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"キャラクターを起てろ!" 劇画村塾第4期生 第3章〈5〉


〈"アクション漫画のスーパーエース"猿渡哲也先生との出会いが、さらなるステップアップに〉

   漫画原作の仕事でなンとかかンとか食えるようになってからも、スタジオ・シップ本社へは、ちょくちょく顔を出し続けていた。
 小池先生のマネージャーさん達や前出の社員のOさん、アシスタントさん達の交流が楽しかったし、たまにピンチヒッター的に短編読み切り原作の仕事なども依頼されたからだ。
 何よりもたまに小池先生にお会いできることもあって、その都度また色々と面白い逸話などを教えてくださり、それがとてもプラスになった。

 小池先生は、創刊からずっと『週刊ヤングジャンプ』で連載を持たれていた。
 (永井豪先生と組まれたハチャメチャギャグの『花平バズーカ』が創刊当初の作品で、続く川崎のぼる先生との本格ハードボイルドアクション『長男の時代』は、まだ一読者にしかすぎなかった自分も、多大なる影響を受けた)
 その当時は、期待の大型新人であった井上紀良先生と『デュエット』を連載されていたが(井上紀良先生には自分も後にたいへんお世話になることになるのだが、それについては改めて記します)、『週刊ヤングジャンプ』の担当編集者はOさんという人だった。
 このOさんは、漫画の編集者というより、ファッション系の雑誌が似合いそうなキャラクターだったが、スタジオ・シップ本社で何度か顔を合わせることがあった。
 ある時、
「梶君さ、増刊号でちょっとやってみない?」
 Oさんに、いつものかるいノリで声をかけられた。
 話を聞いてみると、『週刊ヤングジャンプ』で増刊号を出すことになり、そこに猿渡哲也先生が読み切りを描かれるので、その原作を担当してみないか、という話だった。
「お、俺なんかでいいんですか?」
 突然のメジャー誌からの依頼で、さすがにドギマギした。
 だが、引き受けない手はない。
 Oさんのおかげで、その後、長きに渡ってお世話になる集英社との関係が始まったのだった。
 しかし、ギリギリ食えるようになってはいたといえ、まだまだ修行中にも等しい身、事はそう簡単にはいかなかった……。

 増刊号は、Oさんの上に、実質上の編集責任者で、後に『週刊ヤングジャンプ』の副編集長となられるMさんがいた。
 このMさんは自分よりかなり歳上だったが、初対面から、なぜか気が合った。(と、自分で思い込んでいただけかもしれないのだが、その後も、Mさんにはひじょうに良くしていただくことになる)
 Mさんから、
「漫画家は猿渡哲也さんなンだけど、知ってる?」
 と言われ、一驚した。
 知ってるも何も、猿渡哲也先生といえば、注目のアクション漫画のスーパーエースではないか!
 動転動揺しているこちらを尻目に、Mさんはテキパキと猿渡先生の担当編集者であるKさんを紹介してくださった。
 さっそくKさんも参加されての打ち合わせがあり、こういうカラーのものを書いてほしいとリクエストがあった。
 そして、Oさんが担当となって、あれよあれよという間に原作を書くことになった。
 まずは、プロットを出してほしいとのことで、とにもかくにも慌てて書いて提出した。

 ところが……。

 何度書いても、ぜんぜんOKが出ないのだ。
 初めて受けるメジャー雑誌の厳しい洗礼だった。
 『週刊ヤングジャンプ』本誌だけでなく、増刊号も含めての青年漫画誌の全権を掌握しているのは、名物編集者と名高いSさんだった。(大ヒット漫画のキャラクターのモデルにもなられたりして、雑誌にもたびたび登場されていたので、御名前とお顔だけは以前から自分もよく知っていた)

 アパートで、眠れないままに、うんうん呻吟していると、電話が鳴った。
 飛び上がったが、案の定、Oさんからだった。

「編集長のSさんがちょっと話があるというので、代わるね」
「は、は、はい」

 Oさんからいつものかるい口調で告げられたが、

(天下のS編集長直々に……!)

