天気の記憶を持つ
菜種梅雨
目を閉じると胸の圧を感じる
押されてもいない
閉じ込められてもいない
なのに、なぜ土砂降りなんだろう
水がどんどん溜まるのだろう
体が冷たく冷えていく
言葉の箱
鈍感なので、自分が敏感な人間だと気づくのに何十年もかかりました。
最近では、敏感とか繊細という言葉は、生きる上で厄介なもののような捉え方がされることが多いのかな、と思います
特に人間関係でギクシャクしたり、いたたまれなくなったりするのが、そのせいだと言わんばかり。
私が自分責めをするときなどは、特にそう感じるのだと思いますが、これを大まかな分類で”病気”だとしても、その言葉はそれほど救いにはなりません。
人付き合いを嫌なら、人と思わないでいいね
15年くらい居る職場では、辞めていった人もたくさん見てきました。
今、その一人ひとりが、いったい自分にとっての誰?であったか、振り返ると誰でもなく、記憶となって残っているだけです。
多くの人にとって、人は誰でもなく、ただの移り変わる天気です。
結びつきの強さや仲良さがあってこそ、人であるかもしれませんし、そうかと思えば家族でさえも、ただの“お天気“なのではないかと近頃は思います。
ハラスメントバンザイの時代も、ビクビクバンザイの時代も、空気を読み読みし、家庭と職場を行き来することで、逃げ回るようにバランスを取っていた私です。
鈍感なので出来ていたんです。
騙し騙し、ニュルっと、ゆるっと。
積み重なって、振り返ってみると、器用にやってきたのか夢中だったのか、だとしたら何のために。
長い年月だと思います。
ゆとりが取れるようになり、放っておいたものが、雨の記憶となって何度も押し寄せてくるようになりました。
身近に起きたことや些細な会話をきっかけとし、思い出されてくるのです。
桜の蕾と、菜種梅雨
嬉しいのに悲しい
覚えています
晴れているのに冷たい
知っています
自分がいなくなったあと
教室の椅子が
その空間が
空っぽになるということを
押し出されるように
戻れない時間があるという
感覚がいつも怖くて
楽しいことがもう既に怖くて
行くことも戻ることも
どちらもできなくなるくらい
目の前のホールが大きすぎて
飾られた風船が
音楽が
周りすべてを取り囲んでしまう
早く空気を吸わなければ
もう見なければと
背中を押される
しっかり足を前へ
割れてしまって
風船は
桜の花びらを舞い散らせる
頭や肩に
良い香りを届ける
ひらひら
はらはら
きらきら
ファンファーレと拍手と
艷やかな記憶
旅に出よう
さあ
旅立ちの日に、思い出す
私は”しなかった”ことのほうが多いのかもしれません。
多分、黙って見過ごしてきたからです。
言えなかったんだと思います。
誰かに声をかけたり、少し先回りして何かを差し出したり、改善を話し合ったり出来たはずなのに、しなかったり。
ごめんなさい
自分にも目を向けなかった
ありがとう
耐えてくれて
消耗したものを補う
いい人ぶるようで、言ってこなかった
えらそうに取られたくなかった
本当はそんなことに構っていたら疲れる
疲れたら、迷惑を掛けるからストップ!!
迷惑をかけたくない!
どこかしら本当は面倒くさがりだっただけ
エネルギー不足だったのだと思います
簡単に言えば時代のせいや世代の差で、理解を超えることがあるけれど、諦めたくないし知りたいです。
この世の中や社会が、何を追求してきたのか。
間違ってたなら素直に、これからも学んでいきたい。
目の前の、お天気学校で。
またお会いしましょう。
いつもnoteで、ほっこりさせてもらえていることに感謝します🙏💕
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