見出し画像

[短編小説] 常闇の守り人

 急に風が吹き始めた。黄櫨はじ色の砂塵が舞い、徐々に量を増している。砂嵐の前触れだ。
「まずいな……」
 男は額の前に下がったシュマーグの裾を持ち上げ、サングラス越しに空を見上げた。さっきまで透き通っていた青空は黄ばみを帯び、太陽の回りにはうっすらとかさがかかっている。既にシャツにもズボンにも砂が積もり始めていた。見えないが、シュマーグを抑えるイカールにも、背嚢にも、水筒にも積りつつあるだろう。
 砂を払いながら、左右を見渡す。辺りはれき混じりの砂が堆積し、そこに枯れた草木が半分埋もれているきりで、すぐに隠れられそうな場所はない。
 低い砂丘を越えると、少し先に岩山があるのを見とめた。あの岩山の陰で砂嵐をやり過ごすしかないだろう。取り囲もうとするかのように量を増す飛砂に追い付かれまいと、男は必死に歩みを早め、最後は駆け足で岩山の陰に回った。するとあつらえたようにちょうどよい洞窟が口を開けているではないか。
 男は素早く洞窟に飛び込んだ。が、入口で立ち止まってしまった。薄暗い洞窟の奥で何かがギラリと光ったからだ。奥に何かがいる……もしや猛獣の類か? よく見ようとサングラスを外した矢先に、奥にいるその何かが声を発した。
「砂嵐から逃げてきたのかい?」言葉はこの辺りの部族のものだ。
「ああ、そうだ。済まないが、ご一緒させてもらうよ」男はほっとしてそう言うと、背嚢を下ろして中から小型の電池式ランタンを取り出して点灯した。
「わっ!」男は思わず声を上げた。目の前に飛び出さんばかりの丸い巨大な目玉をした怪物が座っていたからだ。
 ――いや、怪物ではない。顔全体をシュマーグで覆い、大きなゴーグルをしているだけだ。
 ゴーグルは左右のレンズが分かれた、いささか古臭いスタイルのもので、実際古ぼけているようだった。さっきギラリと光ったのもこのゴーグルだろう。体格は小さく、声からしても子供のようだ。
「ははっ、ごめんよ。びっくりさせちゃったかい?」
 子供は笑いながらゴーグルを外し、顔を覆っていたシュマーグを下ろした。浅黒い肌の、まだあどけなさが残る少年だった。
おいらも、慌ててここに逃げ込んで来たんだ。この辺で砂嵐を避けられるのはここくらいしかないからさ。……ところで、あんた、白人かい? この辺の人じゃないね?」
 少年のいぶかしむ様子に、男は慌てて頭に被さるシュマーグをイカールごと剥ぎ取った。男の顔には深く皺が刻まれ、もとは豊かな金髪だったと思しき頭髪はすっかり白髪に置き換わっていた。
「怪しい者ではないんだよ。私の名はレイルマン――マルティン・レイルマンだ。見ての通りの年寄りさ。旅行中だったんだが、ここから大分離れたところで自動車が故障してしまってね……」
「そうか、困ってたんだね。なら、この砂嵐が収まったら俺らの村に来るかい? 父ちゃんならきっと助けてあげられるよ。村長だからね」少年はどこか誇らしげだった。きっと自慢の父親なのだろう。
「それはありがたいな。是非お願いするよ」レイルマンはそう言いながら、もう何十年も前の、彼と同じくらいの頃をうっすらと思い出していた。正直誇りに思える父親とはとても言えなかったが……まあ過ぎた事だ。
「君は親切だね、名前を教えてくれるかい?」
 少年は、はっとしたような顔をした。
「ごめんよ、相手に名乗らせるばかりで自分が名乗らないのはいけないね」ペロリと舌を出し、少年は自分の名を告げた。
「俺らは、ハダッド村のアハメドの息子、ジャマル」
「そうか、よろしく頼むよ、ジャマル」レイルマンは右手を差し出した。ジャマルは一瞬何の事か分からない様子だったが、じきに気付いて自らの右手を出し、レイルマンと握手を交わした。レイルマンは見た目に似つかわしくない力強さでジャマルの手を握った。
「ところで、ジャマル、君はこんなところで何をしていたんだい?」
 するとジャマルは隅に置かれていた小振りの弓矢をレイルマンに示した。
「狩りだよ。この辺は一面荒地だけど、動物がいない訳じゃないんだ。今日は『アマルナ・アル・カルナ』が獲れたよ。ほら」
 傍らの麻袋を開いてみせたので、レイルマンが覗き込むと中には三十センチ以上はありそうな動物の死骸がいくつか入っていた。爬虫類のようだ。トカゲのようだがそうではなく、奇妙でいささかグロテスクな形をしており、鋭い爪や牙を持っている。
「まるで恐竜だな。私の国では見た事がないよ」
「へえ、そうなんだ」
 ジャマルは袋に手を突っ込むと、長細い葉っぱのようなものを取り出した。
「ほら、『ドラウプラルト』も採ったよ。食えるんだぜ」
 かなり肉厚で、きわのところに三角の突起が無数に生えている。
「これはアロエの一種かな? 多肉植物には違いないようだが」レイルマンはその葉を手に取ってめつすがめつした。
「それあげるよ。ここをこうやってさ、皮を剥くんだ」ジャマルは自ら一つ皮を剥いて見せた。中には半透明な果肉が詰まっている。すかさず齧り付き、美味そうに頬張るジャマルの姿を見て、レイルマンも同じようにして食べてみた。少々青臭いがほんのり甘く、水気もあって砂漠を彷徨さまよって疲れた身体に滲み入るようだった。
「人心地ついたよ。ありがとう」
「なあに、旅人には親切にしろって父ちゃんには口酸っぱく言われてるんだ。そういや、レイルマンさんは白人なのに、ここの言葉を喋れるんだね。この辺りに来た事があるのかい?」
 今更だけど……とジャマルは笑った。レイルマンはそれに応えるように笑いながらハンカチを取り出して口の周りを拭くと、さらに折り返して首元や額の汗をぬぐった。
「もう大分前になるが、この辺りで仕事をしていたんだよ。ずっと若い頃にね。本当に久しぶりに来たんだ」
「へえ、それじゃ災難だったね……」
 そう言いながらジャマルの視線はレイルマンの首元に向かっていた。
「このあざかい?」
 レイルマンの首筋から顎の辺にかけて、特徴的な形をした大きな痣がある。それが汗をぬぐった時に露わになったのだった。
「これは生まれつきでね。子供の頃はよくからかわれたもんだよ」
「ごめんよ、俺ら、そんなつもりは無かったんだ……」ジャマルはかぶりを振り、取り繕うように言い添えた。
「……村の言い伝えにね、まだら模様の人くらいの大きさのアマルナ・アル・カルナが村に来たというのがあってさ、それをちょいと思い出しただけなんだ」
「ほう、言い伝えね……昔話の類かな。人みたいな大きさのトカゲとはちょっと信じ難いがね、ははは」
「俺らもそう思うけど、村の人たちは皆言い伝えを大事にしてるんだ。他にも色々あるんだよ」
 ジャマルは半分ほど残っていたドラウプラルトをすっかり食べてしまうと、欠伸あくびをして目を擦った。
「砂嵐は、まだしばらく止みそうもないね」そう言って岩壁にもたれ、目を瞑る。体力を温存する策なのだろう、レイルマンもそれに倣い、同様の恰好で休む事にした。
 洞窟の入口の向こうは薄暗く、外の様子は分からなくなってしまった。砂嵐が太陽の光を遮っているためだ。幸い風下に位置するため、洞窟の中に砂が吹き込むことはなさそうだ。

