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「学術会議」人事問題は、単に「学問の自由原理主義」では解決できない。「日本」と「学問」はどうすれば良い関係を構築できるのか?

この記事は、ひさびさのファインダーズ連載記事↓

で書いた「アメリカ大統領選挙の結果」に関する記事と関連した流れの中で、日本における「学術会議人事」問題や、これからの日本において「学問」と「日本社会」との間のあるべき関係性について考えるという記事です。

短めにファインダーズ記事の内容を要約すると、

・アメリカ大統領が民主党になったら中国に支配されちゃう・・・などという世界観は情けなさすぎる

・民主党時代のアメリカは、むしろ「極左vs中道」のバランスこそが最大の政治課題になるので、そこで「日本が持つ安定性」が必要とされる国際情勢がある。

・「極左vs中道」的な国際的課題にちゃんと「日本ならではの旗印」を掲げることで、自分たちの内部においてちゃんと現実をグリップしたまま変わっていくことと、対中国抑止の国際情勢を維持する軸に自らがなっていくことが両立できる

・・・というような話でした。

このnoteでは、その「国際情勢の新しい流れ」の中で日本が担っていくべき役割と繋ぎながら、今目の前に起きている「学術会議人事問題」のあるべきゴールについて考える記事になっています。

1●学術会議人事問題がモリカケほど盛り上がらない理由

いわゆる「モリカケ」騒動すら、一般的認知は実際それほどでもなかったこと比べても、「学術会議人事」問題はさらに一般的認知が高くありません。

それどころか、地味に、しかし根強い感情の動きとして、「お高くとまった特権階級の学者さんたちに対して苦労人の総理が挑戦していて痛快だ」と思っている層が少なくない。

結構バズっていたこの記事はかなり面白かったんですが・・・

上記記事より引用↓

いわゆる大学人達が俺みたいな(俺は高卒である)大勢の有象無象の非インテリが払った血税を原資に学術会議等という大層な看板を掲げた象牙の塔に集ってなにやら難解な言葉遊びに終始していたわけで、スガーリンはそんなインテリどもが積み上げていた言葉遊びのジェンガを横から派手にぶっ壊してくれたんだよね

そりゃ痛快でしたよ正直に言って!!

こういう「感情的エネルギー」は日本社会に渦巻いているので、国会でどれだけ「政権批判派」が政権側の問題を追求しても、「民主主義社会」において菅政権はそれほど痛いと感じない可能性がある。

むしろ、地味にハンコがなくなったり、ゴールド免許の更新はネットでできるようになったり、あるいは緊急避妊薬の市販化にゴーサインを出すといった「左派側の懸案」を具体的にゴリゴリと解決していく地道な姿勢を見せていくことで、

「学者のしょーもない観念論でゴネ続ける勢力」

vs

「ちゃんと地道に仕事をして官僚組織を動かし、左派の懸案だってちゃんと結果を出す菅政権」

的な構図に持っていってやろうと考えていると思われます。

こういう↑構図として見たときに菅政権が「学者どもの観念論」を押し切ってくれたら痛快だなあ!というエネルギーは日本中に渦巻いているというか、まあ人類の歴史で繰り返されてきた「よくあること」ではあると思うわけですが。

もちろん、個人的にはこういう「単純化した構図」だけで押し切ってしまうことに全然問題がないのか?といったらそれは「ある」と考えているわけです。

しかし、ここで単に「学問のなんたるか、民主主義のなんたるかを知らない愚民どもめ!」みたいな言説を吐きまくることでその問題が解決するかというと・・・明らかに余計に感情的にコジレさせて、より強烈に「学者どもの特権性を解体せよ!」というムーブメントに油を注ぐ結果になるのは目に見えていますよね。

いや「目に見えている」とは言えないかもしれず、全然そのことが理解できずに堂々と「愚民どもが!」みたいなことを言いまくっているアカデミアの人もいるんですが(笑)

さすがに「そういう発言」こそが余計に自分たちに対する風当たりをきつくしているのだ・・・ということは理解してもいい情勢だとは思います。

では、この問題をちゃんと「学問」の側から見た本来的な理想を毀損しない形で着地させるために必要なことは何なのでしょうか?

