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フェミニズムではなく「おじさん以外の人」が生きるための方法として―松田青子『持続可能な魂の利用』読解

 あなたは「おじさん」に出会ったことがありますか?正直なところ、出会ったことのない人はいないと思います。学校、会社、あらゆるところに「おじさん」はいます。あなたは「おじさん」をどう思っていますか。なんとなくマイナス、あるいは強い拒否、消してしまいたい…なんてこともあるでしょう。そんな「おじさん」の正体について考えたことはありますか?「おじさん」をどうしたらよいか考えたことはあるでしょうか?

 今回の文章では本作の「おじさん」を明らかにします。「おじさん」の性質をレヴィナスの〈顔〉の概念を使って考えます。そして「おじさん」を消滅させる活動の問題を指摘します。さいごに「おじさん」をどうすればいいのかについて考えます。

 本作の概要です。敬子は、××(平手友梨奈さんがモデルになっています)を中心としたアイドル(欅坂46がモデル)にハマります。敬子は、デモに参加し、××に出会います。日本が「縮小国」に選ばれ、将来日本を消滅させることを聞き、仲間と一緒に立ち上がります。
 日常生活のあらゆるところで「おじさん」によって魂をすり減らしながらも、「おじさん」に抗っている女性たちが、日本社会から「おじさん」を消滅させ、「おじさん」のない日本を作り、やがて消えていく物語です。

 議論の出発点とするために、本作において「おじさん」とは何を指しているのか考えてみたいと思います。

 この問いの答えに示唆を与えるのは、海外で生まれ育ち、日本のことを相対化して捉えられるエマの発言です。

 「わかんないけど、日本って特に、悪い意味で、女性のことしか見ない国だよね。家父長制が徹底しているというかさ。女性にそうさせている男性の存在は無視して、女性だけを問題にして、非難することが当たり前になってる。そのシステム自体は絶対に問題視しない。これじゃ男性はまるで透明人間。」

 フェミニズムの文脈において、家父長制とは男性が女性を支配する広範な社会構造をいいます。家父長制といっても、法制度上のものだけでなく、広く社会構造を指摘するものです。

 本作においても「おじさん」とは、中年男性そのものをさすのではなく、家父長制、男性が女性を支配する広範な社会構造を自らにインストールしている者をいうといってよいでしょう。

 「おじさん」中心の社会構造の中で生きていくことは、「女性」にとって困難なことです。

 「おじさん」の社会の中の一つの生き抜き方として「おばさん」の方法があります。それはこういうことです。

 「働くとは、「望ましい」格好のイラストを「なあなあ」にすることだ。確かに、「なあなあ」も一つの戦い方だった。一つの防御方法だった。」

 「おばさん」は、「おじさん」とのかかわる方法として「なあなあ」にするということを知っています。もっとも、それでは「おじさん」は変わりませんし、減りもしません。
 敬子はそのこと気づいており、「おじさん」の鈍感さに苛立ちます。

 「でも、「なあなあ」にしているだけでは、いいところで折り合いをつけているだけでは、こちらの意思が全く伝わらないのだと、残念ながら、そう認めるしかない状況だった。いや、伝われよ。普通にわかれよ。そう思う。それに尽きる。わからない方がどうかしてる。でも、本気でわからないらしい、もしくはわからないふりをし続けてこのまま突っ切ろうとしている相手に対してどうすればいいのか。敬子はその答えを探していた。」

 敬子の言うとおり、「おじさん」には「女性」の意志が伝わりません。コミュニケーションが不可能な存在です。

 なぜでしょうか。ここで、エマニュエル・レヴィナスの〈顔〉についての考えを借りてみたいと思います。

 「おじさん」の「女性」に対する視線は、一方的かつ不可逆的に届きます。「おじさん」は「女性」を一方的に見ています。その逆はないのです。このようは事実は、本作でも、多くの箇所で描かれています。男性の女性に対する支配関係とパラレルといってよいでしょう。「男性」がある「女性」を一方的に見るということが権力関係の現れになっているのです。

 もっとも、視線やるとき、視線を放つ主体に対して、反省を促すことがあります。
 それは、相手の〈顔〉に見返されて、気づいたときです。

 ここで、レヴィナスの〈顔〉の議論についてみてみます。
 「他者を前にして私は倫理的対応が求められているのを感じる。もしそれに応えないなら私はそのことの責任を負う。レヴィナスの「顔(visage)」という概念は、事象としてはこのような、私に道徳的対応を求めるものとしての他者の、対面の場での現出だといってよい。」
 注意するのは、「身体部分としての顔が見えるのは典型的事例に過ぎない。「顔」はこの典型的事例をもとに象徴的な意味で選ばれた語」であることです。
 単に「顔」を見たときのことではありません。あくまで、他者と対面したときに、道徳的対応を求められているのを感じる身体部分ことです。

 簡単にまとめると、〈顔〉とは他者と対面したとき、私に対して道徳的、倫理的対応を求めてくると感じる身体部分ことです。

 よく考えてみれば「おじさん」は女性の〈顔〉を見ようとはしません。「おじさん」の視線は女性の〈顔〉に向けられません。「おじさん」の視線は〈身体〉に向けられます。
 「おじさん」は、支配的な、性的対象として「女性」に視線をやります。「おじさん」は、女性の顔ではなく、身体をまなざします。したがって、おじさんは、女性に対して、他者として倫理的、道徳的対応を求められているのを感じることはありません。「おじさん」は、「女性」に対して責任を負うと感じることはないのです。