*  *  *

 いつの間にか眠っていた。肩を叩かれて目を開けたレイルマンは、洞窟の出口から射す光に思わず目をしばたたかせた。
「砂嵐は行ってしまったよ。ほら、すっかり晴れてる」ジャマルは嬉しそうに外を指差す。
 洞窟を出ると、砂と礫と岩の向うに抜けるような青い空――ただし、未だ風に舞う砂のせいでいささか黄味がかっている――が広がっていた。腕時計を見ると洞窟に辿り着いてから一時間ほどしか経っていなかった。
「さあ行こう。村までは大した距離じゃないけど、日が暮れると面倒だ」
 この洞窟に来た時と同様、レイルマンはシュマーグを被りイカールを巻いてサングラスをかけ、ジャマルはゴーグルを着けた上で頭全体をシュマーグで覆う。
 太陽は随分西に傾いてはいたが、容赦なく二人を照り付けた。砂嵐が来る前はほとんどなかった風が、今はずいぶん強く吹いている。しかしその風は温度が高く涼を得る事はできない。のみならず顔に吹き付ける度に砂塵が目に入るのだった。サングラスでは防げず、薄目で歩くしかなかった。
 そうしてどれくらい歩いただろうか。言葉少なだったジャマルがレイルマンの方を振り返り、陽炎にゆらめく稜線を指差した。
「あそこを下ったところだよ」その時にはもう暑さと乾きで意識が朦朧もうろうとしかけており、レイルマンは肯く事しかできなかった。
 ジャマルに手を引かれながらそこまで行くと、緩い斜面を下った所にきらきらと光るオアシス、さらにその向こうに小さな家々が寄り添うように建ち並んでいる。
 渇きを癒したいという本能のままに斜面を下った。
「ありがたい……」
 レイルマンは、オアシスの澄んだ湧き水を両手ですくって飲み、もう一度すくって顔をひたした。が、うっかりサングラスを着けたままだったのに気付き、苦笑しながらサングラスを外すと、今度こそ水をすくったてのひらを顔に押し当てた。
「――レイルマンさんですね?」
 振り向くと、ゆったりとした白いトーブに身を包んだ人物が立っていた。立派な髭をたたえた中年の男性だ。隣にジャマルもいる。
「村長のアハメドです。ジャマルから聞きましたが、お困りのようですね。さあ、こちらへどうぞ」
 アハメドは穏やかな口調でそう言い、手招きをした。ジャマルの言っていた通り、旅人には親切にするべきという信念の持ち主なのだろう。どうやら信頼の置ける人物のようだ。
 一行は小さな村の中に入っていった。村の家々はどれも一様に日干し煉瓦の簡素な造りのものばかりだ。多くの家は小さな工房のようになっており、中で夫婦らしき男女が何やら作業をしていた。子供が手伝っている家もあった。
「この村は主に染物を生業としていましてね。この近くの山でだけ採れる特殊な鉱物を砕いて染料にするのです。村全体で分業しています」作業の様子を覗き見るレイルマンに、アハメドが説明をした。
「聞けば街では高値で取引されるようですが、我々に入ってくる収入はさほどでもありません。とは言え貴重な現金収入ですし、伝統ある産業ですからね。家に着いたらお見せしましょう」
 少し歩くと村長の邸宅に到着した。邸宅とは言っても周りの家よりも多少大きい程度で、造りはほとんど変わらない。中に入ると、風を通す工夫がされているようで思ったよりも過ごしやすかった。
 応接間らしき部屋に通され、勧められるままに敷物の上の座布団に座ると、アハメドが次の間からいくつか反物を持って来た。これがこの村の特産品の染物なのだった。見ると、何とも不思議な色合いで、高値で取引されるのも大いに頷ける逸品だ。
「ほう。初めて見ました。染物には詳しくないですが、なかなか良いものですなあ」
 レイルマンの言葉にアハメドは我が意を得たとばかりに笑顔を見せた。
「そうでしょう、そうでしょう。見ての通り小さな村で細々と作っておりますから、なかなか広まりませんが、少しずつでも知られていけばと思っているのです。そうすれば村の収入も上がりますからね」