2●批判されているのは学問でなく”学問のフリをした政治活動”

「日本社会と学問のすれ違い」をちゃんと解決するために重要な視点は、「日本社会」の側が不快に思っているのは「学問一般」ではなく、「学問のフリをした政治活動」なのだ・・・という一点につきます。

その「学問のフリをした政治活動」が、

単に「個人の政治活動」として行われるのなら全然いい

のですが、

本来「学術的研究がやりやすいように社会から付与されている特権性」を勝手に拝借する形で「個人の政治活動」にハク付け

をし、

社会的影響力をアンフェアな形で増大させ

るだけでなく、ソレに対する現実的反論ですら

「学問の自由に対する制限だ!」という大義名分の影にコソコソ隠れてやり過ごそうとしてしまっている・・・

というこの構図のアンフェアさとちゃんと向き合っていく必要があるんですよ。

今の世界では、「自分の政敵」を全部「世界大戦の時の負け組」と同じレッテルを貼ることで問答無用で「論破」したことにしてしまい、実質的に相手との対話を拒否してしまうモラルハザードが蔓延してしまっているわけですが。

「学問の自由」という大義名分の影に隠れることで、世界情勢のリアルな変化とか、社会運営の必要性とかに向き合うことから逃げて、「徹底的に社会を断罪できるオレサマイズム」に籠もってしまう卑怯さ・・・

これは今の社会では「戦前、学問が政権によって圧殺されたことに対する反省」によって行われているのだという主張がされがちですが、

逆に「こういう姿勢」こそが、ありとあらゆる「国際情勢への現実的対処」を否定して「統帥権干犯だ!」というような大義名分だけで突っ張り続けた勢力(日本を戦争に引きずり込んだ勢力)にむしろ近いのだ

・・・という見解も、ネットでは最近チラホラ見られるようになってきましたよね。

国際政治学者が、自分の真摯な研究の結果として、今後の日本がとるべき道について意見を提示する・・・その行為に「学問の自由」は徹底的に適用されるべきですし、何らかの権力に忖度してその見解を歪まされてはいけません。

しかしそれは「国際政治学会」におけるピア・プレッシャーにおいて議論の現実性がちゃんと担保されるからこそ、世間一般の低いレベルの偏見に邪魔されてはいけない・・・ために与えられている「社会から信託されている特権」であったはずなわけです。

そういう「学問世界のピア・プレッシャー」からも逃げて、なんか気に食わない政治的勢力をナルシスティックに一刀両断にしてみせたいエゴが、その「学問の自由という大義名分の影」に隠れることで暴走している状況があるとすれば、それは「学問の自由」の本来的な意味から逸脱しているわけですよね。

「学問的知見に裏打ちされた何かの提言をする」自由は当然保護されるべきだが、それを踏み越えた何らかの「政治的主張」をするなら、その「政治的課題」についてのあらゆる意見に対する反論に「開かれている」必要がある。

「学問的知見の提供を超えた政治的野心を持つ」けれども「ソレに対する反論からは”学問の自由”を隠れ蓑にして逃げる」

・・・そういうのは良くないよね・・・というのが、この「学術会議人事問題」の、「学術的理想を毀損しない」視点での大事なコアの課題なわけですね。

要するにその「コア」の部分の問題を切り出して対処すればいいのに、会議側も政権側もちゃんとこういう厳密な議論ができず、なんかどんどん些末な言い争いに終始してしまっているから、幸薄い閉塞感を感じることになってしまうわけですよね。

現状のままでも、菅政権は

・国会では「これは政府の権力の乱用にはあたらないと思います」とかなんとかテキトーに今まで通りのノラリクラリ答弁を繰り返しつつ、

・社会の「学問的特権性への反感」をうまく焚き付け、

・さらに学問界内部でも、「学問会議に関わるような特権的学者」に対する一般的学者さんたちの反感をうまく煽っていく

ことができれば、案外盤石に「改革する仕事人」政権の安定性を維持できる可能性は高いと思いますが・・・・

でもこれだと本当に単なる「スガーリン的強権」みたいな話になっちゃって、学術会議の本来的意義としても、日本社会としてもあまり「良い」状況とは言えないゴリ押しの情勢になってしまいますよね。

じゃあどうすれば、この課題を、単に単なる左翼勢力と政権担当者の間の勢力争い的な卑小な次元を超えた解決策に持っていくことができるのでしょうか?

