ボルドー・メドック格付の真実(後編)
今回もメドック格付けの「前の」歴史を紐解いていきましょう。
初めての方は、先に前編をご覧ください^^
1647年 最初の格付け
ボルドーの格付けの歴史は、1855年からさらに200年、1647年まで遡ります。
格付けの歴史を振り返る前に、少し背景知識を学んでおきましょう。
まず、この当時の商取引はどういうものだったでしょうか?
ワインは今のように瓶詰めされて出荷されていたわけではなく、樽詰めされて船に乗せられ、輸出されていました。造り手の名前などはなく、同じ地域のワイン、同じスタイルのワインは全て混ぜられて、業者に引き取られていいきます。その値段を決めるのは最もシンプルな方法、つまり売り手と買い手の交渉で値付けされていたようです。ワインの中身はよくわからないけど、顔見知りの商人から買えば安心…そんなイメージでしょうか。慣習で決められた値付け、だから値段もまちまち。そんな状況でした。
(補足:1635年に基準価格をサン・ミッシェルの日=9月29日に決める取り決めができました。が、のちに問題が…)
また、若いワインほど良いと言われていました。
12世紀から300年続いたイギリス統治下時代。ボルドーでは、ボルドー市近郊に畑を持つ特権階級者たちを優遇する数々の条例が生まれました。ガロンヌ川上流域から届くワインは、特権階級者らのワインが全て出荷された後にしか通過できない条例。ボルドー市より下流域のワインは、ボルドー市にある港を通らずに直接大西洋に出てはいけない条例。こうした条例の大元になっているのは、「ワインを飲むのは早ければ早いほど良い」という考え方です。現在、ワイン造りでは基本中の基本になっている硫黄による樽の燻蒸殺菌は、もっと後(15世紀ドイツ)になってから発明されます。そのため、当時のワインの劣化は早く、今で言えば新酒のロゼ(亜硫酸無添加!)のようなワインばかりだったと想像します。だからワインの取引は、スピード勝負だったわけですね。
17世紀まで時間をすすめましょう。
1453年にボルドーは再びフランス統治に戻り、イギリスへの輸出量はかなり減ります。代わりに台頭してきたのが、世界中に流通網を張り巡らせた貿易の覇者、オランダでした。イギリス人が好んだクラレットと呼ばれるスタイルは、抽出の弱い、今で言うところの濃いめのロゼくらいのものだったと言われていますが、オランダ商人が好んだのは航海に向く酒精の強いワインでした。肥沃な川沿いのエリアで育った葡萄(プティ・ヴェルド主体)が使われ、パリュスワイン(Palus、沖積土を指す)と呼ばれていました。わかりやすく言えば、クラレットはエレガントなワインで、パリュスはガツンと系、といった感じですかね。
世界の海を股に掛けるイケイケなオランダは、パリュスワインを貿易品として、甘口の白ワインを国内向けに輸入していたようです。
お待たせしました、1647年です。
この年、北ヨーロッパ全域で農作物の生産がガタ落ちしてしまい、ワインの供給量も半分以下になってしまいます。かたや南西フランスでは豊作。ボルドーには、ワインを求めて船が押し寄せたそうです。
しかし、ここで大きな問題が起きてしまいます。本来サン・ミッシェルの日に決められるはずの基準価格が10月になっても決まってなかったのです。港には、今か今かとワインを欲しがるオランダ商船がずらり。早く売りたいワイン商たちはイライラ。ぼやぼやしてると上流域からもワインが来てしまうじゃあないか。急いで売りたいから、もうお上が価格を決めてくれよ!