「なるほど、無事に帰れたら私も宣伝させてもらいますよ、ははは」
「そこなんですがね、レイルマンさん……」アハメドは急に申し訳なさそうな顔をした。
 話によると、この村と近くの街との交通機関は数頭のラクダしかないのだが、生憎それらは反物の出荷のために全て出払っており、帰ってくるのは早くても三日後とのことだった。
「ラクダたちが戻ってくるまでは、私どもの家にご逗留ください。娯楽のようなものは何もありませんが……」
 と、応接間の出入口からジャマルがひょっこりと顔を出した。
「ああ、そうだ。家族を紹介しましょう。皆おいで、レイルマンさんに挨拶だ!」
 すると、ヒジャブで頭髪を包んだ中年女性がジャマルの後から姿を現し、さらに夫婦であろう比較的若年の男女と、加えて二人の小さな子供たちが入ってきた。
「ジャマルはもうご存知ですね。こっちは妻のサハラです。そして私の弟夫婦エブライムとアイーシャにその子供たち、ゼフラとカイロです」
 レイルマンはそれぞれと握手し、この辺の作法に則った挨拶を交わしたが、ゼフラとカイロは親の背中に隠れてしまった。レイルマンが笑顔を見せると、そっと顔を出し、小さく頭を下げてまた引っ込んでしまった。
「ゼフラとカイロは人見知りでしてね。ご無礼をお許しください」
「ははは、小さな子供にはよくある事ですよ。かわいいものです。こちらこそ驚かせてしまって申し訳ない」
「いえいえ、ご気分を害されなかったなら何よりです。さあこちらへどうぞ。食事にしましょう」
 夕食は宴となった。と言っても料理は質素なものばかりだ。街から遠い砂漠の貧しい村で食料の備蓄もままならない。それも保存食が大半だとアハメドは語った。
 しかしその中でもひときわ美味しい肉料理があった。舌鼓を打ったレイルマンがこの肉について訊ねると、ジャマルが自慢げな顔をした。
「こいつはおいらの獲った、アマルナ・アル・カルナだよ。美味いだろ?」
 なるほど、焼き目の付いている硬い皮は、洞窟で見せてもらった小型恐竜のような爬虫類の表皮のようだ。正直あまり食欲の湧く見た目の生き物ではなかったが、料理されているとまったく分からない。そう言われてみれば、他の皿の料理には皮を剥いて焼いたドラウプラルトも入っている。
 この村は、ジャマルのように狩りや採集に出かけていかねば食料が足りなくなってしまうという。もっと現金収入があれば楽になるのですがね、そう言ってアハメドは溜め息を吐いた。
 そこで、ふとレイルマンはこの邸に来るまでの村の様子を思い出した。
「そういえば、この村ではお年寄りの姿を見かけませんな」
「ああ、お気付きになられましたか……」アハメドは悲しげに答えた。
「レイルマンさんのお歳なら経験したでしょう、先の大戦が一因なのですよ……」
 世界を二部した戦争の火の手が上がってから、もう五十年になるだろうか。戦争はこの砂漠の国にも魔手を伸ばしたのだった。
「ある日突然戦火に襲われて多くの者が死にました。生き残った先代の村長――私の父です――が中心となってどうにか復興を成し遂げましたが、無理が祟ったのか当時を知る年配者は皆早くに亡くなりました。私の父は戦争を知る世代の中では長生きしましたが、三年ほど前に天へ召されました」
「そうだったのですか……。しかしオアシスがあるとは言え、この村はそれほど軍事的に重要とは思えないのですがね。何かお父様からその時の事についてお聞きになられましたか?」
 レイルマンの問いにアハメドは頭を振った。
「いや、父含め年配者の皆はその時の事を多くは語りませんでした。どのような軍事作戦の元で多くの村人が亡くなったのか、今となっては知る術もありません」
 そこまで話したところで、アハメドは努めて明るい声を出した。
「いやいや、湿っぽくなってしまいましたな。申し訳ない。さあ、飲んでください。今日はあなたを歓迎する会なのですから!」
 アハメドはそう言って酒瓶を手に取ると、手ずからレイルマンのグラスに注いだ。

