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"キャラクターを起てろ!"劇画村塾第4期生 第3章〈6〉

 <”ツーカー”岡村賢二先生との出会い〜"文字"で漫画を"書く"原作者という存在の特殊性と"ブランド力">
 
 岡村賢二先生との出会いに際して、どうしても書いておかなければならないのが、先述した原作者のタイプに関するエピソードである。

 小説家の酒見賢一先生が、某雑誌のインタビューで、
「漫画原作者は育てたりするのではなく、どこかにいるのを見つけてくることしかできない」
 というニュアンスのことをおっしゃっていたが、これは至言だと思う。
 最近では、元々は漫画家だった人がネームによる原作を切るようになって、漫画原作の形態も変わってきたが、少なくとも文章で原作を書く原作者にあっては、確かに、原稿を持ち込んでとか、小説や脚本の賞に応募してとか、そのような形でなった人達は、当時はほとんどいなかった。
(後に、梶原一騎先生の御名前を冠した"梶原賞"などの原作専門賞も創設されるようになる)

 なぜなら漫画の文字原作というやつ、小説でもなく、脚本でもなく、まさに”漫画のための原作”としか言いようがない、独特のものだからである。
(そもそもどのように書くものなのか、書き方が分からないといった人達が多かったはずだ)
 そこに必要とされるのは、文章の上手さでもなく、俳優や声優が語ることになるセリフの巧みさでもなく、あくまでも、漫画として見せる画のアイディアや、眼で読ませるセリフの鋭さである。
 それらを表現するためには、どれくらい漫画というメディアの特質を掴み、画を描いてくれる漫画家の才能をどのように引き出すかという、ある種、本能的な”駆け引き”の才覚
が要求されるのだ。
(様々な俳優とやりとりする演出家や映画監督の立場に近いと言える)

 その才覚は、基本的には習ったり教えられたりするものではなく、漫画に対する愛着と勘のようなものが大きなウェイトを占めている。
(したがって、小説家や脚本家から漫画原作者に転身して成功した人は少ないが、漫画の編集者や漫画家からなり得た人達は数多い)

 自分にしてからが、劇画村塾で小池先生から学ばせてもらったのは、テクニック的なことも多々あったが、要は、

「漫画というメディアの特質や特性を把握したうえで、いかに独自のセンスでキャラクターを起てるか」

 それに尽きる。

 そして、そのような命題を背負った漫画原作者には、明確にタイプがある。
 そのタイプのことを狩撫先輩は、よく”ブランド”と表現していた。
 自分は、狩撫先輩には、

「おまえはまだ、ぜんぜん自身のブランドを確立していない」

 と、しょっちゅう言われていた。
 最初の頃は、なんとなくしか分からなかったが、少しずつ経験を重ねるにつれ、その意味するところが、実感できるようになってきた。
 例えば、狩撫先輩などは顕著だと思うが、漫画家が誰であれ、それが狩撫麻礼の原作であるとすぐに分かる。
(後年、狩撫先輩は、狩撫名を封印し、いくつかの別名義で原作を書かれていたが、誰が原作者なのか、すぐ分かった)
 梶原一騎先生や小池一夫先生も、また然りである。
 自分にはそこまでの"ブランド力"は、とうてい身に付いてなどいなかった。

 が、小説家でも脚本家でもなく、漫画原作者としての資質みたいなものは、ほんのわずかな がらだが、自分にもあるということは見えてきていた。
 物凄く大雑把に言うと、小説の場合は文字で、脚本の場合は動画で、自分が構築しようとする作品の世界をイメージし、文字化する。
 漫画原作の場合は、それが文字でも動画でもなく、コマの画、それもコンビを組む漫画家が描く一コマの画としてイメージできる資質が必要になってくる。

 さらに、その上に立脚した"ブランド力"となると、そう簡単に体得できるものではなかった。
 ほんの少しの資質しか持っていないのであれば、ひたすら原稿を書いていく中で、実地で獲得していくしかない。

 自分なりに、それがなんとなく掴めかけてきたのが、土山しげる先生や猿渡哲也先生と組ませてもらったあたりからで、さらに手応えを感じ始めたのが、岡村賢二先生とのコンビで一連の作品を発表するようになってからである。