そんな切迫した状況に押されて、10月下旬にボルドー市長や議員、判事らが集まり、基準価格を決めるための会議が行われたのです。
そうして、各地域の取引価格を示した表が誕生。これが、ボルドー初の格付け表となるのです。
1647年格付けはどういうものだったか。
上にも書いたように、当時はまだ荘園の名前などは表に出ておらず、あくまでも産地。全部で17の産地に分けられ、それぞれの下限上限価格が示されています。上位には、1635年にフランスの同盟国となったオランダ人のお気に入りであったソーテルヌ[28 - 35 écus]、パリュス[30-35]が挙げられています。パリュスワインに関しては品質が良いからではなく、品不足だったため、高く設定されたようです。
英国人が好むグラーヴ&メドック[26 écus - 100 pounds]、バルサック・プレニャック・ファルグ[28 écus - 100 pounds]などがその後に続いています。面白いのは、この2カテゴリーについては上限がポンドで示されているんですね。英国人が、これらの最高品質(=最高額)のワインを求めていたことが反映されています。
北ヨーロッパの不作による急なニーズ。それに応えるための苦肉の策が、1647年格付けの要因だったというわけですね。
1740年 商工会議所による格付け
1647年格付けは、各産地の価格決定プロセスに大きな影響を及ぼしました。次に重要な格付けが登場するのは、100年近く後のことになります。
実は、17世紀にメドックの干拓事業に大いに貢献し、黄金時代を謳歌していたオランダは、18世紀になると急速に鳴りを潜めるようになります。これは1709年以降、オランダ商船に対して渡航証が出されなくなったためなんだとか。そのため、白ワインやパリュスワインの価格がみるみる下がっていきました。代わって存在感を見せたのは、再び登場、ボルドー大好きイギリスです。これに合わせて、イギリス人の好きなメドック、グラーヴワインの需要が増加します。
イギリス人のボルドー熱に再び火をつけたのは、一本のワインでした。
それはアルノー・ド・ポンタックがつくったワイン。現在5大シャトーの一つに数えられるシャトー・オー・ブリオンです。オー・ブリオンは、ワインをつくったブドウ園の名前をつけて売り出された最初のワインでした。これが1663年、著名なサミュエル・ピープスの目に止まり、彼の日記に残されています。ボルドーにとって最も大事な歴史上のメモ、とも言われていますね。オー・ブリオンは、それまで売られていた一般的なボルドーワインよりずっと色が濃く、力強く、それでいて上品さがあったようです。おそらく収量制限や、キュヴェの選別、プレスワインの使用、ラッキングによる清澄化、補酒といった、品質向上のための新しい技術を用いたためと言われています。これを、自身の名がついた酒場「Pontac's Head」で直接販売し、大成功を収めたのです。まさにマーケティングですね!
オー・ブリオンは大変人気で、その価格は年々上がっていきます。1677年、イギリス人哲学者John Lockeがオー・ブリオンを訪れてブドウ園を調べています。「ボルドーの最高級ワインはメドックかポンタックだが、それは1樽80 – 100 crownsもする。しかし数年前には50 – 60 crownsだったが、流行を追うイギリス人が競い合ったために値段が釣り上がったのだ」と残しています。ワインの価格が、市場によって左右されていた証拠です。
そんな中、1740年代にギュイエンヌ地方の商工会議所(the Bordeaux Chamber of Commerce for the Intendant of Guyenne)が、価格表を作成します。これが第2の格付けです。
1740格付けでは、まだワイナリー名ではなく、産出される村の名前が1級か2級(グラーヴについては3級まで)に格付けされ、それぞれの取引価格が示されています。ですが、唯一例外的に生産者の名前として挙げられているのが、先ほどのポンタック(オー・ブリオン)でした。それも、価格表のトップに!
まとめると、1647格付けから大きく変わったのが以下3点です。
・「級 (Cru)」が誕生
・地域区分がより詳細に(20 communes in Grave, 19 in Medoc)
・オー・ブリオンが単独で格付けに登場
この頃には、すでに質の良いブドウ園のワインと、そうでないブドウ園のワインは分けるべき、という考えがワイン商の中に定着していたことも分かっています。かつては、ブドウ園の良し悪しは考慮されずにブレンドされていたので、大きな進歩ですね!
長い歴史の中で少しずつ、地域によるワインの差、そしてブドウ園によるワインの差が明らかになっていったわけです。
産地の格付けから、ブドウ園の格付けに
さて、その後の30年間で、格付けが劇的に進化していることが、2枚の書類から明らかになっています。
1745年に制作された(とされる)格付け “Price of wines in good years from 1745 and after”では、より詳細な評価に基づいて格付けがなされています。そしてこの格付けでは産地に対して格付けをするのではなく、ブドウ園に対して行われたのが画期的でした。さらに、それぞれの産地の中で1級から3級(あるいは4級)まで格付けが分かれています。
これと同様の格付けが、1776年にも作成されています。
“First known classification of the wines of Guienne, executed in 1776 according to the prices they had then, on the order of Mr. Dupré de St. Maur, Intendant at this epoch”
ただし、この書籍によれば、これら二つの格付けについてはずっと後になってから再現された書類しか残っておらず、当時と全く同じだったかは定かではないようです。
それでも、18世紀のうちに格付けの在り方が大きな進歩を遂げたことは、次の2人の偉人たちが作成した格付けからもはっきりと分かります。それがウィリアム・エデンとトーマス・ジェファーソンです。
