「よかれと思って」が奪っているもの
人に何かを伝える、教えるという行為はちょっと中毒性あると思う。
相手に伝わったときの喜びや達成感、逆に伝わらなかったときの悔しさや消化不良感。
それを解消しようとしたり、達成感を再び求めに行くと
「教えすぎる」「伝えすぎる」
になる。
伝えることがゴールではなくて、相手が理解したり、理解するために考えることがゴール。
連続して2コマ同じ内容の講義をすると起こること
2コマ続けて同じ内容の講義を行うと、1コマ目は粗い部分もあって、色々な質問が出てきたりする。それを踏まえた2コマ目は説明も改良するし、不十分だったかなと感じたところはこちらで埋めることもできる。
表面的には2コマ目がうまくいく。相手もすっきりしたような顔。
でも、それがいいのかどうか。
こちらが先回りしたことが相手の色々な機会を奪ってしまう。
よかれ、、の先にあるべきもの
先回りして与えるならば、その先にある課題や道に繋がっていなくてはいけないんじゃないか。
食べ物を与えるなら、それがエネルギーになって次のアクションに繋がっていくか、その美味しさや必要さを実感してもらってそれを手にするための行動に繋がっていくか、、、
それがなかったら、口を開けて待っている人を自分たちが創り出しているのかもしれない。そこまでしておいて、ほっぽり出しているようなものじゃないんだろうか。
そして結果的に「考える力が弱い」なんて指摘をする。こちらがその機会を奪っている可能性はあるのに、である。
何かの取得を目的とするにしても、その先に何があるのか。それが見えることは大事なんじゃないかと思うし、そこまでの過程で何を得てこれから何を得るべきか。資格取得などはそれを特に感じる。
大抵のことが悪気なく、本当に良かれと思ってやってしまっていることもある。目の前の人に対しての貢献度も感じられるし、それを必要としてくれている人も出てきているかもしれない。
便利になったら何かの機能は使わなくなる
先日書いた、当事者を置いていかないということも大事。
その場だけではそれを判断するのも難しいことはありますが。
読んでいただきありがとうございます。日々の雑感やスポーツ、運動にまつわる数字を眺めてまとめています。普段はトレーニングサポートや講義を行なっています。