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「岸田総理(宏池会エリート主義)」と「河野家的ヤクザ主義」の因縁の戦いは、日本国の方向を決める大きな分水嶺

(トップ画像は岸田文雄総裁選特設サイトより)

自民党総裁選の結果、予想を大きく裏切る「決選投票前の段階で岸田氏が一位」の勢いのまま、「岸田文雄総理」が誕生することになりました。

私は8月31日に書いた記事↓

で、

もし岸田首相になったらその「変化」は、もしダークホースとして高市早苗さんが当選して初の女性首相が誕生するよりも、もっと大きな「変化」になるんじゃないか・・・と感じています。

…と書いていました。

とはいえこれは単にグダグダの頼りない何も決められない国になる危険性と隣合わせでもあるため、岸田総理になりゃそれでいいという話ではないわけですね。

単純に言えば、河野氏になるか、高市氏になるか、どちらにしても「わかりやすい」情勢ではあったわけです。

岸田氏になったらそういう「わかりやすい斬り方」はできなくなります。グダグダの何も決められない政治になる危険性だってある。

しかし、そういう道を通ってでも、今の日本は、

平成時代の「抵抗勢力をぶっ壊せ!と叫ぶ」型の改革中毒を脱却していくべき時

だと私は考えているわけですね。

とはいえ、「平成時代の改革中毒」を脱却していくとして、その先の「新しいコンセンサスの方向性」には色々ありえるわけですが、その中でも「岸田派(宏池会)」が主導になることの意味と、その背後にある「河野家との因縁」について書きます。

実は岸田派(宏池会)の源流にあるとされる吉田茂氏と、河野太郎氏の祖父河野一郎氏はとにかくムチャクチャ仲が悪く、

その仲の悪さは、河野一郎氏の家が極右活動家に放火された時に、吉田茂は大喜びをしていたという話が残っているレベル

らしいんですね。

その両者の志向は、単なる派閥争いというよりも、それぞれの「日本の歴史の中で象徴的に常に争ってきた2つのキャラクター」同士の争いと言ってもいい様子なので、そこを深堀りすることで「河野でなく岸田を選ぶことの歴史的意義」について考察する記事です。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●岸田派(宏池会)は「お公家集団」と呼ばれたグループ

私は経営コンサル業のかたわら色んな個人と「文通」を通じて人生について考えるという仕事もしており(興味のある方はこちら)、まあ普段はあまり政治的な話はしませんが、強いて言えばクライアントには「保守」の人も「左翼」の人もいます。

その中で「保守派」の人で、自民党の内部事情とかに詳しい人に「宏池会」ってどういう人たちなの?と聞いたところ、その主要メンバーが出ている動画なんかを紹介されて色々見たりしたんですが…

それを見て私は結構驚いたというか、「全然自民党っぽくない」人たちなんだなあ、という印象でした。

そもそも最近「主流メディア」以外の動画とかで自民党議員を見ると、「田中角栄型」の「自民党政治家イメージ」とは全然違うシャープな感じで話す人もかなりいるんだなと驚くんですが、なかでも岸田派(宏池会)の人というのは、

いわゆる「就職偏差値」が高そうな大企業の社員と話しているような印象

なんですよね。

それは、「強み」の部分も「弱み」の部分も含めて、なんか三菱商事だとかにいそうな人なんですよ。(あるいは、昔の野武士っぽい世代ではなく最近の世代の外資系コンサルティング会社の新卒入社の人みたいな、毛並みの良い”普通の優秀さ”がある感じというか)

つまり、普通に英語できる、普通に国際情勢とか詳しそう、普通に勉強できそう、普通にロジカルな話し方ができる・・・みたいな「ある意味で優秀」な人たちが結構いそうなんですが、逆に、

「普通に優秀そうだが、しかしこういう人たちで”日本社会という沼”に立ち向かえるのかな?」

と不安になってしまう感じがする・・・というのが「岸田派(宏池会)」なんですね。

古くは吉田茂を源流に持ち、高度経済成長時代を主導した池田勇人首相によって結成された宏池会は、一応「名門派閥」だったはずなんですが、1991年(平成3年)の宮沢喜一政権以降は自民党総裁の椅子から遠ざかっていて、

普通に子供の頃「勉強が得意だった」系の秀才ぞろいだし、国際的視野もあるし、政策も結構詳しそうだが、政治闘争を仕掛けて総裁選を勝ち抜くみたいなことは苦手な人たち

…みたいな状況が続いて来たのだとイメージするとわかりやすいかと思います。

2●”河野家”との因縁の対決は、「2つのキャラクター」同士の戦い

その「宏池会」の源流にいるとされるのが終戦直後の首相となった吉田茂なんですが、この吉田茂とムチャクチャ仲が悪かったとされるのが河野太郎氏の祖父、河野一郎氏なんですね。