3●「学問」という構造に隠された欧米文明中心主義を反省するムーブメントを立ち上げていく

今回の人事問題で拒否された学者さんたちの中に加藤陽子さんという人がいるんですが。

この人は日本の近現代史がご専門の方で、以下の本↓とかが結構一般にも売れていたのでご存知の方も多いかもしれません。

それでも日本は戦争を選んだ(朝日出版社)

これは戦争当時の色んな歴史的事実を深掘っていきながら、なぜ日本が日中戦争や太平洋戦争に国家として突入していくのを止められなかったのか・・・を多面的に分析しているい本です。

これは緒方貞子さんの博士論文である「満州事変ーその政策の形成過程」を読んだ時も思ったんですが、

学問的に歴史を研究するということはどんどん多面的に物事が見られるようになるということ

であり、一般的に言われているような

軍部とか政府当局=悪

メディアとか民衆=善

みたいな茶番的理解からどんどん遠くなっていくはず・・・の行為こそが「研究」なわけですよね。

善悪がどんどん多義的になっていってこそ「多面的研究」なんで、メディアとか大衆の側がむしろ無責任な主戦論に油を注いで、それを軍部や政府当局側がむしろ宥めようとするような一面だってあるわけです。

当時の帝国主義列強同士のバチバチの利害争いといった視点から見れば、単に誰が悪い、誰は悪くない・・・といったような単純な理解では「本当に次戦争が起きないようにする現実的対処」すらできない・・・ことは明らかなはず。

で!ですよ・・・・

加藤陽子さんにしろ、本の内容を深く読んでいくとこういう「多面的理解」が深まる良い本を書かれる人だなあ・・・ってなるんですが、それをじゃあ現実の日本政府との関係の中で何か提言してください・・・となると、突然

一億総懺悔的なナイーブな土下座主義

みたいなのに凄い引っ張られてしまう印象なのが、凄い良くないなあ、と思うわけです。

現実の複雑さを知り、多面的に深く深く描いていくなら、

人類史の避けられない勢力争いの結果だから、誰のせいというわけでもないけど、強いていうなら・・・・

帝国主義列強のこういう部分が良くなかった

日本の軍部もこうしていればよかった

日本の大衆のこういう部分もよくなかったね

日本のメディアのこういう体質も良くなかったですね

という「全方位的にフェア」な描きかたをした上で、その結果として生まれてしまった「戦争被害者」の問題について、国外における問題も国内における問題も均等かつフェアに、事実に基づいて描くことができるなら、感情的問題がコジレて歴史修正主義が台頭するようなことだってなくなるわけですよ。

この連載では何度も書いていますが、こういう時に「ドイツ人の反省法」みたいなのは欧米文明中心主義的な凄いアンフェアさを内包しており、20世紀には「そう言っておけば収まりが良かったというだけの話でしかない。

たとえば上記記事で書いたように、

(以下上記記事より引用)

「19世紀末から20世紀なかばからの日本の歴史」を考えたときに、今の人格者ぶった欧米社会とは全然違う抑圧力のある帝国主義に対して、特大ホームラン級の「打ち返し」が必要だったわけですけど、

特大ホームランを打ちながら同時にボールをバットで打った瞬間にそこで完全にピタッと止める


みたいなことをしろって言われても困るわけですよね。

少なくとも対内的には、「欧米文明の横暴を止めるために必死に色々やった」部分をちゃんと認めてやれるような仕切り方でないと収まるわけがない。

それと、「結果として近隣諸国に被害を与えてしまったことの反省」は両立可能だし、”両立しないで片方だけ”を唱導するような仕切り方はそこに含まれているアンフェアネスが大きすぎてちゃんと民衆レベルで共有できないわけです。

