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痛みの当事者になりきらない

前回、今後生じる価値は突き詰めるとわからないのであるから、現時点では無根拠に、えいやっと判断しなければならず、それは尊いことだということを書いた。

今日も今日とて読書をしていると、次のようなエッセイに出会った。

(…)現に痛みを訴えているひとの方は、それを聞く側が確実な知識を得るまで待っている余裕など、ないことも多い。いま、痛いのだ。いま、助けがほしいのだ。知識よりも倫理を重視するならば、不確実性に由来する不安を引き受けつつも、ともかくまずは目の前のひとに向き合い、何かをしなくてはならない。ひょっとしたら自分の行動があまりうまくいかないかもしれないという可能性を引き受けつつ。

三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』収録「痛みを伝える」

将来の不確実性に対する無根拠な判断を、目の前で痛みを訴える人がいる状況に引き直すなら、三木によると、知識よりも倫理を重視する態度になるのだ。

不確実であることが倫理的であること。一見して、常識に反するようにも思える事態がここにはある。平常時であれば熟慮を重ね、確実さとともに最善を選択することが倫理的であるように思われるはずだ。

そうではなくて、個別具体的問題として、目の前の人に向き合い、いま・ここにある手持ちの材料で、一定の回答をする。問題を先送りにしない。選択肢を挙げるだけにしない。価値中立的な立場に引きこもらない。

つまりは目の前の人に肩入れするのだ。だが、それは相手になりきるのではない。相手になりきるよりも手前の地点で立ち止まる。相手になりきろうとすることは、相手を無視することと同じように、目の前の人と向き合うことから遠いからだ。どんなに距離が近くとも、どんなに共感できたとしても、その人にはなれない。だからほどほどにしておく。その、間の感覚。

現在から見る、不確実性の不安はいつまでも付きまとい、逃げられない。ならば私たちがとれる精一杯の誠実な態度は、いつ来るかわからない、痛みを訴える人のために、知識を得て、待ち構えていることだけである。


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