*  *  *

 ラクダたちの到来を待ちながら二日ほど経過した。早ければ明日には帰ってくるはずだ。
 早朝に目を覚ましたレイルマンは、毛布を羽織って邸の軒下に置かれたベンチに座り、少しずつ動く夜と朝の境界線をぼんやりと眺めていた。起きた時には肌寒かったが、次第に暖かくなってきていた。じきに暑くて毛布など被ってはいられなくなるだろう。
「おはよう、レイルマンさん。早いんだね」
 振り向くとジャマルが立っていた。ジャマルは初めて会った時と同様の服装をしていたが、ゴーグルはまだかけてはいなかった。
「やあ、ジャマル、おはよう。早くラクダが帰って来ないかと思うと目が覚めてしまってね。君はこれから狩りに出掛けるのかい?」
「ああ、そうさ。また美味いアマルナ・アル・カルナを食わせてやるよ」
 するとレイルマンは意を決したようにベンチを立つと、ジャマルの前に片膝を付くようにして目線を合わせた。
「ジャマル、折り入って頼みがあるんだが――」
「ど、どうしたんだい? 頼み……?」予想外の行動にジャマルは驚いた様子だ。
「うむ、染物に使う鉱石の採掘場へ私を連れて行ってほしいんだ。場所は知っているんだろう?」
「ああ、知ってる。でもそんなに面白いものじゃないよ。ただの岩山だし。採掘も年に一度のお祭の時にしかしないんだ。だから今は誰も居ないよ」
「それでもかまわないんだ。帰る前に一度目にしておきたくてね……」
 ジャマルは気が進まないようだったが、レイルマンも頑なに引く事はなく、押し問答の末遂にジャマルが根負けした。
「分かったよ。ならこれから出発しよう。少し距離があるから涼しいうちに出発した方がいい」
「ありがとう、恩に着るよ、ジャマル」
 レイルマンは邸に戻ると直ぐに身支度を整えて現れた。事前に準備をしていたらしい。こちらも初めて出会った時と同様の恰好だ。ジャマルはゴーグルを、レイルマンはサングラスを装着して歩きだした。
 やがて二人は村を出て、砂漠へ入っていった。ジャマルが指差す方向を見ると、陽炎の向うに黒い大きな影のように見えるのが目的地だという。
「レイルマンさんは、鉱石を盗む気なのかい?」ジャマルは歩きながら単刀直入に訊ねた。
「いや、そうじゃないよ。誓ってもいい」
「これまでにも何回かあったんだ……ヨソ者が来て、あの染料の元になる鉱石が欲しいって言うのさ。でも皆無駄足で終わったよ。鉱石はお祭の時に採ったものでないと染料にならないんだ――とって置きのアマルナ・アル・カルナやドラウプラルトなんかを供えた後でないとね。染料は神様の使いがこの村にくださる、ご褒美なんだ」
「それも言い伝えかい?」
「ああ、そうさ。ハダッド村の民は言い伝えを大事にしてるからこそ、この地で生きてこられたんだ」
「そうかな、私の国では科学によって生き延びてこられたと考えているよ。それに言い伝えが全てを伝えているとは限らないのではないかな」
「そんな事はないさ」ジャマルは少しむっとしたようだった。
 その後は双方無言で歩き続けた。

 小一時間歩き続け、ようやく目的地に到着した。堆積岩と思しき岩からなる山が幾つも連なっている。太陽も高くなり気温は出発した頃よりもずっと上昇していたが岩山の作る日陰によって砂漠を歩いている時よりはずっと凌ぎ易かった。しかしその砂漠を横断してくる間に、水筒を満たしていた水は残り僅かとなっていた。
「さあ着いたよ。ここさ」
 レイルマンは答える余裕もなく、日陰の岩に腰を下ろすばかりだった。残り少ない水を飲み干し、ようやく一息つけた。
「ここでお祭をするんだよ」
 岩陰に手掘りの坑道があり、その手前にささやかな祠と祭壇が設えてある。
「一晩経つとお供え物が無くなっているんだ。それから鉱石を掘ると染料に出来るのさ。だけど、採れる量は毎年決まっていて、それ以上採ってもその分は染料には出来ないんだ」
「ふうむ、どうも信じ難いがね。供え物が無くなるのは何かの獣の仕業かな。鉱石が染料に出来ないというのは迷信だろう」
 レイルマンはそう言いながら坑道の入口に歩を進めると、そこに落ちている石を一つ拾ってみた。何の変哲もない礫岩だ。すると、坑道の中から小さなハリネズミのような生物がぞろぞろといくつも現れ、レイルマンの足元をすり抜けてどこかに走り去っていった。
「あれはガムラ=コスっていうんだ。あまり美味くない」
「まあ食べてみたくなる感じではないな」レイルマンは、今しがた拾った石を坑道に投げ捨てた。
「さ、気が済んだかい? もう帰ろうよ。ここは神聖なところなんだ。長居していいところじゃない」
 その言葉に振り向いたレイルマンは、口の端を歪めた笑みを湛えていた。
「確かにそうかも知れん。だが神聖な場所というのは、このちっぽけな祠や坑道だけじゃないんだ」
「どういう事だい……?」
「さっき言っただろう。言い伝えが全てを伝えているとは限らない、と」
 レイルマンは採掘場を離れ、岩山の峡谷へ向かって歩き出した。その足取りは確信に満ちているように見えた。
「どうした? 来ないのか? 怖気づいたか?」レイルマンは歩きながら振り向いて言った。
「ち、違わい!」慌ててジャマルは彼の後に付いて歩き出した。
 やがて峡谷はある地点で行き止まりとなった。
「この場所だ……」レイルマンは三方を岩の崖に塞がれた場所を見上げて呟いた。ジャマルはしばらくその様を茫然と見守った挙句、ようやく声が出た。
「ここへ来るのは初めてじゃないんだね」
「ああ、そうさ」
 レイルマンはシャツの前襟に手を入れて、首にかけていたものを取り出した。それは細い革紐のペンダントだった。たった一つ革紐に通された飾りは楕円形で、磨き上げられた明灰色の石で出来ており、表面には複雑な彫刻が施され、それとぴったり同じ形に細工された黒色の石が嵌め込まれている。
「どうだい、見事なものだろう? これを、こうかざすんだ。そうして呪文を唱える……五十年ぶりだし、自分で唱えるのは初めてだから間違えないようにしなくてはな。ははは」
 飾りを眼前にかざしながら岩壁のある地点に歩み寄った。するとちょうど掲げられた飾りとほぼ同じ高さの場所に色の違う岩がさりげなく嵌め込まれていた。色の違う岩には飾りと同様の模様が彫り込まれている。レイルマンはそこに飾りを突きつけるようにしながら立ち、ポケットから取り出した一枚の紙切れを見ながら、どこの国の言葉ともつかない呪文をゆっくりと唱え出した。

