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「熱意」はどうやったら育つものか①

最近、「熱意」というものはどうやったら育つものかと考えることがあります。
それは、仕事に熱中したり、何か新しいことを強烈に推進する人というのは、何がそうでない人たちと比較した場合に違いがあるかというと、この「熱意」の違いが大きいからではないか、と思うことが多いからです。
 
そもそも、「熱意」とは何なのでしょうか。
とても言葉に表わすことが難しいのですが、「なにかを犠牲にしてでも、否、命を懸けてでも成し遂げてやりたい」とまで思うような気持ちでしょうか。もっとうまい表現があるかもしれませんが、とにかく沸々と内側から湧いてくるようなものであることは、多くの人の感覚にも合うように感じます。
 
この「熱意」、学校教育のなかでは科目として教えるようなことはありません。「熱意」という科目は、もしどこかの私立学校であれば申し訳ないですが、きっとないでしょう。恐らく大学にもないはずです。
時には、一つ一つのことについて「熱意をもって取り組むように」指導することはあるかもしれません。しかしその指導者でさえ、「なにかを犠牲にしてでも、命を懸けてでも成し遂げ」るまでは期待していないことが多いでしょう。そう期待するには、学校教育では生徒に取り組んでもらわないといけないことが多すぎるからです。
 
そうこうしているうちに、社会人になり、組織の中で求められる役割を与えられるようになります。
もちろん、その役割を担っているうちに、自然に「熱意」が生まれる人もいます。まさにその役割が天職と心得、「なにかを犠牲にしてでも、命を懸けてでも成し遂げてやりたい」とまで思うようになる人もいます。
こうなるととても素晴らしいことで、このようななかからよい仕事が生まれたり、新しい取り組みが成功したりするのです。
 
しかし、残念ながらそういう人は少数派です。多くの人は、「仕方ないから、生活のため」というようなことのなかで役割を果たし続けているのです。それでも若いころはどこかでいつかは自分が「熱意」をもって取り組めることが生まれるのではないかと思っている人もいるでしょうが、多くは「熱意」を持てないまま、時間が過ぎていくのです。そうした感覚がある人はまだましで、自分が「熱意」をもっていないことすら気づかない人もいるかもしれません。こんななかでは、よい仕事が生まれたり、新しい取り組みが進むはずがありません。
 
これが私が想定する現状です。これを裏付けているのが、日本で「仕事満足度」を感じる人が5%という調査だったりするのではないでしょうか(ギャラップ社「グローバル就業環境調査」)。
 
ではどうやったら「熱意」が生まれるのか。そもそも「熱意」は育てられるものなのか?育てられるとして、誰がどのようにしたら育てられるのか。
ちょっとここまでで長文になってしまったので、また改めて考えてみたいと思います。

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