「ロジカル」から「呪術」へ・・・画像生成AIに「呪文」を唱えるようなやり方で社会を運営していく時代が来るという話
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適切な言葉を投げかけると、人工知能が勝手に良い感じの絵を描いて返してくれるサービスが話題です。
その画像のクオリティは相当なもので、相当にSNSの話題をさらっていますが、私はむしろこの画像生成AIを使いこなすために適切な言葉を選ぶ技術が、「呪文」とか「ルーン」とか呼ばれている現象が非常に面白いなと思っています。
個人的な意見としては、この「呪文」型のコミュニケーションが、対AIだけでなく人間社会相手の働きかけにおいても今後非常に重要なものになってくると私は考えているんですね。
コミュニケーションは「ロジカル」でなくてはいけないという時代が終わり、むしろコミュニケーションは「呪術的」に配慮されたものであるべきという時代が来る。
今回の記事では、
・そもそも「AIに対する支持が呪術的になる理由」
…を考えた上で、
・「呪術的」コミュニケーションと「ロジカルな」コミュニケーションの違い
…についてまずは整理します。
そして、
・その呪術的コミュニケーションがなぜ対人間社会でのコミュニケーションにおいても重要になってくるのか?
…について考えを進めていきます。
(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)
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1●まずは、”この記事を書く狙い=今の日本が直面している課題”と、私の自己紹介について。
本題に入る前に、この記事を書く狙いを説明します。
今の日本が直面している課題の解決において、「呪術的コミュニケーション」の問題が重要な位置を占めているのだと私は考えているんですね。
今の日本の課題は、社会全体に「呪術的コミュニケーション」を再生することによってしか解決できないという話をしていきたいわけです。
少しだけ自己紹介すると、私は大学を出て外資コンサルに入ったあと、ある考えがあって、辞めたあと「日本社会の上から下まで全部見る」と称して肉体労働やブラック企業やカルト宗教団体への潜入などをした上で、今は最大でも売上数百億円程度の中小企業コンサルティングをしている人間です。
なぜそんなことをしているかというと、外資コンサル(およびグローバルな経済において標準とされる発想)と「日本社会」との巨大なギャップに直面し、これをほったらかしにしていると社会全体が真っ二つに分断されて殺伐とした感じになってくるだろうなと思う経験を色々したからなんですね。
ちょっとこの辺は話せば長くなるので、詳しい話はこないだ受けた三回連続インタビューを読んでいただければと思います。
結果としてアメリカなんかは社会全体が真っ二つに分断されて、数千万人の怒れる民衆がインテリがいうことの全て逆をやってやると息巻いている社会になってしまっていますよね。結果として女性の妊娠中絶の権利すら危ういところまでいってしまっている。
日本はアメリカほどに経済の転換が進んでいない問題点はあるものの、逆にアメリカほど社会の分断が進んでもいないし社会もなんだかんだ安定している。
これからの日本は、この「安定した社会の絆」を引きちぎらないように注意しながら、一歩ずつ「米国型の創造的破壊経済」的な転換をも実現していくという両取りのチャレンジが必要だと私は考えています。
そのためには、普通は混ざり合わない「水と油」のような関係のものを、乳化剤を介して混ぜ合わせてマヨネーズを作るようなプロセスが必要なんですね。
私はこれを、「それぞれが持つ対立するベタな正義」同士を統合する「メタ正義感覚」と呼んでいます。
実際、最近出した本に詳しく書いたように、私のクライアント企業で、この10年で150万円ほど平均給与を上げられた成功例もあるんですが、それが成功したポイントは、
「インテリ的発想でマクロに見た時当然のように見える合理性」を、いかに「社会の現場の人間関係」を引きちぎらないまま、”浸透させていく”ことができるかどうかにかかっている
…と感じています。
アメリカ型に「引きちぎって」実現するのは、アメリカだからできることだし、アメリカですらその副作用で非常に苦しんでいる現状がある。日本がそれをそのまま真似しようとする試みはそもそも不可能で、「両取り」を目指す方が最終的にはスムーズに転換も進むのだというのが私の考えです。
で、こういうことをやっていくには、社会における「インテリレベルで生きる人間」と、「現場レベルで生きる人間」との間に、今とは全く違う相互コミュニケーションのチャンネルを作っていくことが必要なんですね。
つまりさっきのたとえ話で言えば、普通は混ざらない水と油のようなものを、乳化剤で混ぜ合わせてマヨネーズのような部分を社会に作っていく事が必要になる。
そして、
まさにそこに必要な”新しいコミュニケーション”は、「ロジカル」でなく「呪術的」なものだ