 まるで死刑囚になったかのような気持ちで、受話器を握り締めた。

「ああ、Sだけど。緊張しなくてもいいから」

 こちらの気配が伝わったのか、S編集長は開口一番、そう言われた。

「おまえ、あんなんじゃダメだぞ。漫画家に頼るような原作じゃ、意味なしだよ」

 今、こうして書いていても当時の緊張が、ありありとフラッシュバックしてくるのだが、S編集長からズバズバと説教を食らった。
 時間にすれば、一分間くらいだったと思うのだが、とてつもなく長い時間に思えた。

(終わった……)

 と、すっかりこれでクビだと覚悟を決めたが、そうではなかった。
 再びOさんに代わると、電話での打ち合わせになった。
 しかし、S編集長の言葉にダメージを受けていた自分は、何を話したのか、まったく覚えていない。
 だが、S編集長の、

「漫画家に頼るような原作では意味がない」

という言葉は、その後の原作者人生にとって、大きな指針の一つとなるのだ。

 ズダボロになりながらも、編集者諸氏の厚情で、なんとかクビだけは免れて、原作を書き上げた。締め切りギリギリではなかったかと思う。
 あまりにも拙い原作だったが、猿渡哲也先生の実力でカバーしまくっていただき、作品は増刊号に無事掲載された。
 自分にとっては初めてのメジャー誌掲載だったが、またしても嬉しさはほとんどなく、何とか間に合ったという安堵感と、反省と深謝の気持ちでいっぱいだった。

(こんなていたらくじゃ、もう二度と『週刊ヤングジャンプ』からは声がかからないだろうな……。いや、そもそも、漫画原作者としてやっていける力があるのだろうか……俺なんかに……)

 なかり傷心めいた状態に陥ってしまった。
 だが、たなか先輩やアシスタント諸氏、スタジオ・シップの方々に会うことで、次第に気分が晴れてきた。
 ファミレスでの朝までのバカ話や、スナックでのカラオケ合戦や、ビリヤード場での玉突きなどで、ずいぶんとストレスも解消できた。
 もし、そういう仲間達との交流がなければ、

(やっぱり、俺は向いてなかったんだな、この仕事。一時の夢だったんだ……)

 と、あっさり諦めていたかもしれない。
 
 この時期は、プロレス観戦やライブなどに行く以外は、ほとんどと言っていいほど、都立大学及び学芸大学から外のエリアには出なかった。
 そのエリア内で、ひたすら仕事をし、ひたすら交遊を続け、ひたすら生きていた。
 (だからだろうが、今でも、当時の街の情景や、どこに何があったかを、ドキュメンタリーフィルムを観るように、こと細かに思い出すことができる) 

 しかし……。

 予想通り、すぐには『週刊ヤングジャンプ』からオファーなど、あるはずもなかった。 

(もっと勉強しないとマズい!)

 自分なりに焦りを感じ、ちびちびと習作を書いてみたり、企画書みたいなものを作ったりしていた。

 そんな時、思わぬところから、思わぬ話が飛び込んできた。
 『週刊ヤングジャンプ』の増刊号で組ませていただいた猿渡哲也先生が、『週刊漫画アクション』の姉妹誌である『アクションキャラクター』で新連載を起こすにあたって、自分を原作者として指名してくださったというのだ。
 『アクション”キャラクター”』なる誌名も、劇画村塾時代から、キャラクター、キャラクターと、小池先生から言われ続けてきた身にとっては、なんだか因縁めいている。

(それにしても、よく自分なんかを……)

 猿渡哲也先生には、件の増刊号では、ただただ御迷惑をおかけしただけと思っていただけに、感謝すると共に驚いてしまった。
 後でお聞きしたところによると、

「この人、ちょっとアクションが書けると思ったんだよね」

 ということだった。

 確かに、原作者のハシクレとして、アクション映画好き、アクション小説好きが昂じて、

(俺の”売り”は、やっぱりアクションかな)