 歩は、小林にこう言います。

 「ねえ、「おじさん」って心のどこかある部分が動いてないように見えるときない?動いてない部分がどうなっているのかすごく気になるんだけど」  
 「動いてない部分、確かに」

 「おじさん」の「動いていない部分」、それは、女性の〈顔〉が見えないことに起因する、女性に対する倫理的、道徳的対応を求められているのを感じる部分、そのことなのです。

 これまで本作で、「女性」が「おじさん」を告発する、そういった面を見てきました。

 次は本作が残す課題に目を向けてみましょう。

 一つ目の課題は、「おじさん」のいない社会像を積極的に示すことができなかったことです。

 政治の決定権限を移譲された「××たちは、自分たちに課された仕事がいかに簡単であるかに驚きました。」と感じながら、政治によって社会構造を変革します。

 「なにしろ「おじさん」が自らの利益のために行っていた一切合切を、まるで緩衝材をぷちぷちと潰すように一つずつ取り除いていくだけで、見違えるような社会になるのだから。なんて面白いんだろう、と××たちは驚嘆しました。教育、労働、経済、インフラ、すべてが変わりました。これ以上発展してはいけない、という枷が、ことをむしろシンプルにしました。」

 「おじさん」を社会のあらゆるところから追い出していくとあるだけで、変革の内容について本作にはこれ以上書いてありません。
 「おじさん」を排除するだけでは社会を再構築することは当然ながらできません。「おじさん」を排除することは、新たな社会システムを構築するための前段階のはずです。「おじさん」、家父長制を取り除いたあとの積極的かつ具体的な社会を描写することはないのです。

 ただし、疑問が生じるでしょう。単に本作が書き落としただけなのではないか、という疑問です。

 しかし、そうではないことがラストシーンにおいて、明らかになります。

 「そして長いときが経ち、日本はきれいに畳まれました。」
 「私たちが体を失って、もうずいぶん経ちます。体を失ってわたしたちが発見したのは、自分の体が自分のものでしかないとき、体自体が必要じゃなくなることです。」

 全ての「女性」は、「女性以外の人」を否定してしまって、一つの自己に統合されたのです。ずいぶんSFのような発想になりますね。女性以外の人を否定することを欲しているようにも読めます。

 ともかく、本作は、家父長制を廃したあとの社会の姿を書くことができず、「おじさん」を消滅させるという目的を達してしまった女性は、他者を失い自己のみの世界に閉じ込められてしまっています。

 このような事態は、「おじさん」を消滅させたあとの想像力の限界に直面してしまっているということの表れなのです。

 もう一つ、本作の示す方向性は重大な問題を抱えています。

 それは、「女性」が「おじさん」の完全な消滅させることを目標にしていることです。

 「社会が「おじさん」によって運営されている限り、女の子は、女性はどこにいても、何をしていても、「おじさん」の手から、「おじさん」の目から、自由になることができない。最後ぐらい「おじさん」から自由になりたい。「おじさん」が決めない世界を見てみたい。「おじさん」がいなくなれば社会構造が劇的に変わるはずだ。その社会を見たい。今の社会構造にうんざりしているから、飽き飽きしているから、いい加減絶望しているから、新しい構造が見たい。」

 敬子はこう述べて、男性が女性を支配している社会構造から脱却することができれば、日本社会はよりよく変化する。そういった信念を表しています。

 しかし、実際には「おじさん」を社会から完全に消滅させることはできません。「おじさん」はあまりにも多く、いつどこにいるか、わからないからです。これは、家父長制という社会構造をラディカルに変革させることがあまりにも困難であることを意味します。

 こうして「女性」は、「おじさん」の完全な消滅に向けて、活動し続けることはできますが、決して成功することはありません。決して成功しない活動は、活動することそれ自体が目的となっていってしまいます。
 「おじさんを消滅させる活動をすること」が目的であることと、「おじさんを消滅させること」が目的であることとの間には、目をつぶることができない大きな溝があります。
 何よりも、活動それ自体が目的となってしまうと、実際に直面する個別具体的な問題に目をやり、解決することにリソースが割くことができなくなってしまうという問題が生じます。

 そこで、「女性」は、実現可能な目標を立てる必要があります。

 それは、「おじさん以外の人」がよりよく生きていけるために、「おじさん以外の人」が接する個別具体的な範囲の中で「おじさん」を減らしていくことです。

 これまで見てきたように「おじさん」は、「女性」の〈顔〉を見ていません。「おじさん」と、対話し、自分たちの意志を伝えなければ、伝わることも、わかることもできません。逃げることはできません。
 したがって、「女性」は「おじさん」に意志を伝えなければなりません。

 しかしここで重要なのは、「おじさん」への異議申し立ての義務を常に「女性」に課すことであっては決してならないことです。

 本作は、「女性」が「おじさん」を消滅させる物語でありました。「女性」が「おじさん」への対処をすべて引き受けているのです。このとき「女性」は「おじさん」ではない人は、「女性」ではなく、「おじさん以外の人」たちであることを見落としています。

 必要なのは、問題が生じる個別具体的な場面において「おじさん以外の人」が「おじさん」に対して、意志を伝えるために対話を持ちかけることです。
 「女性」は「女性」の問題であると先鋭化して引き受けるのではなくて、「おじさん以外の人」とつながって、やっていくことです。
 そして、忘れてはならないのは、「おじさん」は「おじさん以外の人」に対して、支配の対象としてではなく、配慮と尊敬の対象として対話しようとすることです。
 「おじさん」は「おじさん以外の人」の〈顔〉を見て話し始める、基本中の基本から始める必要があるのです。


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