…と感じているんですね。
今回記事では、AIに対する指示が呪術的になる理由や、そこで行われている数学的な処理がどういうものかを軽く理解しつつ、これからの社会で重要になる「呪術的コミュニケーション」とは何なのかについて考える記事になります。
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2●AIへの指示例から考える、「ロジカル」と「呪術」の違い
上記リンクに、画像生成AIのMidjourneyに色々な「呪文」を入力して試している人たちの様子がまとめられていてなかなか面白いです。
面白いものをいくつか抜粋引用させていただきます。(クリックすると画像やその”呪文”部分を拡大して見られるほか、”ツリー”形式で下にぶらさがっている補足説明も読めます)
上記の例を色々見ていると、「良い呪文」=「良い呪術的コミュニケーション」は、過去数十年「良い」とされてきた「ロジカルで端的な」コミュニケーションとはかなり違いますね。
「ロジカルなコミュニケーション」は、余計なニュアンスを極力排除して、単純明快な概念や因果関係のみを伝える事が良いとされてきました。
一方で「呪術的なコミュニケーション」においては、むしろ「ニュアンス」こそが本体だと言ってよく、「一個のメッセージ」が持つ「受け取られ方の広がり」の部分をいかに適切にコントロールできるかが重要になります。
そして、単に「広がり」があるだけでなく、「呪術的コミュニケーション」は「双方向的」なんですね。
つまり、「ロジカルなコミュニケーション」においては、「一つの言葉が常に絶対値的に一つの確定した意味を持っている」というイメージがありましたが、「呪術的コミュニケーション」においては、「相手側」の受け取られ方の総体こそが「コミュニケーションそのもの」になります。
つまり「双方向的」に、色々なワードをこちらから投げかけてみて、それを相手が「どう受け取ったか」のパターンの広がりを見ながら補正していきつつ、正しい「呪術的効果」に動的に補正を重ねて迫っていくプロセスこそが「コミュニケーションの本体」なんですね。
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3●人工知能の背後にある数学のざっくりした説明(シニフィアンとシニフィエ)
要は一個の「言葉」が持つ「意味の広がり」の部分こそが本体になってくる。
村上春樹が自分の作品について、「正しい一つの読み方」があるのではなくて、作者からすれば”誤読”に見えるような読み方も含めて読んだ人の数だけ色々な響き方をしていく、その「総体」こそが社会の中におけるその作品そのものなのだ・・・みたいなことを言っていましたが、呪術的コミュニケーションにおいて重要なのはその「広がり」の方になってくるわけです。
ちなみにこういう話を文系の思想的インテリ界隈の用語では「シニフィアンとシニフィエ」という言葉で呼びますね。
毎回どっちがどっちだっけ?と思ってしまうんですが(笑)、シニフィアンの方が「名前」というか「言葉」的な「記号」の部分で、シニフィエはその記号が意味するものの広がりの事を意味します。
今の時点のAIとは、「シニフィアン」的なものを「シニフィエ」レベルで理解する時に、その「感じの広がり」を定量的に分析する技術だと言えるでしょう。
「ジョジョの奇妙な冒険」的なたとえ話をすると、池に石を投げ込んだ時の「波紋の広がり」こそが「そのコミュニケーションの全体像」なのだ…みたいな理解ですね。
例えば何かがネコっぽい時に、最近のネット用語では、「ネコ味(み)がある」とか、「ネコ成分が濃い」とか言いますが、ざっくりいうと最近のAIの背後で動いている数学はそういう「感じ」を数学的に分析することによって出来ているんですね。
「ネコっぽさ」をそのまま単純に数値化して抽出することは無理ですが、それを何層にもわけた色々な「特徴量」の指標を抽出して分析し、それぞれの「特徴量」ごとに、「A成分はこれぐらい、B成分はこれぐらい、C成分がこれぐらい・・・」といった感じで多分数百とか数千とかの指標において定量化し、それぞれの指標同士の関係性の中で定義していくことで、全体として「●●っぽい」とはどういうことかが肉付けされていく。
イメージ的には、一つの「言葉」が持つ「響き・広がり」の部分を、「無数の色々な指標がそれぞれどの程度の範囲の現象なのか」として定量化して分析していくわけですね。
余談ですけど昔は理系の方が単純明快でドグマ的になりがちだけど文系の学問は柔らかい現象を理解できる・・・というイメージがありましたが、案外理系の数理処理がこういう「柔らかい現象」を徹底的に数理的に扱えるようになるにつれて、逆に人文系のある一部の人がイデオロギー的な純粋さに凝り固まったような考え方をしがちなのがアラワになりつつある逆転現象も起きているように思います。
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4●ではなぜ、これからの時代「呪術的コミュニケーション」が重要になってくるのか?