 岡村賢二先生との最初の出会いは定かには覚えていないのだが、『アクションキャラクター』の編集長だったOさんと担当編集者だったSさん、お二人の仲介の御尽力があったことは確かだ。
 編集のお二人とも気が合ったが、人間的にも、原作者と漫画家という立場においても、岡村先生とは、余計なことを言わなくても、すぐに通じ合える関係になった。
 ”ウマが合った”というやつである。

 先述した梶原先生と川崎先生の関係もそうだが、小池先生からも、

「こっちがちょっと書いただけで、よし、分かったと、即座に理解してくれる漫画家の存在は本当に貴重だよ」

 と聞いていたので、岡村先生との出会いは、自分にとって大きなエポックの一つとなった。
 いくつかの読み切りや短期集中連載の作品も作った覚えがあるが、なんといっても、『グラップキッズ』が、まず代表作の一本になるだろう。
 前述したが、この時期、たなか亜希夫先輩達と、プロレスの新生UWFや、初代タイガーマスクの佐山聡さんが創始されたシューティング、シーザー武志さんが主催するシュートボクシングなどの観戦にハマっていた。
 時には、同好の編集者諸氏もまじって、ずいぶんと試合会場には足を運んだ。
 実際の観戦だけでなく、普及し始めた頃のレンタルビデオショップにも足繁く通い、それらのビデオを借りてきては繰り返し観たり、関連本という関連本を買い集めては、技の研究に余念がなかった。
 そんな"余技"からの発想を活かして書いたのが、『グラップキッズ』だった。
 (グラップは、格闘技におけるグラップリング=組み合いからとったタイトルだった)

 同作の原作を書くことで、

「キャラクターを起てることによって、いかにそのキャラクターにテーマを背負わせるか」
「自分が最も得意とすることを、象徴的に作品の中に入れ込む」
「漫画家の琴線をくすぐる原作のポイントを何にするか」
「毎回読み切り作品の引きをどこに置くか」
 
 といった、それまでに、おぼろげに見えていた要点の一つ一つが、より明確に視界に捉えられるようになった。
 さらに、猿渡哲也先生との『DAN-GAN』に続いて、『グラップキッズ』によって隔週連載を経験できたことで、

(自分は漫画原作者には向いていないのではないか……)

 という疑心の闇からも、どうにか脱出できた。

 同時に、漫画家と原作者の日常における関係性、二人で組んでの編集者や出版社との付き合い方など、いわば社会面でも学ばせてもらったことが数多くあった。
 まだ、コミュニケーション能力うんぬんといったことが喧伝されていない時代ではあったが、アルバイト以外ではまともな社会人経験がなかった自分にとって、これは大いに勉強になることだった。

 特に、漫画原作者は、必然的に、漫画家と編集者、最低二人の人達とは上手くコミュニケーションを取る必要があり(この上手くには、様々な意味が含まれるわけだが)、先輩諸氏は皆、相応の社会経験者ばかりで、その点も強く影響していることは確実だったからだ。
(小池先生は農林省でのお役人経験があり、狩撫先輩もジャズ喫茶の経営者だった)

 とまれ、『グラップキッズ』は、双葉社の「アクションキャラクター」が残念ながら休刊になった後も、光文社の雑誌へと舞台を変えて『グラップガイズ』として復活する。続けて、新作『NY大和組ソウルズ』も連載することになる。
 さらに岡村先生とはリイド社の雑誌で『シャングリラ』、次いで『鉄機剣士・武王伝』や『烈王』といった作品で、「月刊少年サンデー」や「ヤングサンデー」といった小学館の雑誌へも進出を果たすことになる。
 そこから集英社の「月刊少年ジャンプ」へと移り、長期連載となった『宇強の大空』や『龍猿』を発表することへも繋がってゆく。

 それぞれの作品の裏には、それなりの思い出が数多くあるが、はっきり言えるのは"ツーカー"の仲となった岡村賢二先生との出会いによって、漫画原作者のみで完全に食えるようになり、経済面でも想像以上に安定した生活が送れるようになったということだ。
 改めつて、ただただ感謝であります、岡村先生!!

 そンなラッキーな流れの中で……。

 改めての"再会"とまたしても新しい"出会い"があり、自分の漫画原作者体験の中でも、時代とも並行しての、いわば最高の"バブル期"へと突入して行く!

〈続く〉

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