マラキ・マトゥーログ・ピヌノイグビトゥイン
パタワ・リンモアー・コ
マラキ・マトゥーログ・ピヌノイグビトゥイン
プマソゥク・ルマ・トゥヨ・ルングソッド

 呪文は何度も繰り返された。そのうちにジャマルは峡谷中が小刻みに揺れだしたのに気付いた。見る間に揺れは大きくなり、その震動に応じて傍らの岩も揺れ、ある岩は崩れ、ある岩は割れ、気付けば峡谷の岩壁にぽっかりと穴が開いていた。
「よし、成功だ」レイルマンは、さも当然のような顔でその新たに穿うがたれた洞窟へ進み、その中へ足を踏み入れたが、すぐに立ち止まり、振り返った。
「どうした? ジャマル、来ないのか? 見た事もないものを見せてやろうというんだ。さあ、来なさい!」
 ジャマルは一時躊躇ためらったが、結局レイルマンに付いていく事を決め、後に続いた。
 洞窟の中は緩い傾斜になっており、地下に向かっていくようになっていた。すぐに陽光が届かなくなったのでレイルマンは背嚢から懐中電灯を取り出して点灯した。その人工光に照らされた洞窟は遥かに深いところに向かっているようだった。しかし奥の方にまでは光が届かず、どこまで行っても目の前には漆黒の闇が待ち構えているのだった。しかしレイルマンは警戒する様子も見せず、ずかずかと中に入り込んでいく。
 やがて、これまでゴツゴツとしていた洞窟の壁や地面、天井などがブロックかタイルを敷き詰めているかのように滑らかなものに変わった。明らかに人工物だ。つまりこれは洞窟ではなく隧道なのだ。
 そうしてどれほど進んだだろうか。突然、隧道が途切れ、大きな空間が広がった。
「さあ、着いたぞ」
 それは驚くほど巨大な地下空洞だった。天井は高く奥行きもあり、懐中電灯程度の光ではほんの一部しか照らせない。ただ、そんな懐中電灯の明りでも辛うじて分かったのは、洞内には奇怪な形式をした大小の建造物がぎっしりと、そしてどこまでも建ち並んでいるという事だった。
 レイルマンは一旦歩みを止め、ジャマルの方を向いた。
「ここはな、遥か昔に滅んだ古代の都市の遺跡なのだ」
 レイルマンは懐中電灯をランタンに持ち替えた。こちらの方が光が広がって、より広い範囲を照らす事ができる。
「さあ行くぞ、ジャマル。はぐれて迷子になったら二度と地上に戻れんぞ。ははは」
 レイルマンはそう言うなり遺跡の中に踏み込んでいった。その足取りには一切の迷いも躊躇ちゅうちょもない。ジャマルはランタンの光を見失わないよう、後に付いて歩いた。レイルマンは歩きながら建造物の壁や道の様子を細かく観察している。壁の模様や道の特徴を思い出しながら進む方向を決めているのだろう。
 やがて都市の一角にそびえ立つ、一際大きく異様な建造物の前でレイルマンの足が止まった。
「うむ、ここだ、間違いない」レイルマンは感慨深げに入口や門をしばし眺めた後、中に入っていった。それから、ものの一分も経たぬうちにレイルマンの歓声が地下空間に響いたのだ。
「ようし、あったぞ! ははは! これで大金持ちだ! ははははは!」
 建造物の内側の、広い中庭のような空間の中央に、何かが無造作に積まれて山のようになっていた。金や銀といった貴金属や、ルビーやサファイア果てはダイヤモンドといった宝石を用いた宝飾品が積み重なる、そんな文字通りの宝の山がランタンの光を瞬くように反射させて二人を迎えたのだった。
 ジャマルはそれらの一つを手に取ってみた。信じられないような輝きを放つ無垢のプラチナに大粒のエメラルドがあしらわれた首飾りだった。
「触るな!」レイルマンが鋭く叫んだ。ジャマルが思わず手を放すと、首飾りは地面に落ち、重々しい音を立てた。
 いつの間にかレイルマンは拳銃を手にしていた。その銃口はジャマルに向けられている。空いている方の手で下ろした背嚢を探り、中から厚手の布袋を取り出した。
「そのお宝を掻き集めて、こいつに入れろ。一つでも多くな」
 ジャマルは無言で肯くと、袋を広げて地面にしゃがみこみ、宝物を一つずつ入れ始めた。
「レイルマンさんの目的は最初からこれだったんだね。どうしてこんな秘密を知ってるんだい?」
 ジャマルの問いにレイルマンは口の端を歪めて笑みを浮かべた。
「若い頃、ここいらで『仕事』をしていたと言っただろう? これはその時の忘れ物さ」

