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どうする家康、追いつめない家康。リーダーは追いつめ過ぎてはいけない。

今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は周囲の反応、SNSの反応を見ていると、まずまず好評なのではないでしょうか。
それに続く来年の大河は「どうする家康」です。家康は既に大河ドラマの主人公として2度取り上げられたことがあり(1983年「徳川家康」、2000年「葵徳川三代」)、今回の3度目というのは、恐らく西郷隆盛(2度)を超えて最も大河で取り上げられる人物となり、日本における徳川家康の存在感の大きさを感じます。
 
私は、長年歴史の中でも徳川家康については深い興味をもってきたのですが、その中でも家臣への対応、諸大名への対応といった「人材掌握力」については深い興味をもってきました。
いくつか印象深い話があるのですが、その一つが「三河一向一揆」です。
 
これは、家康が支配していた三河において一向宗(浄土真宗)が家康に対して一揆をおこしたものでした。但し、単なる宗教集団による一揆ではなく、一揆勢には家康の家臣団も相当加わっており、事実上の内乱でした。
 
まだ三河国自体を統一中の家康は支配基盤も脆弱であり、かつ周囲には今川、武田といった強国に囲まれている中にあって、この内乱で負けることがあれば瓦解する可能性がありました。
実際、家康はこの一揆中に二度鉄砲が当たり(鎧で守られたものの)、命の危険もありました。後年、家康自身も最大の危機としてあげています。
 
最終的には一揆は鎮圧されました。一揆後の処理の中では、一向宗に対しては寺院の破壊、僧侶の追放等は行われましたが、一揆に加わった家臣に対しては寛大な処置が取られ、許されました。
その結果、多少間をあけることもありつつ、その家臣達も家康の元に戻っていきました。
 
この戻ってきた家臣の中には、後の家康の天下取りに大きく貢献した家臣が多くいました。
その中の代表的人物が家康の懐刀と呼ばれた本多正信です。この正信の智謀がなければ、特に秀吉没後の天下取りには色々難しかったと思います。
また、多くの戦で活躍し、「槍の半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵等が挙げられます。
 
家康はその後も自分を苦しめた敵の家臣を多く抱える等、過去のことにはとらわれず、将来に向けて活躍できると考える人材は積極的に抱えていく傾向がありました。
 
その際に、過去のことについて人を追いつめすぎなかったというのがポイントだったのでは、と思います。
もし追いつめ過ぎていたとしたら、仮に家康が頼んだとしても、その人は十分な活躍をしなかったかもしれません。
 
将来志向に立ち、更に大きな目標を実現しようとするなら、過去のことにこだわったり、人を追いつめ過ぎないこともリーダーとして大事だと感じます。

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