先程も書きましたが、河野一郎氏の邸宅が極右活動家に放火された時に、吉田茂が人目もはばからず喜んでいた…みたいな話が残っているのがよっぽどだと思います。

その河野一郎氏について、中曽根康弘氏が非常に面白い人物評をしてるんですが、

「河野一郎という人物は、肌を接して日常の馬鹿げたことから付き合っていないとなかなか真価は分からない。仲間はとことんまで守りかわいがるが、敵は徹底的にやっつける。地方豪族に特有の一族郎党主義を信条としていた。この中に入り込むと、団結、友情に覆われて、人間が溶かされていく。味方は何でも善、敵は何でも悪というふうになりやすい」 

ウィキペディアに載っているこの写真↓もなかなか、「地方豪族」的にカッコいいオヤブン感がありますよね。

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単純化していえば、河野家というのは、鎌倉にも近い小田原の豪農出身の、「一族郎党の結束」を重視する中世武士団的なガッツの上に成り立っている一族なのだ…といえるかもしれません。

こういう「気分」は年々普通は薄まっていくものですが、河野太郎氏も、父親の河野洋平氏の生体肝移植に自分の肝臓を提供するなど、なんというか、「ヤワいインテリ集団」的なメンタリティからはあまり出てこない行為をサラッとやるあたり、なかなかそういう「血」を受け継いでいる部分はあるかもしれません。(後日追記なんですが、生体肝移植は免疫拒否反応の問題があるため、肉親がドナーになることはむしろ普通なことだそうです。私は”若い世代の方が親に提供する”事はレアなのかと思っていましたが、少し認識を改めました)

逆に吉田茂は富裕層出身で東大を出て外交官となり外国駐在が長かった人なので、

河野家vs宏池会

は、

ヤクザメンタリティvsエリート官僚メンタリティ

の争いだと言っていいかもしれません。

「一族郎党」を重視するヤクザメンタリティが、「中央集権的なもの」とぶつかるのは本能的によくあることであり、保守層から悪名高い「河野談話」の河野洋平氏も、脱原発などにおいて強引に「自民党政治」との対決を目指す河野太郎氏も、

「地場の”俺たち”の純粋性」を徹底的に追求していく結果として「日本国」という中央集権的制度とぶつかっていくメカニズムの結果、何らかの「”今の日本”に対するアンチテーゼ」的なテーマを引っ張ってきて暴れる役割を担うことになる構図

なのだと考えられるように思います。

そういう意味では、日本特有の「物凄く細部まで非妥協的で純粋志向の左翼運動」も、その源流にはこういう「ヤクザの心性(その背後には中世の地方豪族のような)メンタリティ」があると言っていいかもしれません。

3●平成時代は、あらゆる日本人の「ヤクザメンタリティ」が「アメリカ」を利用して暴れ続けた時代

最近あちこちで紹介しているんですが、歴史学者與那覇潤氏の「平成史」という本が凄い良かったんで、興味がある方はぜひ読んで、「これからの令和」を考えるためにこそ「平成」を真剣に問い直す時間を持ってほしいと思っています。(内田樹氏や宮台真司氏、上野千鶴子氏など、「平成時代に一世を風靡した」論客の人たちが今「???」という扱いになっている理由などについてバッサバッサ斬っていてなかなか興味深い本です。)

與那覇潤「平成史 昨日の世界のすべて」

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與那覇氏の本を読んでいて特に印象的だったことは、令和の今から振り返った印象では、「ほんの一部の強欲的なネオリベ論者」だけが主導した印象になっている「小泉・竹中路線」みたいなものは、むしろ当時は

左派・右派問わずかなり広い範囲の国民的同意が支えていた現象だったのだ

ということです。

その「感じ」は若い人にはなかなか伝わらず、当時生きていた世代でもついつい忘れがちなんですが、単純に言うと、

「昭和」的な日本社会の「みんないっしょ感」を破壊してくれるのが、それ自体爽快なことだった

…というような気分があったのだと言えそうです。

結果として、日本社会のあらゆる場所で、「味方の俺たちvs敵のあいつら」を分離しようとするヤクザの原理で動くエネルギーが、冷戦終結後の「世界全体がアメリカナイズされる流れ」と共鳴し、果てしなくバラバラに

