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幸せに生きるって実はシンプルなんじゃないか?

「自分がどうすれば楽に生きられるか」を探し求めてきた。それを言語化しようと文字にして発信してきたのだが、幸せをとても難しいもののように考えていて、実は答えはとてもシンプルなのではないかと最近思い始めてきた。

難しい本を読み、経験豊富な人の意見も取り入れ、こうなんじゃないか、ああなんじゃないかと、試行錯誤しながら、自分なりの答えを出そうとした。

そんな時に、ひとつの動画と、ひとつの行為に出会った。


ハーバードの教授が、幸せに対する質問に答えていくという趣旨の動画だ。
幸せになるために、今まで数多くの有識者たちが科学化し、「システム」として落とし込んで、誰もが実践できるようにしてきた。もちろん、それらを取り入れることは大事だと思うし、とても有効だと思う。けれど、幸せと生きる意味を、この動画ではシンプルに説明している。

「何のために生き」「何のためなら死ねるか」の二つの問いの答えを探すことこそが、生きることだと説明している。

いや、それが難しんじゃないか!という声が聞こえてきそうだが、決して私も簡単なことだと思っていない。この二つの問いの答えを探す過程こそが難しい。だけど、生きる意味の答えは、実はとてもシンプルなものなんじゃないかと思ったりもしている。この問いに答えられないとき、存在意義を見失うと教授は言うが、逆に言えば、答えを探していることが、生きる意味だとも捉えられた。

自分は何のために生き、何のために死ねるのか。暗闇の中に光る道標なのではないかと感じることができた。私はよく、「死ぬ勇気がないから生きているだけ」と考えることが多かったけれど、もしかしたら死ぬ理由がなかっただけかもしれない。死ぬ理由を見つけられた時、それこそ幸せな人生を歩んだと、感じられるのかもしれない。

それでもやっぱり、その過程がはてしなく難しい。この動画では、幸せになるための方法のひとつとして、「メタ認知=自分の認知活動を客観的にとらえる。自らの認知(考える・感じる・記憶する・判断するなど)を認知すること」が大事だとしている。
人それぞれ、心の問題や思考の歪みを持っている。それは当たり前であって決して悪いことではない。大事なのはそれらを否定するでもなく肯定するでもなく、ただひたすら「認知」すること。


ではどうすれば認知できるかを調べていく中で、ある行為に辿り着いた。「瞑想」だ。
瞑想の定義は様々だが、私はこのように定義している。「心を静めて無心になること。何も考えずリラックスすること。心を静めて神に祈ったり、何かに心を集中させること。」
瞑想していく中で、さまざまな雑念や煩悩が頭を巡っていく。そこをただひたすら感じるのだ。「私は今こんなことを考えている」をただただ感じる。回数を重ねていくうちに、徐々に悩みや思考回路が分かるようになってくる。分かるようになってくると、自然と肩の力が抜け、リラックスした状態になれる。恐らくこのリラックスした状態が、凄く大事なのだと思う。私の大好きな小説『横道世之介』(吉田修一)にこんなことが書かれてある。「この世で一番大切なのは、リラックスしていること」。リラックスというのは、決して怠惰になることではない。感情や思考、状況など、あらゆる事象を受け入れる(認知する)ことだと思う。そうすることで、「何をすべきか」が分かるようになってくる。私はここ最近リラックスできていないことが多かったのだが、その状態が続くと、すべてに対して「否定的」になってくる。あれがいけない、これがいけない、あの人が悪い、政治状況が悪い。トゲトゲ人間の誕生だ。リラックスするというのは、そのトゲトゲを1本ずつ抜いていくことに近い気がしている。そうすると、心に余裕ができて、次の行動が見えてくる。努力が足りないなら努力すればいい、自分がいけないなら謝ればいい、今の環境が嫌いなら環境を作るか環境を変えればいい。こんな風になっていくのだ。

最後に、私が最近実践している瞑想、「メッタの瞑想―慈しみの瞑想―」を紹介したい。

慈しみとは、幸せに生きるための本質であり、その慈しみの心を取り戻す瞑想なのだそうだ。
人それぞれ、悩みや苦しみがあり、欲に振り回されながら折り合いを付けて生きている。
そんな自分や他人に対して、慈しみの心を持つことで、自分にも余裕が生まれ、他人に対しても優しくなれる。
そんな風に思わせてくれる瞑想だ。


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