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繊細な私、忙しない世界。

 小さい頃から母親の聞こえるがなんと言っているかわからない独り言が気になってしょうがなかったり、母親のその日の皿洗いの食器の音で機嫌を察知してしまうなど些細なことで気分が悪くなることが多かった。これだけなら自分の部屋に引きこもれば解決できる。しかし、一番苦しかったのは食事の場。口を開けながら噛む人、何でもかんでも啜って食べる人、無意識なのはもちろんわかっている。だが、気になってしょうがない。美味しい料理も味に意識が向かなくなってしまうのだ。友達に食べ方についてどうこう言うことなんてできない。そう、毎回我慢するしかないのだ。

 今あげたようなエピソードはほんの一部に過ぎない。電車でスマホを見ていても隣の人の視線が気になる。大勢の人がいるととにかく疲れる。お腹が空くと何もできなくなり気分が悪くなる。普通に生活するだけでも本当に苦労する。

 これがHSP、いわゆる繊細さんだと気付いたのは世間が繊細さんブームに入った頃からだろうか。今までは何も考えずとにかく苦しんで生活してきた。しかし、HSPに関する本を読む中で繊細であることは後天的ではなく、先天的である事を知った。さらに、悪いことばかりではなくいいこともたくさんあるということも。

 HSPはどんな生き物に対してもおよそ全体の15%〜20%ほどいるそうだ。もちろん症状には個人差はあるだろうが、少なくとも僕と同じ経験を1つでもしている人が5人に1人と考えると少しは気が楽になった。それだけではない、少しづつではあるがそんな自分を受け入れられるようになってきた。相変わらず人の表情、仕草を見て感情などを読み取ろうとする癖は治らないが、気疲れしたり人が多いところに行って頭痛になっても落ち着いて休めるようになった。

 世界はどんどん忙しなくなっている。自粛警察、不織布マスク警察、街中に出るときに気を遣わなければならない場面がどんと増えた。マスクをしていることによって人の目線だけで感情を読み取ろうとするようになってしまった。民主主義であるが故に起こる問題ではある。我々一人一人の意見が尊重される象徴でもある。

 悪いのは誰でもないのだろう。時が早く進む世の中、感情を隠すいとまも無い。だが、そんな中感じる嬉しさだってもちろんある。街中で優しい人を見ただけで幸せになれる。

 先日、とある夫婦が電車に乗ってきて一つ空いた席をどちらが座るか話し合ってなかなか座らなかった。すると空いた席の隣の高校生が席を譲り、彼は他の一つだけ空いている席へと移っていった。

 忙しない世の中、こんな小さな幸せもあるのだ。私はこんな幸せに全く関与していない。だが、彼に希望や勇気、幸せまでも分けてもらったと言っても過言ではない。これこそ繊細な私なのだ。

 繊細であるからこそ感じることのできる幸せというのは、自分が繊細であるという事を自覚し、向き合うことが大事だと思う。自分が周りよりも繊細だと認識できなければ、感じている幸せも特別なものとは感じられないだろう。向き合えたとしても自分が繊細であることに落胆することだって多々ある。だが、向き合えたその時から世界にはもっとたくさんの幸せがあることに気づけるのだ。

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