「”敵のあいつら”をぶっ壊せ!」

と叫ぶだけ叫んで、結果として混乱し続けたのが平成時代なのではないでしょうか。

左派は「自民党的古い日本」を倒しさえすればといい、右派は「朝日新聞的パヨク」がいなくなりさえすればといい、エリートビジネスマンは「既得権益勢力」をぶっ壊しさえすればと言い、最近では「ポリコレ原理主義」にちょっとでも躊躇する勢力がいればそれを打ち倒しさえすればいいという運動にもなり、財務省を打倒しさえすれば…という勢力もあり。

しかしそうやって「アメリカ的な個人主義」を果てしなく導入し、あらゆる個人が「自分の立場」だけを神様レベルに絶対化して「敵を打倒しさえすれば」しか言わない社会になってしまえば、具体的に前向きな改善を積んでいくことなど不可能ですし、経済全体としても「アメリカ的な格差社会」にまっしぐらなのは言うまでもないので、それも良くないからと急激にブレーキを踏んで、いわゆる

「やっているフリ」だけが続く


時代になってしまったのは否めません。

最近あちこちで書いていることですが、私のクライアント企業で10年で年収を150万円ほど引き上げることができた例があるのですが、その秘訣は「保守派に敬意を払う」っていうことなんですよね。

以下の図は私の著書で使った図ですが、

メタ正義トライアングル


「敵」も無意味に存在してるんじゃなくて「敵が存在している意味」があるんで、それを「自分たちの派閥」的にもOKなやり方で徹底的に解消してやるぞ、という意志があれば「敵」を本当の意味で打ち倒すことも可能になる。

「改革派は保守派に敬意を払うべき」って言うと凄いナアナアな話に思われるんですが、そうじゃなくて「ちゃんと徹底的に押し切る」ために必要なことなんですよ。

平均年収を150万円も引き上げるには相当に「ドラスティック」なビジネスモデルの変革が必要ですけど、そういうのを「都会のほんの一部の上澄み的階層」以外でちゃんと安定的にやろうと思えば、「敵側の懸念」もちゃんと吸い上げて解決する姿勢を示さないと、そのうち怨念の連鎖が止められなくなって身動きが取れなくなるんですよね。

ほんのいっとき「抵抗勢力をぶっ壊す!」ことができたとしても、その「ぶっ壊された」方の恨みは同じ社会の中で滞留して「改革派がやるありとあらゆることを邪魔しようとしてくる」みたいになるじゃないですか。

最後まで「どんなことでも不満を言う」ような人は残るにしても、そういう「なんでも反対しか言わない人」の声を聞きすぎてただ混乱するのを避けるには、少なくとも「その社会の普通の人」に関しては改革派も保守派も両方抱き込んでいけるだけの度量を示さなくては。

「平成時代」に「抵抗勢力をぶっ壊せ」型の改革がある程度成功したように見える分野もあるのは、平成時代の外部環境である1990年代〜2010年代は、冷戦終結後世界中がアメリカ一強の風潮に支配されていたからこそできていた「期間限定のこと」なんですよね。

アメリカ人がやるように、完全に「他人」を切断処理して「俺たちvsあいつら」をゴリ押ししていくあり方がある程度有効な情勢があった。

でもそれは今後どんどん無理になっていくんですよ。

なぜなら、これも最近何度も引用している話ですが、バイデン大統領の演説を関西弁で訳したら、「徹底的な言い訳力」と「人の気持ちに寄り添うレトリック力」が超凄いことがわかる・・・という企画をツイッターで発表したら好評だったのでご興味があればこちらで読んでほしいのですが(ツイッターユーザーはこちらから連続ツイートで読めます)、それを読んでもわかるように

もう「アメリカ流に世界を無理やり合わさせるパワー」は今後どんどん弱まっていく

わけですね。

それはもちろん、世界的にも混乱状態になる事が予想できますが、しかし日本にとってはこれ以上ないチャンスでもあるわけですよ。

詳しくは以下の記事で書きましたが、「アメリカ単体で世界を支配できなくなれば、アメリカの同盟国で世界第三位の経済大国の重要性が高まる」のは当然のことなんですね。

アメリカ的に「個の暴走」で「敵をぶっつぶせ!」というだけではいけなくなれば、結局「同じ場所を共有しているのだ」という前提で「対話」をする必要が高まってくるからです。

その時に、「明確に自由主義サイドに立っていながら、”欧米文明にのしかかられている側”の気持ちもちゃんとわかる」日本という存在の可能性が、人類社会の中で非常に重要な位置を占めるようになるからです。

結果として、あらゆる日本人の「ヤクザメンタリティ」が「アメリカ流が人類社会全体に唯一のやり方として押し付けられる平成時代の外部環境」を利用して暴れまわり、果てしなく混乱し続けた平成時代が終わり。

