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能力主義を考える。「私は高橋です」が「I am Takahashi」になることが理解できずに社会から切り離されそうになった話

kこんにちは!学生向けに新しいキャリアデザインを提案するサービスを運営している高橋というものです。

このnoteでは「教育格差を無くすには何から着手すべきか」について考えていきたいと思います。

テーマの発端となる参考記事は早稲田大学准教授の松岡亮二さんの『教育論の新常識』です。

要約すると

・家庭環境(父親の学歴や収入)や居住地域によって教育格差が生じている
・2000年代から注目されているが、実際はバブル崩壊後から教育格差は存在していた
・義務教育でもこの家庭環境による格差は解決できていない

教育格差は多数の問題が絡み、一面からでは語れないので、このnoteにももちろん結論がない

結果からお話すると、教育格差を語ろうと思っても複合的な問題が含まれているので、こうすべきだ!的な結論は正直導き出せません。

しかし色々な人の考え方をヒントにあらゆる側面から考えていく事が大事だと思っているのでいくつか紹介したいと思います。

岡田斗司夫さんの「能力主義」についての動画から考えられること

これはサンデル教授の挑戦状!『実力も運のうち~能力主義は正義か?』という本について岡田斗司夫さんが語られている切り抜き動画です。本編はすごく長いので、一部取りあえげて紹介します。

この動画の中でのポイントを下記にまとめてみました。

・民主主義によって能力主義は強調される世の中になった
・それにより大卒者と非大卒者の間で分断が起きており、近年社会で求められる能力も上がり、さらに格差は広がっている
・能力主義者はLGBT差別には敏感で「自分では変えることが出来ない属性」だと考えるが、学歴・資格・経歴は教育や努力によって変えられると考える
・しかし実際「努力できる遺伝子」の存在が研究でも発表されており、努力も才能の1つなので、自分で変えられない属性ではないか

(この他にも、SDGsや教育にも触れているので、この点は別の参考資料とともに次回紹介したい)

教育格差の前に社会はどうなっているかと考えることも大事かと思います。

結論はご存知の通り、資本主義かつ能力主義社会であり、今後求められる能力レベルは上がっていき、教育格差と同じく知識格差も広がっていく可能性が高いということです。

またこの能力主義的考え方は「やればできる。ただやるだけなのになぜできない?」といった指向性が強いです。

動画内で岡田さんは「教育の機会を平等に与えることは正義であり、行われるべき。しかしいくら教育の機会を平等に与えても、結果が平等になることはない」とおっしゃっていました。

また「努力できるのも才能であり、出来ない人は出来ない」とも言われています。

脱成長・脱資本主義はおいておいて

この能力主義社会を話すと対として、僕の中で出てくるのは「では資本主義ではない社会。現状で言うとヨーロッパの社会還元率の高い世の中だったらどうだろうか」ということです。

この脱資本主義の話はNewspicksで最近落合陽一さんと斎藤幸平さんがお話されているので、参考にしていいただきたい。

ただこの議論は一旦おいておいて、資本主義社会を受け入れた上で教育格差・能力主義にできるアプローチは何か考えてみたいと思います。

まず能力主義についてですが、教育の機会を平等に与えられるという前提で「コンテンツの多様化と社会ニーズとの関連性を高める」という考え方もあるのかなと思います。

オンライン教育市場は毎年伸び続けており、より低コストで効率的に学べる時代になりました。またYoutuberやそれに付随した動画編集など、職も多様的になっています。

今後学べるコンテンツの多様性と社会ニーズがマッチすれば、資本主義で埋もれたいた人材が活躍できる母数は増やせるのではないかと考えています。

ただ実際はまだまだICT導入率が低い日本での学校教育改革や情報収集の最適化など課題はありますが、一人一人が持つ偏差値に収まらない学生達の将来の可能性を広げられるアプローチの1つとして有効かもしれません。

養老孟司さんの「感覚」に関するお話

養老さんは中学生の家庭教師をしていた時の話について

「中学生になった途端、算数がわからなくなる子がいる。3x = 6なら x=2であるが、そもそも数字と文字は違うので、イコールにならない。 a=bと言われても、aとbは明らかに違う。これは理屈ではなく感覚的な話である」とおっしゃっていました。

私自身中学の時に英語が科目に入ってきた時、最初の通知表は「1」でした。中学1年なので自己紹介程度の英語でしたが、「私は高橋です」というのを「I am Takahashi」となる感覚が分からなかったんだと思います。つまり私 = I となるのが理解できなかったのではないかと。

その後は海外の大学を卒業できるぐらいになったので結果問題は解決されていったのですが、この感覚の違う人を偏差値からずれた人間は価値がないと決めてしまう通知表はどうなんだろうかと思うわけです。

この話は先程のコンテンツの多様性にあり、適用できる分野があるのではないかと考えているわけです。

まとめ

教育格差の議論はあまり深まらず、能力主義の話が長めになってしまいました。

ただ前提として考えておいて問題はないかなと思っています。

また別記事で今回触れられなかった事を書いていきたいです。

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