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詩歌というメディア

「いい歌ができたな」と思う時はいつも、その歌は私の感情をとてもよく反映してくれている。

時には月の肩を借りて連ねた言葉は、モノやコトの感触、そこから生じた感情、心持ちの変化までを映し出す。

私たちが言葉を使うとき、それぞれの言葉にはその人なり、その時なりの色がある。

「車窓」という語に郷愁を重ねてしまうのは、私が沿線をぼーっと眺める体験、あるいは多くの先人がノスタルジのシンボルとして用いた蓄積の受容によるものに他ならない。

私的な経験の積み重ねによって私が言葉に乗せる思いは更新されていく。

詩歌を作る際に慎重に言葉を選ぶのは、自身のその時の言葉の色を大切にしたいからだ。

必死に言葉を紡いだ歌は、私なりの色づかいで心持ちを描いた一枚になる。

そんな歌があれば、私はいつでもその時の感情を心の奥深くから再び感じることができる。
詩歌は私の内側から立体的に気持ちを呼び起こすのだ。

当時の景色や自身が笑う様子を映した写真・動画は、果たしてこれほどにまで気持ちを再現することができるだろうか。

「笑っている」ということは客観的に分かっても、細かな背景や感情のさざなみまではなかなか図り得ないだろう。

詩歌は心情の再現性という点で、一般的な記録媒体とは一線を画すと思う。
自分自身の歌でなくても、素敵な歌を通して私たちは詠み手の心情を追想することができる。

精神性という点で、詩歌はとても優れたメディアなのではないだろうか。
仮に赤の他人に歌の意味を伝えることがうまくいかなくとも、プライベートな心の記録として十分に機能するものだ。

私は大切な一瞬あるいはふとした日常、その時の生き生きとした心持ちにいつでも立ち返ることができるように、

ずっと「今」を連れて行けるように、

詩歌を作るのだろう。

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