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日経の記事から自分を見つめ直す

日経新聞の官僚批判記事を読んだら、そこには僕の身の回りで起こっていることのような気がして、なぜか自分の身が引き締まった話です。

とある日経新聞の記事

一昨日からから連載された日経新聞の記事『検証コロナ・危うい統治(1)~(3)』を読みました。

この連載記事は今回のコロナ対応への批判記事で、僕も大いに賛同する内容でした。

この記事にあった失敗事例を挙げると、
・国立感染症研究所によりPCR検査の対象が「患者(確定例)」と「濃厚接触者」のみとされたため拡大できなかった。その後の批判を受けて対象を広げたものの、「確定例となる蓋然性が高い場合」という文言を残したため首相が掲げた1日2万件という目標は実現なされなかった。
・さいたま市の保健所長が「病院があふれるのが嫌でPCR検査をきびしくした」と発言
・大学病院を検査に利用してはという提案に対して厚労省は大学は文科省が絡むため拒否した
・オンライン診療を全面解禁したが既得権者の医師会の反対にあい、コロナ対応のための期間限定と中途半端なのもにした
・各地の教育委員会のオンライン授業についての議論は出来ない理由ばかり
・雇用調整助成金の申請業務はこれまでの社労士と厚労省のもたれ合いのシステムをそのまま利用した

「まぁ、エリート官僚なんて既得権益者側だからなぁ。中にいる本人たちはこういう批判なんて見て見ぬ振りだろうな」なんてテレビのコメンテーター並みに他人事な感想を抱いて初夏の車窓を眺めていたんです。コロナの影響で半分窓が開いた車窓から。今までにない心地よい風が入ってくる朝9時の電車で。

「んっ!・・・これって僕の身の回りでも起こってるんじゃないの?」とハッとしたんです。

自らのルールにこだわり現実を見ない

建築士の僕を含めて、建築の世界には「専門家」が多く存在します。その専門家が自らの領域の業務をして、リレーしていくことで最終的に建物を完成させるという世界。何も官僚に限ったことではなく、ごく身近にも自らの領域のルールに固執する人が少なくありません。

そして建築士として全体の最適解を求めなくてはならない立場の僕でも、時には自分のルールに縛られていることもあり、建築主からの何気ない一言で気付かされたりするものです。

そして、振り返るとルールに固執していたのはそれ以外に最適解がないからではなくて、答えを変更した場合に増えるであろう業務や追求されるかもしれない責任から目を逸らしているだけだということに気付くのです。

官民のもたれ合いシステム

建築の世界でも確認申請という制度があり建築士の独占業務であることから、雇用調整助成金制度と社労士との関係性と全く同じです。

御存知の通り、このもたれ合いシステムによって耐震偽装事件が起こりました。しかし、制度自体変革することはありませんでした。強いて言えば構造設計のダブルチェック体制が出来たことくらいです。

建築の世界の場合は、建築士と民間確認検査機関と役所が持たれ合っている構造です。

縦割り主義

建築の現場では「建物を建てる」という最終的な共通目的がありますから、あまり縦割り主義を感じることは無い気がします。設計段階での思想はそのまま現場へ引き継がれて行きますから、建築士が各セクションに横串を刺していくような役割なんだと思います。

防衛本能により、失敗を認められない

これは、誰しも抱える悪い癖ではないでしょうか?
「失敗は成功のマザー」と長嶋茂雄は言いましたが、日本社会ではというか全世界共通だと思いますが、誰かに影響を与える失敗を評価する社会なんてありませんから。

だから失敗は初期に修正するしかないと思います。ボヤで火を消すこと。そして、失敗を繰り返さないこと。これしかないと思っています。

変化することに対して臆病

皆さんは今回のコロナで自分の生活に変化を起こせたでしょうか?

僕は在宅ワークに切り替え、通勤から開放されました。そしてその時間を利用して料理をしたりジョギングしたり、noteを始めたりしました。

せっかくの歴史の転換点です。この変化を継続させようと思います。

多分、変化は一時的では意味がないのだと思います。

日経新聞に掲載されていたコロナ対応をめぐる官僚批判記事を読んで、これは僕の身の回りでも起こっているのかもしれないと感じ、身の引き締まる思いをしました。

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