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著作『リーダーは日本史に学べ』と司馬遼太郎先生、松平容保、徳川慶喜

昨日、京都に日帰りで行ってきました。一番の目的は、中学生の頃から大きな影響を受けてきた司馬遼太郎先生のお墓にお参りすることでした。
6月に『リーダーは日本史に学べ』を出版させて頂きますが、司馬遼太郎先生との出会いがなければ、現在に至るまで歴史に親しんでいませんでした。そのお礼と感謝の気持ちを伝えたかったからです。
 
京都駅からバスで移動し、清水寺の近くにある大谷本廟の先生のお墓にお伺いしました。先生のお墓を訪れる方も多いのか、受付にお聞きしたら丁寧に教えて頂けました。
先生のお墓を見つけたときは感極まるものがありましたが、先生の多くの本を読んできたお陰もあって今回書籍を出版させて頂くことを、感謝とともにご報告させて頂きました。
 


その後、幕末の会津藩主で京都守護職でもあった松平容保を書籍のなかで描いたこともあり、京都守護職時代に会津藩が拠点とした金戒光明寺にお伺いしました。


 
また、同じく書籍のなかで取り上げた徳川慶喜ゆかりの場所として、二条城にも立ち寄りました。学生時代から多分30年ぶりくらいの来訪でした。
当然、二の丸御殿も30年ぶりでしたが、当時よりも御殿内を立体的に捉えることができました。
興味があれば詳細な間取りをHPでご覧頂ければですが、会社のなかで言えば、「遠侍の間」がレセプション、「式台」は執務スペース、「黒書院」はミーティングルーム、「大広間」は大ホール、大講堂、「白書院」は社長のプライベートルーム、といったところでしょうか笑。人間のスペースの使い方って数百年単位でもあまり変わっていないものです。
 
「大広間」は、まさに江戸時代の始まりと終わりの舞台となった場所でした。始まりとは、徳川家康が征夷大将軍を朝廷から受けた時ですし、終わりとは、徳川慶喜が大政奉還で朝廷に政権を返上したときでした。ただ、慶喜の場合は政権を返上したといっても、その後も政権に関わることを狙っていたのですが。
 
私は「大広間」を眺めながら、慶喜はどんな気持ちで大政奉還を発表したのかな、大政奉還後もうまく政権に関われる自信があったのかな、それとも、この先も薩摩や長州に攻め込まれる不安があったのかな、とか考えていました。その時の慶喜になりかわらない限り、どのように考えていたかは永遠のなぞですが、考える分には楽しいものです。
 
振り返れば、徳川慶喜に一番始めに興味をもったのは、司馬遼太郎先生の「最後の将軍」を読んでからでした。司馬先生には感謝しかありません。


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