"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第2章〈2〉
<なんとか特別研修生として残してもらったのはいいものの……小池一夫先生がおっしゃっていた"壁"が立ち塞がる>
気がつくと年が変わり、どうにかこうにか、特別研修生として残ることが許されていた。
六十名いた同期生が、ちょうど半数の三十名になった。
週一回だった講義が、月に一回になった。
少し物足りない気もしたが、受講料は無料である。贅沢は言っていられない。
そもそも残してもらったことに感謝するしかない。
大学を卒業して二年目に入っていたが、相変わらずのアルバイト暮らしである。
ここに至って、ようやくというか、やっとというか、
(なんとかデビューして、漫画原作でやっていくしかないのかもしれない……)
そう考えるようになっていた。
他にできるようなことは、何ひとつ思い浮かばなかった。
(なにしろ、車の運転ですら、満足にできないのだ)
自分が就職にむいていないことは、ますます分かってきていたし、かといって、起業したりする能力などありはしない。
フリーでやっていくしか、自分には道はないと思った。
が、思っているだけでは、何も先へは進まない。
(そういえば……)
ふと、閃くものがあった。
(劇画村塾のスーパースターの高橋留美子先輩や狩撫麻礼先輩も、いい作品を作られて、出版社へ紹介してもらったという話だったな。俺もそうしてもらえるといいんだけど……)
なんとも甘く、畏れ多い考えだったが、 塾生のプロデビューのきっかけとしては、それが一番の早道というか、王道のようだった。
とはいえ、結局は、作品次第である。
小池先生なり、事務局のSさんなりが、
「この作品なら、出版社に紹介してやってもいいだろう」
と、推薦できるレベルのものを作り上げるしか、術(すべ)はないのだ。
気は急き、焦ったが、特別研修の講義は月一である。課題を提出できるのも月に一回だ。
つまり、多く見積もっても一年で十二回のチャンスしかない。その十二回の間に、”商品”として認められる作品を書けるかどうかにかかっていた。
特別研修生として残してもらったのはいいが、さらに厳しい道が眼前に延びていた。
ちょうどその頃、自分の焦りを加速させる出来事があった。
東京に続いて、神戸と仙台でも小池一夫劇画村塾が開講されたのだ。
その様子は、特別研修の講義でも、小池先生がしばしば話されるようになった。
「神戸には優秀な塾生が多いぞ」
「仙台もなかなか凄い子達がいた」
次々とライバルが増えていく気がして、落ち着かない気分にさせられた。
懸命に課題作品を書き、提出を続け、小池先生から講評はいただいていたものの、それ以上のお話はなかった。
そうこうしているうちに、神戸劇画村塾第一期生の中から、漫画コースではNさん、原作コースではSさんの名前が、しばしば上がるようになった。
講義で、小池先生から見せられたNさんの漫画原稿は、華麗そのもので、キャラクターに華があり、新しい世代の才能を感じさせるには十分な煌めきがあった。
Sさんの原作原稿のほうも、自分が課題で書いているような作風とは異なり、良質の文学作品を思わせるような、独特の個性みなぎる読み切りだった。
自分より明らかにレベルの高い才能に接した時、
(負けてたまるか!)
と、闘志を燃やすタイプと、
(あ…こりゃダメだ。負けた)
あっさり白旗を掲げるタイプの二種類の人がいると思うが、自分は完全に後者のほうだった。
Nさんは素敵な絵を描けるうえに、キャラクターもストーリーも自分で作れる。
Sさんは、作品に強いテーマ性があり、深みあるキャラクターがきっちり構築されている。
どこをどう比べても、自分がかなう相手ではなかった。
(真っ向から対抗するなんて、とても無理だ。ぜんぜん違うフィールドで、こっそりと、自分は自分の道を行くしかないな……)
溜め息とともに、そう思った。
思ったが、その自分のフィールドが、まったく見えていなかった。
(俺にはこれしかない!)
という自分なりの得意分野、自分だけにしか描けないようなキャラクターと世界が、暗中模索の状態だったのだ。
その後、Nさんは「もう、いつプロデビューしてもおかしくない」と言われ、Sさんは、当時、某誌で開催されていた漫画原作大賞で受賞もされて、順風満帆の様子だった。
(ああ、恵まれた才能のある人達はいいよなあ……)
遥か遠くの高い山を見上げるような気持ちで、またしても悶々とした日々の中、アルバイトと課題原稿執筆の日々が続いていた。
ひたすら原作付きの漫画の単行本を古本屋で買ってきては読むようにしていたが、小池先生が講義で言われていた"壁"が、実際に自分の眼前にも立ち塞がるようになっていた。
「そのうち、漫画を心から楽しんで読めなくなるようになる」
「原稿を書く時、キャラクターが、煙草を吸っている、その煙草を灰皿に入れるのか、足下で踏み潰すのか、投げ捨てるのか、どういう行動をとらせて、その描写を書くべきかどうか、細かいことで悩むことになる」
まさしく、その通りだった。
それまで気軽に接していた漫画を、
(なるほど、こういうふうにしてキャラクターを起てているのか)
(ははあ、ここでこのアイディアを入れて、読者を飽きさせないように計算しているんだな)
分析しながら目を通す癖がついてしまっていたのだが、やがて、読むこと自体に苦痛を感じるようになってきた。
あくまで娯楽として読むものを、いちいち小難しく頭の中で分析しているわけだから、つまらなくなってきて当然である。
そして、自分が課題の原作原稿を書く時も、
(こいつがかぶっていた帽子を脱ぐシーンを書いたけど、その帽子をどうすりゃいいんだ? テーブルに置くのか? 帽子掛けに掛けるのか? ずっと手で持っているのか? いや、そもそもそんな行動を書く必要があるのか?)
キャラクターの細かい動きが気になって、仕方がなくなってきたのだ。
そうなると、なんだか思いきって書けなくなり、果ては、
(こんなふうに書いて、これ、面白いのか?)
と、作品に自信が持てなくになってしまった。
今から思うと、様々な焦燥感から、他人の作品も自分の作品も冷静に見ることができなくなり、ちょっとしたスランプめいた状態に陥っていたのだ。
だが、その当時は、客観的に自分自身を見ることもできず、ただただ、古いアパートの部屋で足掻き続けていた。
そんなある日。
いつものように月一回の特別研修の講義に出向くと、
「今度、みんなの優秀な作品も載せることができる商業誌を発行することにしたんだよ」
小池先生がそう告げられた。
「”コミック劇画村塾”っていうんだ。まんまだけどね」
コミック劇画村塾! 商業誌! 塾生の作品も載る!
それを聞いて、久々に胸の高鳴りを覚えた。
(ひょっとすると、こンな俺にもチャンスがあるかも……!)
そして、その「コミック劇画村塾」の創刊に合わせて、新旧の村塾生が一堂に会するパーティが行われると発表があった。
〈続く〉
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