さて、ここまでで、人工知能の話をしながら、過去数十年推奨されてきた「ロジカル」なコミュニケーションと、これから重要になってくる「呪術的コミュニケーション」との違いについて説明してきました。
では、これから「呪術的コミュニケーション」が、対AIだけでなく対人間や対社会のコミュニケーションにおいても重要になってくる理由について考えてみます。
それは単純にいうと、「社会の中央寄りにある学歴に守られたゾーン」と、「社会の現場レベル寄り」の場所では、「言語的に純化されたコミュニケーション」に適性がある人の数が全然違うからなんですね。
当然のことながら、「現場寄り」になるほど、ロジカルに抽象化された情報だけを伝える事が難しくなってくる。
「言語的コミュニケーション」が得意な人は、そういう人たちとの間のコミュニケーションがなかなか成立しない事に対して苛立つというか、「理解不能」だと感じがちです。
しかし、これからの時代には、「コミュニケーションのスタイルの得手不得手」と「その個人の優秀さ」はまた別の事なのだという発想が必要なんですね。
世の中には、「言語的」なレベルでは物凄くハキハキとコミュニケートする能力が抜群で、就活で「なぜ御社なのか」みたいな作文をさせたら超絶説得力があるタイプだけど、あまり実際の仕事は得意でないタイプというのもいますよね(笑)?
一方で、そういう「言語的コミュニケーション」はあまり得意ではないが、仕事自体は結構体得的にうまくやれたり、責任感的にきっちりこなす能力があったり、人間関係的に人々をまとめあげる力があったり・・・という「人それぞれの適性」を理解してうまく使っていく必要があるわけです。
「言語的コミュニケーション」が得意な人はそれを最大限活用できるポジションにつき、また「言語的コミュニケーション」が得意でない人はそれぞれの能力を発揮できる算段をしていく。そういう「本当の多様性」への目配りが必要な時代になってくる。
実際、社会の現場レベル寄りになればなるほど、外資コンサルにいたようなロジカルなコミュニケーションに慣れた人からすると「打てば響く」感じが全然得られなくなって疲弊するということはよくあります。
しかし、そういう「現場寄り」になればなるほど、「ロジカル」でなく「呪術的」なコミュニケーションが必要になってくるのだと理解できれば、全く違う光景が開けてくる。
「言語的コミュニケーション」だけで末端まで情報が伝わるのに比べて、「呪術的コミュニケーション」が介在する時、それは多少初動が遅いと感じる部分もありますが、うまく動き出すと、その組織から吸い上げられる「能力の多様性」が強烈に高まるんですね。
「呪術的コミュニケーション」がうまく行きはじめた時の反応でよくあるのが、
↑こういう反応です(笑)
「ロジカル」に一対一対応的な論理が繋がって相手の中に同じ論理が記号的に写し取られたという感じではないんですね。むしろ呪術的に「シニフィアンでなくシニフィエ」の部分が相手の中に「響く」ことで、物事が動き出す。
また、この記事前半で書いたように、この「呪術的」コミュニケーションは「双方向的」であることも重要です。
こちらから、色々な方向性を投げかけてみた時に、相手側はそれを「ロジカルに受け止めてロジカルに返す」のではないんですね。
むしろ、AIに対して呪文を唱え、それに対して返ってくる反応が、(それぞれ理由はよくわからないが)望ましいものだったり明後日の方向を向いたものだったりする・・・という現象に非常に近い。
「現場寄り」の人間の脳内には、「感じ」として色々な制約条件が存在していて、A案、B案、C案…とぶつけていった時にそれぞれの方向性に対して非言語的に高速に無数の「ジャッジ」が行われているわけです。
その「反応の返ってきかた」にも多様なニュアンスがあり、単にイエスかノーかという記号的内容だけでなくそれぞれに対する「感触」が伝わってくる。
答えとしてはノーだけど制約条件を吟味すればむしろ大きなイエスになりえるのかもしれないし、イエスと答えてはいるけど非常に困難な上にそれほど効果が大きくなくてできればやりたくない選択肢だったりするかもしれない。
そこで「情報がリッチな」呪術レベルの双方向的やりとりを繰り返すことで、「ロジカルな」コミュニケーションでは決して引き出せないレベルの、現場の細部レベルの実情にあった、そして主体性を引き出せる着地点に誘導していくことができる。
「こういうコミュニケーション」によって現場レベルの人が動き出す時のやりとりは、まさに「画像生成AI」に色々な「呪文」を試している時の感じそのものだということが、イメージしていただけるのではないかと思います。
外資コンサルの人がプライベートの夫婦関係とかでロジカルに話しすぎて破綻するみたいな冗談あるあるネタがありますが、多分、仕事面でなくプライベートにおける人間関係で大事なのも、この「呪術レベル」のコミュニケーションだと言えそうですね。
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5●ゼロベースに合理性を追求しなくて良いのか?その使い分けはどうすべきか?
