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私は細かいことの積み重ねである

こんばんは!

ケミオです。


数ヵ月前にも書いていたのですが、ローソンのカレー。


今日、かなり久しぶりに食べましたが、個人的な大ヒットです。


目立つカツには特徴がないというか、いかにも工場で作ったのを盛りつけました的な感じではありますが。

「どうせカレーをかけるんだ」と思うと、味も口当たりもむしろその軽さ加減が非常によかったり。

カレーの方は、おいしい。

甘味は少なくてちょっと辛い、家ではなかなか作れないであろう味。

その上、”店炊きごはん“シリーズだからでしょう。

ご飯は普通にしっかりしています。


これが、私の家の近くのローソンだと、昼時でもよく値引き販売されています。

多少時間が経っていたって、腹をこわす程度でなくこのクオリティが食べられるなら、もう全然オッケー。

喜んで買っちゃいます。


今日のそれは、テニスの後でした。

こちらも久しぶりに再開。

楽しかったです。


と、そんなこんなで最近、思ったことがあります。

私、つまり自分自身というのは、こういう細かいことの積み重ねなんだろうと。


ローソンのカツカレーが好きなのも、テニスをしているのも、同じ一人の私です。


とはいえそんなこと、書いてみれば当たり前のことにはなりますが。

長い間のアダルトチルドレンとしての私を振り返ってみますと。


カツカレーを食べている時は、それを美味しくいただいてはいけない気がしていました。

別のものを美味しいと思わないといけない気がしていた、ということでもあります。


しかし一方で、別のものを食べれば。

今度はカツカレーを食べている方が、美味しいと思える気がする。


そこでカツカレーを美味しいと思っていること自体は、今考えても間違ってはいないと思います。

しかし問題は。

私はいつでも、その時その場の自分自身からは離れた時空のことを、あれこれ考えたり感じているということでした。


テニスについても、同じことです。


カツカレーやテニスだけでなく、無数の自分の万事が万事、この調子でしたので。

私は、自分が生きている実感がなくなってしまった。

自分がどこにいるのか、わからなくなってしまった。


私が苦しんでいた症状を改めて書くと、そんなところだと思います。


話は戻りますが、カツカレーもテニスも私にとっては非常にいいもので、こういうことも大切だよなと思うところではありますが。

そういう私を形作るような要素の中で、現時点では明確に欠けていることもあります。


仕事です。


もちろん、今の私にも形の上での仕事はあります。

また、このままいけばこれから求められるであろう物事も、だいたいわかっている。


問題は、意識です。

「仕事で〇〇をしているのも自分である」という意識が、明確に持てるかどうか。


話を出しておいて恐縮ですが、このあたりのことを書いて表現するのは、とても難儀な気もしました。


ただ、「仕事だから」と、堅苦しく頑張って考えるのも、良くないように思います。

悠長に構えるつもりもないですが、この調子で行けば、きっと時間がちゃんとそこまで導いてくれるだろうと思ったり。


私の世代では今さらそんなことを考えること自体、かなり私がズレているとも言えるのですが。

そんなことを考えても、しょうがないですし。


読んで頂いてありがとうございます!

今日もお疲れさまでした!

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