 と、思い始めていた時でもあった。
 さっそく、同誌の編集長のOさん、担当編集者のSさんにお会いする運びとなった。
 OさんもSさんも、とても人柄が良く、すぐにウマが合うことが分かった。
(そのせいかどうか、これがその後の長いお付き合いの最初の仕事となった)

 猿渡先生と組ませていただくことになった作品は『DAN-GAN(ダンガン)』である。
 自分の完全オリジナル原作ではなく、もともと猿渡先生がオリジナルで描かれていたキャラクターが主人公だった。その主人公を使って、自由に展開してもらっていいとのことだった。
(あの『北斗の拳』と同じような仕事形態である)

 この仕事を受けたことで、後々、狩撫先輩から、

「自分のキャラクターで書けないような仕事をする奴は、原作者じゃねえぞ」

 と、例によって説教を食らうことになるのだが、自分は、まだ、あくまでも修行中の身だと思っていたし、猿渡先生のせっかくの温情と期待を裏切るわけにはいかなかった。
 また、小説家と同じように、漫画原作者にも、持って生まれた”タイプ”があり、それは、努力して変わるようなものではないということに、うすうす気づき始めてもいた。(この件については象徴的なエピソードもあるので、改めて後述する)
 それに、同誌は隔週誌であり、自分にとっては一つの挑戦にもなると思ったのだ。

 『週刊ヤングジャンプ』増刊号での苦い経験を糧としながら、

「漫画家に頼るような原作じゃ意味なしだよ」

 S編集長の言葉も頭に浮かべつつ、懸命に構想を練った。
 とはいえ、猿渡先生のオリジナルキャラクターが先にあるため、最も苦労する主人公作りは、半分終わっているようなものである。
 が、逆に言うと、その主人公を使って、当たり前の話になってしまったのでは、漫画家も編集部も原作者を付ける意味がなくなってしまう。彼らの想像の上を行く転がし方をす
るのが、何よりも最大の命題なのだ。
 改めて”キャラ起て”の重要性を認識するのと同時に、もう一つ、劇画村塾での小池先生の講義で思い出したことがあった。
 特に、こうしなさいと指導されたわけではないのだが、

「こうやってアイディアの連続で見せていくんだ」

 というような内容だった。
 その時、小池先生は御自分の作品を例に挙げながら、

「こんな形、こんな形、こんな形と、次々と画で見せるアイディアを投入していくと、読者はもう目が離せなくなる。もちろん、それらは、全部キャラクターをより起てるために使われているんだよ」

 と、おっしゃっていた。

 『DAN-GAN』では、すでにあるキャラクターをさらに起たせるために、画面で活きるようなアイディアを投入すべく、懸命に頭を絞ることにした。
 また、できるだけ当時の新しいネタも入れ込むようにもしてみた。
 猿渡先生がどれくらい満足されていたかは分からないのだが、なんとかかんとか、単行本で三冊分、続けさせてもらうことができた。
(猿渡先生が、古巣である『週刊ヤングジャンプ』で『高校鉄拳伝タフ』の連載が始まり、超多忙になられたことから、ここまでということになったのだと思う)

 他の月刊誌の仕事と並行して、どうにかこうにか隔週誌連載がやれたことで、次々とやって来る締め切りへの耐性もついた。
 自分としては、『週刊ヤングジャンプ』増刊号での反省を踏まえ、小池先生から学ばせてもらったことも実践できたりして、何かと大きな勉強になった一作だった。
(この作品以降、猿渡先生と組ませていただく機会はなかったが、後年、格闘技好きの作家さんや編集者諸氏一行で、アメリカへ試合観戦に行くツアーがあり、その時に久々の再会となった。猿渡先生は、出会った時と何ひとつ変わっておられず、いつもながら若々しく、とてもピュアで熱かった)

 そして……。

 この『アクションキャラクター』での仕事が、もう一人の漫画家さんとの出会いへと繋がることになる。
 梶原一騎先生が、
「川崎のぼる氏とは女房よりもツーカーになった」
 と、インタビューで話されていたが、自分にとってのそんな関係となる、岡村賢二先生との出会いがそれである。

〈続く〉
 

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