*  *  *

 砂漠の道なき道を渡り、二台の軍用トラックがハダッド村を訪れた。ここは前線から遠く離れているし、極めて辺鄙へんぴな地だ。何の用かは分からないが、おそらく拠点間の移動中に迷いでもしたのだろう。
 村長のファタムが代表して彼らを出迎えた。トラックからは戦闘服の男が降り立った。戦闘服の襟から延びる太い首には、顎にかけて特徴的な痣があるのが見えた。
「ハダッド村の村長、ファタムと申します。道にお迷いでしょうかな? それとも水や食料などをご所望でしょうか?」
「我々は道に迷った訳ではなく、水も食料も今は必要ない……もっと良い物を探しに来た」そう言って男は口の端を歪めて笑みを浮かべ、素早く拳銃を抜いた。
 乾いた銃声とともに、ファタムが地面に崩れ落ちた。それを合図にトラックから兵士たちが一斉に飛び出した。皆銃器を手にしている。
 集まって見物していた村人たちは逃げようとしたが、すぐに包囲され、ある者は機関銃の餌食となり、またある者は小銃弾を受け、たちまち死体が積み重なっていった。さらに兵士たちは一軒一軒念入りに家捜しして、隠れていた女を犯し、子供を小突き回して弄び、最後になぶり殺した。あたかもスポーツを楽しむかのように、兵士たちは殺しを楽しむのだ。
 その阿鼻叫喚を背に、二人の男が村長の邸に押し入っていた。一人は最初に村長と話をした男で、もう一人は戦闘服ではなく薄汚れたトーブに身を包んでいる。
 それぞれ家中を引っくり返して何かを探していたが、トーブの男が戸棚の中を覗き込みながら叫んだ。
「レイルマンさん!」
「あったのか、ザスーム」
 レイルマンはすぐさま隣の部屋から駆けつけた。
「ありましたよ。こいつでさ」そう言ってザスームは右手をレイルマンに差し出した。
 磨き上げられた明灰色の石で出来た飾りのようなものがザスームの手の平の上に乗っていた。細い革紐に通されて首にかけられるようになっている。表面には複雑な彫刻が施され、それとぴったり同じ形に細工された黒色の石が嵌め込まれていた。
「へっ、本当にあるとはな。面白くなってきやがった」
 レイルマンはまたも口の端を歪めて笑みを浮かべると、飾りを自らの戦闘服のポケットに放り込み、ザスームと共に邸を出た。
 邸の前は広場になっていたが、死体が山と積まれ、流れた血液が池のようになっていた。その傍らへ僅かに生き残った村人が集められている。怯えきっている村人たちを見て、レイルマンはまたも口の端を歪めた。
 それから一時間ほどのち、二台の軍用トラックは炎に包まれたハダッド村を後にした。

 長引く戦争は兵士たちの軍規を大きく緩ませていた。それが民間人を殺す事も厭わない、半ば盗賊のような集団をいくつも形成させた。この軍用トラックの一団も同様で、ザスームを除いて全員が正規の軍人だった。彼らは軍務や作戦行動と称して勝手に動き、不法行為を繰り返していたのだった。そしてレイルマンはそんな部隊の隊長として荒くれ者どもを束ねていた。
 ザスームは、偶然レイルマンと知り合ったまじない師を自称する男である。この男によれば、ハダッド村の近くにある鉱石の採掘場からほど近いところに古代の遺跡が埋まっており、そこには一生遊んで暮らせるほどの財宝が眠っているというのだ。
 そのためには、ハダッド村の村長が代々守っている『鍵』を手に入れねばならない。もちろん村長が黙って渡す訳はなかろうが、力尽くで奪えばいいだけだ。
 レイルマンはその与太話に乗る事にした。どちらにしても破壊と殺人を楽しめる。本当に与太話に過ぎなければその場でザスームを殺すまでだ。

