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0112 ミツばあちゃんとのお別れ-記憶の扉

【暮らし】
to 記憶をたぐりよせる作業に共感をえていただける方(ほぼ自分用)

2022年1月某日。福島のいわき市に住む母からのメール。母方の祖母、ミツばあちゃんが亡くなったとの知らせ。老衰で92歳の大往生。コロナ禍とあって家族葬予定。東京にいる自分は家族との話し合いで、告別式参加を見送り、落ち着いたら休みをとってお墓参りに行くことに。母方のじいちゃん、父方のじいちゃん、父方のばあちゃんはすでに他界。最後にミツばあちゃんが旅立った。

ミツばあちゃん

父方のじいちゃんばあちゃんに育てられた自分。ミツばあちゃんとは年に数回会うくらい。大人になってからは、海外駐在の時期もあり、さらに会う機会は少なくなった。そんなばあちゃんとの思い出を、ゆっくり目を閉じて思い出す作業をしてみた。これまで、じっくり振り返ことがなかったと思う。

自分が住んでいた福島県いわき市。同じ市内の泉にあるミツばあちゃんの家。子供の頃はお盆と正月によく泊まりにいった。同じ時期、少し日にちをずらして、父方の親戚も我が家に泊まりに来る。泊まりに行ったり泊まりにきてもらったり。なんとも落ち着かない期間だなと子供心に思っていた。さて、ミツばあちゃんとの記憶をたぐりよせていく。少しずつ、自分の心の深い部分がゆっくり開く。

ばあちゃんは声に特徴があった。シンディローパーが少し酒焼けした感じか。でもよく通る声。いつも笑顔で元気で、”死”とは一番遠い部類の人間のような気がしていたと思う。目尻が下がって、少しだけ瞼がふっくらしていた。黒っぽい和装がよく似合っていたのが思い出される。若々しくエネルギーあふれる空気感は、周りを明るくし安心させるものがある。

今更ながら、あぁ見習うところあるなと思い、ひきつづきミツばあちゃんとの時間旅行を楽しんだ。92年もの間、おつかれさまでした。今頃は、13年前に先だったじいちゃんと会ってる頃だろう。目を閉じて、ばあちゃんを思い出していると、ふと懐かしい場所に立っている。ばあちゃんの家だ。ここから少し場所にフォーカスして、タイムスリップしてみる。

泊まりに行った家の思い出

道路から砂利の路地が10メートルほど伸びる。雨が降るとぬかるみ、特大の水溜りができた。庭とも通路の延長ともいえるスペースにつきあたり、左手に玄関がある。ひら家の戸建。ミツばあちゃんの家だ。引き戸を開けると昔の家の匂い。左手にあるアコーディオンカーテンで仕切られた狭い茶の間。中央に正方形のコタツ。今では見かけないチャンネル回転式の真っ赤なブラウン管テレビ。奥に座ってみかんを食べてるのがじいちゃん。なんかぶつぶつ笑顔で文句を言ってるのがばあちゃんみたいだ。

つながった隣の部屋。コーデュロイ生地のようなレトロなベージュのくの字型のソファ。ピアノが所狭しと設置してある。母が昔弾いていたピアノだ。奥に進むと薄暗いキッチン。反対側のお風呂場には狭くて深くて垂直な浴槽。少しもどって、玉すだれをゆっくりはらってドアを開けると、北向きの客間がある。目がぱっちりした少し怖いセルロイドの人形があった。泊まりに行くと、ここで両親と姉と4人で寝たんだった。

思い出すものだ。ろうそくの光のようにひとつのシーンにぼっと光があたって、次の思い出の光につなかっていくように、少しずつ記憶がつながる。

外へ出てみる。キリンの首がまっすぐ伸びた遊具のある名もなき近所の公園。自分が遊んでいる。次に、ばあちゃんが営む細長い奥行きの喫茶店にいる。行き方は覚えていない。足が届かないカウンターに座ってクリームソーダを食べている。夜になった。お盆だ。いつも行ってた泉地区の盆踊り大会に場面が変わる。引っ込み思案だった自分はたぶん踊ったりしてなかったのではないかな。わたあめを買って暗闇を帰った。

記憶の扉

ドラマチックなことは特にない。思い出とはそのようなもので、文字にすると、他人が見るとしごく平凡で退屈なもの。しかし自分にとっての特別。なんだかすごく琴線に触れる思い。最近見た『浅草キッド』の最後の長回しシーンを思い出す。記憶の扉が開くときに、脳内で何がおきているのだろう。あの感覚は言葉に表せないものだ。

この記事はまだ姉や両親に見せていない。見せてみて感想を聞いてみようかと思っている。記憶が混同しているものもあるだろう。また、新たに思い出すこともでてくるだろう。

ミツばあちゃんがくれたこの時間。有意義なものだ。ぼーっとする時間があるのなら、週に1時間でもゆっくり記憶の扉を開くことをするのもいい。過去にすがるという意味ではない。自分の構成要素を教えてくれて、さらに、未来につながっていくものだと思う。

最後に - 前向きな準備

ミツばあちゃんがくれたもうひとつ。今、両親がなくなったらと考える。自分は充分親孝行したから後悔はないといえるか。また、もし今自分が死んだらと考える。ちゃんと後の人が困らずに済むようになっているか。

両親にはいつまでも長生きしてほしいし、自分もいつまでも長生きしたいほうだ。しかしその日は必ずやってくる。一見タブー視されがちだが、そういうことも考えて準備をしていくことも、生きてこそだと思うのです。明日から少し行動を変えられるようにしていこう。ミツばあちゃんがれくれたものを大切にしようと思います。

おしまい

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