とはいえこういうのは非常に「まどろっこしい」と感じる人も多いでしょうし、現状の制約条件にこだわっていては結局ゼロベースに白紙の状態から本当の合理性を描いたような解決策に向かえないのではないか?という懸念はもっともです。
私はいつも言ってるんですが、
「9割ぐらいまではインテリがちゃんと考えた机上の合理性を、残りの1割の部分でしっかりと現場レベルとすり合わせて実現することが大事なのだ」
…ということなのだと思っています。
簡単に言えば要は使い分けが大事だということですね。
最近、私の本の昔からのファンだという大企業の幹部の方に依頼されて、普段受けないような巨大な会社との仕事もしているんですが、東証一部上場で売上数千億円とか兆円単位の大会社の全社戦略は、そりゃもう相当に”ロジカルに”やるべきだと思います。
実際初回ミーティングで、私も昔一応所属していた外資コンサルのマッキンゼー社が作ったらしい現時点での全社戦略スライドを見せてもらいましたけど、自分たちの強みを適切に抽出して、ちゃんとその世界で勝てるような戦い方や今後進んでいくべきポイントが明確になっていて非常に感銘を受けました。
「市場の圧力」は日本ではあまり良いものと捉えられない事が多いですが、日本のように「市場環境の変化」に疎くてずっと同じ事をやり続けてしまいがちな文化の国では、適切に市場側からのプレッシャーを受けて、それを「ロジカル」に透明な論理で作用させて大きな方向性を変えていくような機能はやはり無いよりあったほうが断然良いと最近とくに感じるところがあります。
しかし一方で、そういう「既に決まった戦略」を現場レベルまで浸透させて、本来的なその組織の力を引き出していく領域には、大企業とは言えどもっと「呪術的」なコミュニケーションが必要な分野もあるでしょう。
外科手術を外科医がやったあと、リハビリ専門医に転院するように(笑)、全社戦略をマッキンゼー的な会社が伴走して行い、実践面において私のような謎キャリアの人物の出番もまたあるという事かなと思います。
そしてもっと「呪術的」コミュニケーションが重要な分野は、日本の従業員数の7割が働いている中小企業の分野にいかに変化を働きかけていくか…という部分です。
また、「地方創生」とか言うレベルで無数の「非言語的にしかアクセスしようがない」領域が関わってくる現象もそれにあたるでしょう。
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6●和歌山県の地方創生案件が結構うまく行っている理由
最近、私のクライアントも一部で関わっている和歌山県の地方創生案件がそこそこうまく行っているという記事を読みました。
まあまだまだこれから、って感じではありますが、空港利用者数が過去最高で、旅行満足度調査で沖縄を抜いて全国一位、コロナ禍下の新トレンドとしてのワーケーション(ワーク+バケーションのリモートワーカー誘致)も進んでいるらしい。
上記記事で南紀白浜空港の担当者が、「何か特別大きな事をしたのでなく小さな取り組みの積み重ねの結果」だと言っていて、凄いそれが大事なんだよね…と思いました。
平成時代のこういうのって、東京のプランナーがメディア受けする打ち上げ花火的な企画をやって、単にそれが波及せず単発で終わってしまって持続性がないということも多かったと思います。
しかし、「地方創生」的なレベルの課題は、関わる人間の数が膨大なだけでなく「言語的にロジカルなコミュニケーション」が”得意でない人”が大量に混じってくるので、むしろ「呪術的」なレベルでのコミュニケーションの波及が必要になってくるんですよね。
さっきも書いたけど、最初はポカンとしていたいろいろな人が、
…みたいな感じで(笑)”ロジカルな狭義の論理的コミュニケーション”が全然繋がっていかない範囲の人がワイワイと無数に参加してくるように持っていかないといけない。
この「呪術レベルのコミュニケーションの波及」を実現していくことが、平成時代に掛け声倒れに終わってしまった無数の案件にちゃんと「地に足」つけていく「令和」の成功スタイルになるはずなんですよ。
和歌山県で奮闘している私のクライアントは、本業は海外に自分の会社を持っている人なんですが、家族で紀伊半島の僻地に住み込んで時間を一緒に過ごし、たまには現地の人と一緒に林業やって
とか笑われつつ、信頼を獲得して一緒に動いていっている感じが見ていて頭が下がります。
冒頭で「水と油を混ぜ合わせて作るマヨネーズ」のたとえ話をしましたが、こうやって両者を混ぜ合わせる乳化剤の役割を果たしてくれるような人がいれば、その人を介在して、「都会のインテリのアイデア」と「現地現物の色々な事情」を無無理に溶け合わせて、現場レベルに生起する無数の課題を一個一個潰していくことが可能になる。