4大シャトーの誕生とメドックの台頭
続いての格付けが生まれたのは、1786年。
ジョージ3世に任命されボルドーに渡ったウィリアム・エデン(William Eden)が作成した格付け表と言われています。
彼の目的は、ルイ16世との貿易交渉の材料集めでした。イギリスとフランス両国の貿易品目を増やし、適切な関税を設定し、市場を活性化させることが狙いだったようです。イギリスへ輸出されている貿易品といえば、なんといってもボルドー産のワインですからね。これは推測ですが、おそらくボルドーのクルティエ(仲買人)たちと、どのブドウ園が良いか、どのブドウ園が貿易品として価値があるかを議論し、この格付けを作ったのだろうと思います。
この格付けでは、①1級と②2~3級という2階建てになっています。
驚くべきは、現在最も高い名声を得ているシャトーたち…つまり、オー・ブリオン、マルゴー、ラフィット、ラトゥールたちが1級にズラリと並んでいることです。1855格付けのトップに君臨していた4大シャトーが、1786格付けの時点ですでにトップに座っている(1973以降はムートンを加えて5大シャトーに)、この事実こそ、1855格付けが長年の歴史の中で育まれた評価をベースに作成されたことの裏付けと言えます。
2~3級には37のブドウ園が列記されています。この「~」がイマイチ分からないところで、実際のリストを見ても2級と3級の境界線はないんですね。じゃあ全部2級じゃないの?と思ってしまいますが、きっと当時はどこかに境界があったのかな、と想像します。
もう一つの重要な格付けが、のちのアメリカ大統領になるトーマス・ジェファーソンの格付けです。1855格付けの次くらいに有名な格付けではないかと思います(が、日本ではこの存在自体あまり語られていないです)。
1785年から89年にかけて駐フランス公使を務めていたジェファーソン氏は、1787年の春にボルドーを訪れています。この時に彼の気に入ったワイン(ブドウ園)が、1級から3級までのランキングとともに記録されています。4つの1級、5つの2級、7つの3級の合計16のブドウ園を格付けしており、ウィリアム・エデンに比べるとかなり限定的です。
さてこのジェファーソンの格付けですが、かなり精度が高いんですね。16のブドウ園のランキング、かなり1855格付けに近いのです。
愛好家とはいえ、ビジネスの対象ではなかったボルドーワインになぜ彼は正確な評価ができたのか。実は、この格付けのベースになった彼のワイナリー訪問は、せいぜい1週間足らずだったと言われています。必然全てのワイナリーを見て回ることは不可能。おそらく当時の有力なネゴシアン、あるいはクルティエがツアーのアテンドをして、彼らのビジネス上の格付けを共有していたのだろう…と、この書籍の著者も推測しています。
いずれにせよ、すでにこの時代に1855格付けの上位陣が確固たる地位を築いていたことが分かります。
ここまで見てきた18世紀終わりまでの格付け表は、毎年リリースされる新酒の「初売り価格 (opening prices)」を設定するのに大いに役立っただろうと考えられています。
何百ものブドウ園の名を冠したワインが、いくつものクルティエやワイン商らを経由して取引される中で、一つずつ価格を決定していくというのは実に骨が折れる作業です。
それよりも、各ヴィンテージの出来不出来を、最高品質(1級シャトーら)のワインをベースに設定し、そこから各クラスのワインの価格を設定していくほうが、ずっと効率的だからです。
さあ、ずいぶん長くなってしまいました。
いよいよ、1855格付けの「基礎」ともいうべき、最重要格付けが登場します!
歴史の生き証人「タステ・ロートン」による格付け
1855格付けが、なぜたった2週間で完成したのか。
その秘密を一言で表現するなら、「すでにあったから」に尽きます。
1855格付けの根拠となっているベースの格付けは、遡ること40年、1815年に制作されています。
そしてこの格付けが、最も信頼の置ける人間によってつくられたからこそ、1855格付けには誰もが納得できるだけの、絶対的な力が備わっているのです。決して突貫工事の格付けではないのです。
1815格付けをつくったのは、ボルドーのクルティエ「Tastet & Lawton(タステ・ロートン)」の当主、ギヨーム・ロートン氏です。ワイナリーとワイン商人の橋渡し役を担う彼らにとって、各ワイナリーの品質、年ごとの出来と評価は、最も重要な商売道具と言えます。彼らが作成した格付けは決して公にするためのものではなく、あくまで内部資料としての役割を担っていたようです。「格付け」という表現も、もしかしたらふさわしくないのかもしれません。この内部資料には膨大な数のワイナリーの情報と、それぞれのワイナリーの各年の出来が記録されているといいます。格付けに含まれていないワイナリーたちについても詳細に記されているそうです。もはや格付けというより「ボルドーワイン全集」とでも名付けたいほどです。
上述したように、この格付けの内容は1855格付けにかなり近いです。
1855格付けの原型と言って良いでしょう。
1647年から続く格付けの歴史に加えて、1740年創業のタステ・ロートン社の実績、蓄積された膨大なデータを基礎とした、真に偉大な格付けがここに誕生したのです。
そしてこの後、1855年までの間にも複数の格付けが生まれています。
そのうちのいくつかは、業界の人間のためのものではなく、ワイン愛好家や旅行者のためのガイドブックの体裁になっています。
このあたりからも、時代の移り変わりを感じますね。
ずいぶん長くなってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
途中から事実の羅列だけになってしまいましたが、その中に見え隠れする歴史の移り変わり、人々の営みを感じていただけたなら嬉しく思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!
次回からはもっとライトな話を書きます…w
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