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舞台「ガラスの動物園/消えなさいローラ」

11/18(土)昼の回、後日譚のローラ役:和田琢磨さんの回を観てきました。以下、ネタバレあり、観劇済み前提の感想です。
全て個人の勝手な解釈です。





トムの閉塞感は、もはや1世紀前の文学が物語と化してしまっていることを感じた。だって今なら同人やれば?で終わりだもん。
今だと仕事の自分の他に、趣味の世界の自分とか、ゲームの世界の自分、Twitter垢の自分とかって複数の自分を持てるけど、あの時代は「倉庫の仕事をしてる」以外のステータスを持ちようがないんだろう。
最も、舞台がアメリカということを考えると、アメリカンドリーム的な、漠然とした成功を目指すイメージがあり、ただ文学をやるだけじゃなくそれで「成功」しないといけないから同人じゃ意味ないのかもだけど。
ジムも今頃「成功」してるはずと言ってたけど、何をやりたいか具体的になかったもんなあ。漠然とした成功のイメージだけを追う人間の典型的な姿だった。弁論の講義取ってるって、現代で言う怪しげなサロンとかコミュニティに属してるだけで何かすごいことやってる気になってるだけの人みたいで、ここだけ1世紀経っても変わらんのかい、と謎の感動。

ローラの、「学校も行けない結婚もできない、の意味が現代といろいろ違う…
結婚しないならせめて仕事しなさい、じゃなくて逆なのよな。結婚の方がセーフティネットになってるというか。例えば内職しなさいとかじゃないんだ…という。

お母さんマジで嫌なやつだったな!!!(褒め言葉)
厳格さ一辺倒ではなくコミカルで大阪のおばちゃん的なノリ?(知らんけど)があることで余計に嫌なやつになってた。
だから後日譚でローラが「あの口うるさい女が死んでせいせいした」って言ってて、その認識で合ってるんだ、てかローラもそう思ってたんかい!ならもっと頑張って反抗しとけよ!!と思っちゃったけど、ローラは別に母に義理立てしたわけではなくて、あくまでトムのためにああなったんだな…

わだっくまさんのジム、マジで「嘘の臭い」ってこういう人のことを言うんだなと思った。ベティなんて嘘だよね!?架空の女だよね!?と自分は解釈している。だって話のタイミングが不自然だもん。
おそらくジムは、過去の栄光を知ってくれていて自分を崇拝してくれるローラに、かなりグラッと来てたと思う。このままもらっちゃっていいかなと考えたはず。
だけどその直前、トムから、電気代を払わずにその金を使ってここを出ていく話を聞いてしまっていたから。このままローラと一緒になれば、その電気代を払うのは自分。この先ずっと自分は、ローラと母を養っていくことになる。出ていくトムの代わりに、このアパートに、この家族に押し込められることになる。その可能性がよぎって、とっさに逃げたのではないかと。


後日譚が最悪すぎる。いや自分が勝手に最悪に解釈して楽しんでるだけかもしれないんだけど。
自分の解釈は、「探偵が尋ねてきたのは全部壊れたローラの妄想で、あの部屋で母親とローラは二人で朽ち果てた」というもの。
だって舞台に向かって左奥のカーテン越しに、あの晩のドレスを着て干からびた母娘が提示されたから。
語られたものはすべて虚構で、あのカーテンの奥に、セリフでは一度も触れられることなく置かれたあの2つのミイラだけが真実なのではないか。

トムが出て行ってからあの部屋は荒れていく一方で、ひょんなことから母親が死んで(ヒ素入りの酒を飲んでというのももはや本当かどうかわからない、トムはあの酒瓶持って出て行ったよね??ローラの自作自演??)、ローラだけが1人2役をしながら生きていた。そしてトムがコルクを詰まらせて死んだ10日後、ローラはあの探偵が尋ねてくる幻覚を見たのではないか。
そう考えると、探偵がトムと同じ容貌であること=松也くんが演じること、探偵がわざわざ訪ねてきたのがあれから3年経ったあとで、かつ母親の死体の異臭もしなくなってからという謎なタイミングなこと、全部説明がつく気がしていて。
トムが死んだことを虫の知らせ(としか言いようがないが)で悟ったローラが、自らの狂気で塗り固めた虚構を閉じ、待つことをやめる――すなわち、生きることをやめるために必要な儀式だったのではないか。

ローラがともしびを消す、という場面が本編、後日譚ともに出てくる。そこだけ見ると、後日譚のタイトルは「消しなさい」ローラ、になるのではないかと最初は思っていた。
しかし上記の解釈だと「消えなさい」がしっくりくる。もはや妄執といっていいほど「待つ」ことに囚われたローラの、その命の火を消しなさい、と。あれはローラが死ぬために、自分の人生を清算するために最期に生み出した幻覚、そう思えてならない。
ちなみにハイスクールの学校新聞?も「ともしび」って言ってたのもぞっとする。母の思い出話も含め、栄光の過去もろとも消し去るという比喩なのか。

劇中でも語られたとおり、ローラがあの部屋に母親を必要としていたのは、トムもしくは自分の罪を隠すためではなく、「待つ」という行為を続けるためだった…。前述のとおり、ローラは決して母親が好きではなかった、いなくなってせいせいしていた。でも、待つということは何もしないこと、何もしないためには何かをさせようとする存在が必要…。だから何のためでもなく、ただトムのために母親を演じ続けた。
もはやあのローラは、母親がいるという虚構を自分に言い聞かせるうちに、現実と虚構の区別がつかなくなっていたのだと思う。当初の目的を忘れるほどに、自分が母親だと思い込む瞬間が確かにあったのだろう。
仕事で精神疾患の患者と接することがあるのだが、あれは統合失調症、あるいは解離性障害のように見えた。本編でのローラは、対人恐怖などの症状はあれどいわゆる広義の神経症だとか不安障害だとかの印象を受けたが、後日譚では完全に狂気に陥っている状態、自分の言動を虚構だと認識できておらず心から真実だと信じ切っている状態に見えた。演者の違いも大いにあるのかもしれないが、後日譚は現代の精神医学の進歩も取り入れてよりリアルな精神障害の様相を描いているのかとすら思った。

わだっくまさんがローラの回がいちばん不気味さを味わえる気がした。母でもローラでもない人物が、母やローラのふりをしている。母でないのはもちろん、もはやローラでさえ、あのときのローラではなくなってしまっている感じがして。衣装やかつらを脱ぎ捨てていくのも生々しかった。この演出も、塗り固めた虚構を物理的に剥いでいくということなのだろう。
恐ろしいのは、ローラが母を演じているとき、足を引きずっていないように見えたこと。本編でも、ローラの足の不自由は実は心因性なのでは???と疑っていたのだが、母を演じるときは足に障害がないとするとやはり、ローラの人格がもつ心理的要因が足に影響を及ぼしていて、さらに後日譚ではその本来のローラの人格が消失してしまうほどに母になりきってしまっていた、と読み解ける。

後日譚の最悪さがめちゃくちゃ好みで、もはや本編がこの後日譚のための壮大な助走に思えてしまうくらいだった。紀伊国屋ホール出たら原作本をめっちゃ宣伝してて、買ってくればよかった。

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