結果として、「何か特別大きなことをしたのではなく小さな取り組みの積み重ねの結果」的な形で、ほんの一部の特殊例だけでなく「地域全体」をもり立てていくような変化が可能になるわけです。
(そういうメカニズムが動き出すことで、平成時代に日本という存在がまどろっこしくて仕方なかったであろう個人主義者のアクティブな活動も、日本の深い部分と協業させて実現していけるようにもなるでしょう)
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7●中小企業の「アトキンソン」的転換も、呪術レベルのコミュニケーションが必要
もう一つ「呪術的」なコミュニケーションが必要な分野が、日本の中小企業の再編策なんですよね。
上記記事でもざっくり述べたように、そして私の本で詳しく述べたように、日本の中小企業(特に小規模企業)の中にはかなりヤバい(義務付けられている社会保険も無視しているとか、馬車馬のように働かせて手取り十数万円で昇給が永久にないとか)会社がかなりの数含まれており、何らかの形でより大きな会社が統合できるようにしていった方が良い・・・というのはある程度定説としてあります。
私のクライアントの中小企業でも、業績が良い地方の「顔」役みたいな会社が、元の会社の1割ぐらいの会社を吸収合併して「良い文化」が崩壊しないような共同体を広げていく動きは順調に進んでいて、そういうプロセスが各個撃破されてしまいがちな無数の零細企業を救っていく流れにあることは体感的にも疑いないと私は考えています。
こういうアイデアは大枠としてはデービッド・アトキンソン氏などが主張している路線なんですが、結構感情的反発も受けていて、で、実際私も本に書いたように「実践面においてアトキンソン氏が考えているのよりも100倍ぐらい丁寧な配慮が必要」だろうなと感じています。
そこで必要とされているのも、単に「業績が悪い会社は潰してしまえ!」という感じで一方向的に押し込むというより、徐々に最低賃金を引き上げていって、労働基準法の監督も徐々に厳しくしていきつつ、それが文化的連続性を持ってより大きな会社に吸収されるように算段していくような、マクロに見た時の「チームプレー」感がないと日本の場合はなかなか進まないというような。
要はアメリカ型に単に「市場メカニズム」だけで暴走させて潰れるところは潰せ・・・という風に押し込むだけでは、日本社会は自分たちの強みを壊されないために全力で必死に抵抗されて何も進まなくなるが、市場全体に「呪術的な非言語的相互理解」を形成する努力をしていくことで、拒否反応なく市場が持つ新陳代謝のメカニズムがはじめて働くようになってくるってことですね。
ちょっと既に長い記事になっているので、細かいことは私の本を読んでいただければと思います。
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8●国レベルの決断も、「呪術的」なコミュニケーションが必要な時代
あと、「大きな話」になればなるほど「呪術的」コミュニケーションが必要になる例として、国レベルの政治の舵取りの問題があるんですよね。
https://www.minnanokaigo.com/news/special/keizokuramoto3/
さっきも貼った三回連続インタビュー↑の最終回の後半部分でも述べたんですが、例えば今の日本はご老人には湯水のようにお金を使っているのに、若い世代向け、国の未来に向けては物凄く消極的な使い方しかできていないんですね。
上記インタビューから引用しておきますが…(詳しくは全3回とも読んでいただけると嬉しいです)
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8●まとめ
一対一対応の「ロジカルな論理」だけではない、「呪術レベル」のコミュニケーションによってのみ動く分野について、我々は真剣に習熟して使いこなしていくことが必要なのだということが伝わったかと思います。
そしてこの「末端までロジカルな論理だけで動かそうとするあまり、呪術レベルのコミュニケーションが完全に途絶してしまう」というのは、現代のアメリカ社会の長所と短所の両方そのものなんですよね。
さっきのインタビューでも述べていますが、本来「言語的でロジカル」なコミュニケーションで動くようにはできていない末端の人まで「言語的でロジカル」なコミュニケーションに参加させ、そこと繋がれなければもう全く「無」の扱いになってしまうというのが、アメリカ社会の今の困難を生んでいると私は考えています。