 岩山の渓谷の三方を岩壁に囲まれた袋小路でザスームは『鍵』を面前に掲げ、呪文を唱え始めた。唱える呪文は短いフレーズの繰り返しだ。レイルマンはこっそりと、その呪文をメモ帳に書きとめたのだった。
 かくして入口は開かれ、古代都市は永い眠りから覚めたのだった。荒くれ者ばかりの兵士たちは先を争って突入し、そして感嘆の声を上げた。遺跡はまるで宝物倉庫だったのだから当然だろう。奇怪な形の建造物の中に、大量の宝飾品が隠されていた。古代都市はどこまでも続いている。つまり都市が続くうちは宝の発見も続くという事だ。
 レイルマンは都市のうちでも一際高さのある建造物を選び、その下の中庭に宝物を集めるよう指示した。すると見る見るうちに、宝物ほうもつが山と積まれていった。全員で山分けしてもなお余りある。見る度に高さを増していくその山に、皆が高揚した。しかし、その高揚はただ一つの報告によって終止符を打たれたのだ。
 副長のフリッツが慌てて駆け込んできて、レイルマンに告げた。
「大変です、隊長! ミゲルの死体が発見されました!」
 まさに晴天の霹靂へきれきだった。報告によれば、ミゲルは咽喉笛のどぶえを鋭利な刃物で一刀の元に切り裂かれ、恐らくは即死したものと思われるという。遺跡で見付け、気に入って下げていた首飾りも何者かに奪い取られていた。
 嫌疑は、この隊随一のナイフの使い手であるオットーに向けられた。
「あの屈強なミゲルが殺されちまうなんて……」「声も上げさせずに一撃で咽喉を切っちまうなんて真似、オットーくらいにしかできねえよ」「……そういえばオットーの姿を見かけねえな」「あいつ、まさか……」
 兵士の中にたちまち疑心暗鬼が広がっていくのがレイルマンの目に見えて分かり、慌ててなだめたが聞き入れられなかった。何しろ一人また一人と行方が分からなくなり、ミゲルと同様咽喉笛を切り裂かれた死体となって発見されていくのだ。このままでは宝捜しなどできはしない。
 男たちはオットーを狩り出そうと、数人のグループに分かれて、オットーが逃げたと思しき都市の奥に入り込んでいった。が、たちまち返り討ちに遭い、死人が増えるばかりだった。
 確かに、この暗く狭い場所では銃よりもナイフの方が効率が良いのは間違いない。しかし、本当にこの人数を一人で殺し、宝を独り占めするつもりなのか? 確かにオットーは敵と認めた相手に対しては人一倍非情な男だったが……それにしても非情過ぎはしないか? 精神に異常をきたしたのではないか? 豪胆で鳴らしたレイルマンですら腹の底が震え出していた。
 そして最も恐れていた事態が起きてしまった。兵士たちはパニックと恐怖に脳を侵されてしまった。不安から口論となり、それが小競り合いを生んだ。そして、あろうことか最後には殺し合いにまでエスカレートしたのだ。もうこうなっては止める術はない。
 レイルマンは巻き添えを食わぬよう建造物の陰に隠れ、音だけで外の様子を窺っていた。怒号と悲鳴と銃声があちこちから聞こえ、やがて静かになった。全くの静寂に思えた。踏み出す自分の足音に驚くほどの静けさだった。
 通りに出た途端、何か柔らかいものを踏み付け思わず後退あとずさった。踏んだのは、ザスームの死体だった。よく見ると他の兵士の死体も到る所に転がっていて、道路に流れ出た血液がランタンの光を反射してギラギラと輝いている。もう生きているのはレイルマンしかいない……。
 いや、もう一人、オットーがどこかにいる……どこからか俺を狙っている……。
「ヒイッ!」短い悲鳴を発してレイルマンは出口を目指して走った。
 そうして先ほど入ってきた隧道に辿り着いたとき、何かにつまづいて地面に倒れた。またも誰かの死体が道を塞ぐように転がっていたのだった。
 オットーだった。体中を切り裂かれ、血にまみれていた。恐らく手負いの状態で逃げようと、ここまで来て力尽きたのだろう。刀身が半分に折れた愛用のコンバットナイフを握り締め、見開いたままの目は真っ直ぐにレイルマンを見詰めていた。
 もう声も出なかった。隊の皆と同様に恐怖とパニックがレイルマンを支配していた。今にもオットーが目を覚まして追いかけてくるような妄想にかられ、必死に隧道を走り抜けた。洞窟から峡谷にまろび出て、太陽の光を浴びてようやく強張こわばっていた体がほどけ、自由に呼吸できるようになった。
 ようやく落ち着いたレイルマンはトラックに戻ろうと歩きだしたが、数歩歩いたところで突然の地鳴りに歩みを止めた。後ろを振り向くと、古代都市への入口は塞がって跡形も無くなり、ただ岩壁がそり立つばかりだった。
 戦闘服のポケットには幾つかの宝飾品と、石の『鍵』が入っていた。

 それから一年ほどで戦争は終わった。どうにか戦場を生き延びたレイルマンは国に帰ると持ち帰った宝物を売り払った。あの遺跡にあった量からするとほんの僅かだが、これだけでも十分過ぎるほどの金銭を得ることが出来た。それを元手に一旗上げ、清濁併せ呑むうちに月日が経ち、気付けばそれなりの地位と名誉を手にしていた。
 風向きが変わったのは突然だった。レイルマンの経営する会社の粉飾決算や使途不明金が発覚し、巨額の損失が出ていると株主が騒ぎ出した。あれだけ賄賂を掴ませ、裏金や資金洗浄などの便宜を図ってやっていた政治家や役人連中はスキャンダルが表に出ると皆知らぬ顔だ。火消しのためには、とにかくこの莫大な損失を補填しなければならない――それも極めて速やかに、だ。
 ならば、もう一度あの古代都市に行くしかあるまい。
 金庫の奥底に眠らせていた石の『鍵』を手に、レイルマンはひっそりと出国した。

