな波の音。時折遠くから聞こえる海鳥の声。南国の陽光が燦々と照りつける真っ白な砂の向うにはエメラルドグリーンの海が広がっている。
 コンドミニアムから直結したプライベートビーチに、籐の揃いのテーブルと椅子が一組とパラソル。テーブルにはよく冷えたジントニックのグラス。
 ポロシャツにハーフパンツの男が背中を預けるようにして籐椅子に座って海を眺めている。男はつい数日前にここへ移住してきたのだった。何やら事業で一山当てたとかで、相当の金持ちだ。
 ふいに男は肩を震わせ、何かを思い出したかのように「くくっ」と失笑を漏らした。
「とっくに記憶は戻ってたんだよ、間抜けめ」
 呟きながらグラスを手に取り、面前に軽く掲げる。
「乾杯――射殺された憐れな男女に」
 そうして一旦はグラスに口を付けたものの、男は急に何か思い出したようにグラスを口から離して再びグラスを掲げた。
「もうひとつ、乾杯――」
 グラスの氷がカロリと音を立てる。
「――緒戸山だった頃の紅葉の思い出に」
 男はグラスを呷り、再び海に目を向ける。
 エメラルドグリーンの上の透き通ったスカイブルーの前に、濁りなき白の入道雲が立ち上っていた。

<了>

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