今度は「果てしなく分断化したいろいろな立場」同士をちゃんと細部の具体的議論を積み重ねて具体的に変えていける時代が今後来るはず。

その「平成時代流の”対話拒否型”の改革中毒」を超える新しい可能性が、

「ヤクザ的エゴ同士の群雄割拠状態」から「宏池会系インテリへの”大政奉還”」

を生み出したのだ・・・と考えると、「岸田総理」の誕生が持つ日本史的な「意義」がイメージできるのではないでしょうか。

願わくばその「ヤクザ的ガッツ」もちゃんと排除せず引き上げて、「宏池会的視野」の調和の中で力を発揮できる情勢になることを願っています。

4●宏池会的リベラリズムがちゃんと「日本人の事情」も吸い上げられる国際情勢になった

宏池会は首相を出した人数は少ないですが、サンフランシスコ講和条約を締結して「東西冷戦の中での日本のポジション」を確定させた吉田茂を源流に持ち、そして高度経済成長を主導した池田勇人など、「経済大国日本」を作る一番重要な意思決定はほとんどすべて彼らが行ったといっても過言ではありません。

しかしなぜその後長らく権勢を失っていたかというと、「あまりにインテリすぎ」るキャラクターが日本社会というリアリティをすみずみまで扱いづらくしていたところがある。

特に東アジアの勢力争い的なリアリティの中で、河野家系ほど明確に”反・中央集権”を取るわけではないにしろ、染み付いた「一種無責任的な中立しぐさ」的な部分が弱腰だと捉えられかねない情勢が続いていた。

今も高市氏を支持するような保守派から見れば「岸田は頼りないぞ!」というふうに見えるのもわからないでもない。

しかし、今や米中冷戦がたけなわで、日本が主導した「自由で開かれたインド太平洋」戦略の結果として、欧米諸国の空母が揃い踏みで対中封じ込めに動けるような情勢になっている事を考えると、

・単に一国のナショナリズムの延長としての対中強硬

ではなく

・国際情勢との連動の中での自分たちの立場を高めていく方式による東アジアの主導権争いでの優位性追求

ができる情勢になっている。

さきほどリンクしたこの記事↓

で詳しく書きましたが、これは20世紀の日中戦争の時に中国に「してやられた」作戦を明確にやり返すことができた戦略的勝利の結果であり、それによって

「宏池会的国際協調が、東アジアにおける主導権争いという国益追求と無矛盾に合致できる情勢になった」

ことが、今回「宏池会主導」に政権がまとまる結果になっためぐり合わせの背後にあると私は考えています。

上記リンク先記事で書いたように、米中冷戦時代には、「世界平和に対する新しい責任のあり方」が必要であり、それは「昭和の終わり」の日本が世界一の繁栄を引き寄せられたのと同じような、「構造的な日本にとっての繁栄のボーナスタイム」を引き寄せられる可能性もあるわけです。

また、そういう「情勢変化」ゆえに、単に「大日本帝国全否定的に懺悔してみせる」形ではなく、しかも国際的普遍性にかなった「新しい歴史認識問題」の決着の道だって見えてくるでしょう。↓

「20世紀型リベラル」が自分たちを絶対善に置くためのポジションを作るための廃棄物のゴミ捨て場のように侮辱され続けてきた日本人の過去は、米中冷戦時代の「本当の平和への責任」のために名誉回復される流れが必ず来るはずだ・・・という話は上記リンク記事↑をお読みください。

高市氏が健闘したことで、「党内保守派」の存在感も基礎としてしっかり政権に残るでしょうから、

「尊皇攘夷運動が開国政府を作った」ことで、「群雄割拠型の豪族支配から中央集権型のインテリがリードする社会へ」

持っていけるのではないかと私は期待しています。

選挙結果によっては、バイデン政権ができたあと「選挙結果陰謀論」に走る人が多かったアメリカのような状況になりかねない情勢だったけれども、ツイッターを見ていると、「高市支持者」は概ね「岸田総理」を支えていこうという意志を持っている人が多いようです。

「高市人気」を支えた保守系インフルエンサーの方々にお願いしたいのは、くれぐれも「西南戦争」のような悲劇が起きないように、愛国心を持って「同じ方向」に繋ぎ止める役割を果たしてほしいと切実にお願いしたいと思っています。

アメリカでは「バラバラになってしまった」部分を一箇所に繋ぎ止めたまま進むからこそ、開けて進める「最後のドア」の先にこそ我々日本人のための繁栄のボーナスタイムはありますからね!