*  *  *

「ここに向かう途中でクルマが故障してしまったのは大きな誤算だったよ。だがお前のお陰でどうにかここまで来れた。礼を言うぞ、ジャマル」
「こんな荷物を担いで砂漠を渡る気かい?」
「いや、お前を人質にしてラクダで街まで行く。それでこの砂漠とはおさらばだ」
 突如、空を切る音と共にレイルマンの右腕に一本の矢が突き刺さった。
「ぐあっ!」
 レイルマンは思わず拳銃を取り落とした。すると、さらに間髪入れずもう一本の矢がレイルマンの右の太腿に深々と突き立てられたのだ。
 たまらず地面に這いつくばるレイルマンの元に、白い人影が音も無く現れた。
「レイルマンさん、そのまま動かないでいてもらえますか」
 それは白いトーブに身を包んだアハメドだった。油断無く弓に矢をつがえ、しっかりとレイルマンに狙いを付けている。
「ジャマル、『鍵』を取り返すんだ」
 ジャマルは肯くと、すぐにレイルマンに駆け寄り、首元から『鍵』を奪った。レイルマンは観念したか抵抗する素振りもない。
 アハメドはジャマルから手渡された『鍵』を確認した。
「うむ、間違いない。これは我が村に代々伝わってきたものですから、返してもらいますよ、レイルマンさん」
「アハメドさん……あなた、私の正体を知っていて、泳がせていたのですかな」痛みに耐え、喘ぎながらレイルマンは訊ねた。もはや足には力が入らず抵抗するどころか立ち上がる事すらできない。
「その通りです。ジャマルからあなたの、そのあざについて聞きましたのでね。しかし人違いである可能性は捨て切れませんから、確信が持てるまで待っていたというのが正確です」
「見事に罠にかかったという訳ですな……」
「あなたが村の民を虐殺した時、最後に手に掛けた少年を覚えていらっしゃいますか? 拳銃で撃った後、燃え盛る家の中に放り込んだ少年を」
 ふと、レイルマンの目前に五十年前の光景が甦った。確かに、あの広場に集めた十数人の村人を楽しみながら殺していき、最後に残ったガキは俺が撃った――村長の息子だとか言って生意気な目をしやがって、癪に障ったんだ。そして油を撒いて火を点けた家の中に蹴り入れてやった……。
「それが、私の父、つまり先代の村長です。奇跡的に助かったのですよ。おそらく部下が油を撒く際に手抜きをしたんでしょうな。弾丸も急所を外れていたそうです。ただし体中に火傷と銃創の痕が残りました。父にはその傷痕と共に、この時の様子とあなたの特徴――特にその痣を、何度も聞かされましたよ。父の苦しみとあなたたちに殺された無辜の村人たちの無念もね。こうして復讐の機会が来た事で皆浮かばれます」
「……そうか、この村では言い伝えを大事にする……」
「そうです。あなたの最後も言い伝えられるでしょう。ただし、正確な言い伝えとはなりませんな。我々はもうここを引き上げますから――あなたを残してね。ここは我々のような者が長居して良い場所ではありません」
 レイルマンの目が狡猾な色を帯びた。
「どうだろう、アハメドさん。こっそり助けてはいただけませんか。この宝を山分けにしましょう。六四、いや七三でいい。莫大な富だ、村もきっと潤う……」
 アハメドは小さく溜め息を吐き、軽く頭を左右に振った。
「我々は『鍵』さえ戻ってくれればそれで良い。それにこの財宝は不可触のものです。世界のどこかで眠っているこの遺跡のあるじと、その眷属はいつか戻ってきます。その時のために、我々はここを守らねばならないのです」
 レイルマンは失望の色を顕わにした。
「私をここに取り残して飢え死にでもさせようというのか」
 アハメドはまた同じように頭を振った。
「いいえ、あなたへの裁きは、主の『使い』が下します」
「つ、使い?」
「あなたは仲間割れで皆が殺し合ったから部隊が全滅したと思っておられるが、果たしてそうでしょうか。もちろん互いに殺し合って死んだ者も幾らかはあるでしょうが……」
「ど、どういう事だ?」
「そろそろ来る頃です。その時になれば分かるでしょう。我々はここで失礼させていただきます」
 ランタンに照らされる範囲を出て暗闇の中に消えていった二人を見送りながらレイルマンは、あの仲間割れの状況を思い出そうとした。
 最初にミゲルがやられた――咽喉笛を切り裂かれて――そして次々と同じように殺されていった。オットー以外に出来る者などない。……しかし実際にオットーが犯行に及んでいるところは、誰も見ていない……。そしてオットーも死んでいた……いや、それは誰かに見付かって殺し合いになったからではないのか? そうでないなら誰がオットーを殺したのだ?
 ふと何かが動いたように思い、目を凝らした。が、何もいない。しかし、ひたひたと何かがこちらに近付いて来るような気がしてならない。
 慌ててさっき落とした拳銃に手を伸ばした。必死に転がり、身体を伸ばしてどうにか拳銃を拾う事ができた。しかし右腕は使えないため、慣れない左手でぎこちなく構える他ない。

「ディア・ラム・マソクウェス・イニ・シィヨヌグロー」

 ふいに左の耳に唸るような声が流れ込んできた。思わずそちらに顔を向けると、いつの間にかレイルマンの左手一メートルほどのところに誰かが立っていた。身長は一五〇センチほどで、暗緑色のローブをすっぽりと被っている。もしや、こいつが『遺跡の主の使い』か?
「ひいいっ!」
 レイルマンは身体を捩じりながら拳銃を『使い』に向けた。そして迷わずにトリガーを引いた。……いや、引いたつもりだった。引くことはできなかった。
 拳銃を持った左手が、手首からぽろりと落ちた。切断された手首は拳銃を握ったまま地面を転がり、血液がその軌跡を描いた。
ぎああああああああああああ!
 レイルマンの悲鳴が地下空間にこだました。他にできたのは、手首から先を失った前腕を血走った目で見る事だけだった。切断面から止めどもなく血が噴き出し、レイルマンと彼の周りの地面を真っ赤に染めていった。

「ヌティリ・ハルタカル・ヌ・ピヌノイグビトゥイン・フ・クマーテ」

 またも唸るような声を『使い』は発した。言葉は分からぬが、どうやら『裁き』が下ったようだ。レイルマンは悶えながら顔を上げた。
 ローブのフードがめくれていた。鱗に覆われ、まだら模様をした、爬虫類と人類の合いの子のような生物、それが『使い』なのだった。その手には湾曲した大型ナイフがある――いや、あれはナイフではない、鉤爪かぎづめだ――肉食恐竜のような発達した大きな鉤爪が人差し指に当たる部分に備わっているのだ。
 『使い』は腕を軽く曲げ伸ばしし、だらりと下げた。それは大事な儀式だったのかもしれないし、それとも単にウォーミングアップだったのかもしれない。何にせよ、それがレイルマンの見た最後のものとなった。

*  *  *

 瞬時に間合いを詰めた『使い』は、罪人の右脇をすれ違うように通り抜けた。通り抜けざま放たれた鉤爪は、一見無造作だが罪人の頚部右側面から右の頚動脈、気道と食道、さらには左の頚動脈までを一瞬のうちに切り裂いていた。
 『使い』は振り返りもせず、そのまま暗闇の中へ消えていった。

<了>

いつもサポートありがとうございます! (╹◡╹)ノシ