この記事のあとの「後編」では、それを「アメコミ」の視点から読み解いて、人類社会にとってのアメリカの意義と、それをどう「使いこなして」いくべきなのか・・・という話について掘り下げますので、そちらもお読みいただければと思います↓
人工知能技術が発展し、「狭義のロジカル」でない情報処理のあり方に人類社会がどんどん慣れていくにしたがって、「AIを活用する呪術」だけでなく、社会全体にもっと「呪術」レベルの相互コミュニケーションを復活させていくことは、日本社会の本来的美点を取り戻し、「末端で巨大な社会不安を生み出し続けるアメリカ型社会運営」を補完する大きな希望になるはずです。
もう10年近く使っているこの図のように…
「アメリカ的理想」と、「全人類レベルの地べたのリアリティ」を繋ぐサスペンションのような存在になれたら、そういう「人類社会に必須不可欠」の希望を生み出す国が経済的に繁栄できないということはありえないレベルになりますよ。
色々と大変な課題が山積みですけど頑張ってもう少し頑張ってみましょう。
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長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。
ここ以降は、少し話が唐突に感じるかもしれませんが、「韓流アイドル音楽の新潮流」の話をします。
私は経営コンサル業の傍ら文通を通じて色んな人と人生について考える仕事もしていて(ご興味があればこちら)、たまに書いてますけどそのクライアントには日本のアイドル音楽の作曲家の人がいるんですね。
彼の作る色んな音楽の、ビートだとかメロディだとか歌詞だとか全体の気分だとか…を色んな世にある音楽と比較したり、「●●さんの作る曲のこういう部分って美点だからもっと伸ばしていけば?あとこういうビートは自作できると独自性が出せていいかも?」みたいな話を延々やってるという、「こんなのが仕事になるとは思いもしなかった」みたいな文通をやっていて結構楽しいんですけど。
ちなみに彼は最近徐々にアイドルに限らない大きなタイアップの仕事が決まるようになってきていて、やはり「その人本来の美点がどこにあるのか」を根気よく引き上げるような空気を作ってマイペースにやっていれば、次々と流行に飛びついて疲弊するよりもちゃんと流れを作っていけるんだなと思っているところです。
で、なんにせよ、その作曲家の人と話していて、最近「韓流女性アイドル音楽」の新潮流というのがあって、それはR&B的路線だ…みたいな話を聞いてなかなか面白かったんですよね。
なんか、90年代〜00年代Jポップの黄金時代も、ロックがメインな空気の中で色々と爛熟した挙げ句最終的には小室音楽もR&B寄りになるし宇多田ヒカルさんが止めを刺すし…で、「R&B的女性音楽」に最後は落ち着いちゃったような感じだったと思ったりして。
この「なんか気づいたら雪崩込んでしまうR&B的世界観」って一体何なんだろうか?みたいな話を、色んな音楽の例を出しながら以下ではします。
日本のネットでたまに話題になる「”オタクに優しいギャル”幻想」みたいなものに関わってくる話かなと思っています(笑)
また、さっきリンクを貼ったこの記事の「後編」で詳しく述べるアメコミ的な世界の流行として、「完璧に見えるヒーローも疲れてるんだよ」ストーリーとそれを癒やしてくれる女性キャラ・・・という流れがあるのですが、そういうのとの関連の話とかにも繋がってくるので、ぜひ「後編」のアメコミ記事やその有料部分とも合わせてお読みいただければと思います。
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2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)
普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。
「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。
また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。
また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。
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倉本圭造のひとりごとマガジン
ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…
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