そして河野氏自身も、国民的人気は高いですし、実務的能力の評価も高いですから、必ず今後「出番」はあるでしょう。

繰り返しますが、河野氏的豪腕が、ワクチン接種推進において重要だったのは間違いありません。

しかし、ワクチン接種なら「拙速は巧遅に勝る」でいいけれども、エネルギー政策がそれだと本当に国が沈む危機になりますよね。

自然エネルギー関係者からすら安定供給に危機感を感じられる情勢になってしまい、昨年の冬も今年の冬も大停電の危機になっていながら普通の人はだれも知らないし、結局東電みたいな古い企業が尻拭いをする…みたいなギクシャクした関係は終わらせなくてはいけません。

自民党関係者には、「ノーサイド」的に争いのあとの団結を見せていただいて、

「果てしなく敵を非難しまくるだけ」だった平成時代の混乱を終わらせる、令和の対話型政権

の誕生を期待しています。

今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、ちょっと突然ですけど小室圭さんの話をします(笑)

なんかツイッターで、彼がフォーダム大ロースクールのポッドキャストで、同校卒業生のプライベート・エクイティの人にインタビューする…みたいな音声がシェアされてて。

ちょっとだけ日本人的な発音なんですけど(日本国内のインターナショナルスクール出身者は特有の”日本のインターのアクセント”があるって聞くけどそれかもしれない)、逆にそのへんが妙にリアルに「努力したんだなあ」って感じがしたというか(笑)

子供の頃から海外育ちの人が努力してないってわけじゃ絶対ないと思うけど、やはり純ドメスティックな環境の中から、お母さんの尋常ならざる上昇志向に引っ張られて、過程でいろいろな不義理は重ねたにしろ、最終的にはプリンセスの心を射止めて、年収二千万のニューヨーク弁護士の就職内定もして…というのは、まあ単純に頑張ったんだねえ、という気持ちになったというかね。

彼についてのメディアの大騒ぎはほんとバカバカしいと思っていて、自分はあまりちゃんと追えていないので、全部追っていれば実際は結構ひどい話もあるのかもしれず、その点はちょっとなんとも言えないですが、ただまあゴシップで騒げるのも自由主義社会の必要悪ってとこあるからね。

この件について特有に日本が人権後進国だ!みたいな言い方は違うと思ってて、英国王室とメーガン妃の問題だって騒いでる人は世界中で果てしなく騒いでるじゃないですか。

だから「こういうゴシップってバカバカしいよね」はいいけど「こういうゴシップで騒ぐ日本ってほんと遅れてるよね」は明らかに間違ってると思います。世界中どこだってゴシップ好きな人は騒ぐし、そういうのに眉をひそめてる人もどこの国にもいる。

皇室や王室がなければ別の芸能人的スターについて同じことが起きるだけの話なので。

ただこうやって騒ぐことにも意味があって、「皇室に期待される役割」と、「マコさまと小室圭さん」のカップルがちゃんと「別の世界」で生きる流れを作る上では、「必要なプロセス」なのかなと思っていて。

なんにせよ、年間十億円とか数十億円とか言われる警備費用を英国王室その他各国政府に払わせようとしているメーガン妃と旦那さんと比べたら、一億円程度の一時金も辞退するマコ&小室圭さんカップルは頑張ってると言っていいと思うし、色々問題はあるんでしょうけれども、個人的には「幸せならそれでOKです!」っていう例のネットミームに僕は全力で賛同したいと思っています。

で、ここ以降は、なんかこう、「役割分担」について考えたいんですよね。

「皇室」的な役割を果たすっていうのは大変なことなんで、一族の中でいろいろなあり方を選択する人が出てきたら、その「皇室に期待される役割」とは違うキャラの人も出てくるのは避けられず。

古い歴史の中では、皇室の中にそういう「皇統からずれた存在」は、出家したり歌の世界にハマりこむとかして「別の生き方」を見出してもらうことで安定してきたところがあると思うんですけど。

そういうふうに考えると、マコさま&小室さんカップルがうまくいくことは、皇室にとっても悪いことではないというか、思う存分「そちらがわ」に振る選択肢を一人が取ることで、逆に「皇室らしさ」を担う側の人もやりやすくなるというか。

そういう「役割分担」を認め合うことができれば、果てしなく「保守派と革新派」が罵り合う形でない決着もありえるというのは、あらゆることに言えることだと思うので。

ここ以降は、さっきの小室圭さんのインタビューを聞いた印象などを話しながら、その「今後の皇室」について考えたいと思っています。

そしてそういう「深いレベルの変化」と同期していくことによってのみ、宏池会的に「ゴリ押ししないリーダーシップ」で日本が変わっていくことも可能になるはずなんですよ・・・という話もします。

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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