つまり、

「欧米列強の侵略に対して必死で対抗しようとしたのは良かったが、その”無理”の結果いろいろな惨禍を国内外に巻き起こすことになってしまった。私たちは、立ち上がった勇気を誇るべきだが、その力を自分たちでコントロールしきれなかったことを反省しなくてはならない」

↑こういう「光と影がちゃんとバランスする」言論が安定的に通用する状況に持っていけば、「光」の部分も「影」の部分もどんどんそこに肉付けしていっても崩壊しなくなるので、「影」の部分における国内外含めた色んな問題の追悼もスムーズに行えるようになっていくでしょう。

(引用終わり)

4●「学問」に紛れ込んだ”他人をひざまずかせようとする暗い欲望”を切り離すべき

こういうのは、加藤陽子さんの本とか緒方貞子さんの本とかの「内容」からそんなに遠くないというか、普通にそういう「歴史の多面的理解」を深めれば深めるほど、誰かをワルモノにして誰かを完全な善人扱いして誰かをひざまずかせようとマウンティングする・・・みたいなのは無意味だな・・・という理解に至るのが自然なはずなんですよね。

そこで過剰に「絶対悪」を設定し、自分の気に食わないヤツにそのレッテルを貼って「自分にひざまずかせようとする」野心・・・みたいなのを、今人類は乗り越えないといけない段階なんですよ。

この記事↑で、「過剰にフェミニズムに入れ込む男は、女性のためになっていない」という趣旨の話をしましたが、

「どうしたらみんなのための新しい社会の着地点が作れるか」

ではなく、

「自分が気に食わないアイツらに対して倫理的優位に立てる理屈を展開してひざまずかせたい」

みたいなことに熱中するムーブメントこそが、その問題の現実的解決を余計に難しくする元凶なのだということを人類はそろそろ知るべき時です。

上記リンク記事でも書いたようにそういうのは「キリスト教」から来ているんですが、「キリスト教」の本来的意図からすれば物凄く歪んだ性質になっているんですよ。

”人類史を貫く勢力争い的な原罪”が原因だから「特定の誰か」を断罪するのは良くないし、誰がひざまずいて解決する問題でもないよね。でも”みんなの問題”として一緒に解決していこうね

という

「立場を超えたワレワレ感」のトーンを維持しようとするのがキリスト教の本来性を考えればあるべき姿

で、

「過剰に倫理的に振る舞ってそれ以外のヤツにマウンティングをしかける」

みたいなのは、

キリストが「人前で祈るヤツは神に祈ってるのではなくアピールしたいだけなのだ」(マタイによる福音書)と言っていたまさにその問題がある

わけです。

5●「敵には敵の美学と必然性がある」日本のコンテンツのあり方が世界から必要とされる時代が来る。

最近日本の漫画を、広告連動型で無料で読めるアプリって結構流行ってるじゃないですか。毎日ポイントが回復して、広告再生したらそのポイントが増えて、毎日ちょっとずつなら無料で読める・・・一気読みしたいなら買ってね・・・というアプリ。

先月そういうアプリで特別公開されていたシュトヘルという漫画を読んだらめっっっっちゃくちゃ名作で、深夜にたまたまツイッターで見かけて読み始めたら次の日出張なのに止まらなくなってしまったんですけど(結局電子書籍で買って全部読みました・・・震える名作でした)。

「シュトヘル」は、モンゴル帝国勃興期に「西夏」王朝の人が自分たちの文字を弾圧されずに残そうと奮闘する話・・・っていう非常にマニアックな題材なんですけど。

でね、普通に書いたらね、「征服者モンゴル」の残虐非道さと、それに対して「文字を残し記述することに命を賭ける人たち」って、単なる「善悪二元論」的に描かれそうな話じゃないですか。

でも、シュトヘルはそのモンゴル帝国の暴虐的征服によって巨大な商圏が成立して、それによって豊かさを享受する人たちの話が一方でちゃんと描かれ、それでも逆に「征服される側」が「自分たちの文字・自分たちが記述する物語」を死守したことが、「現代」とのタイムスリップもの的に影響を与え合うストーリーになっていてですね。

最初は「異世界転生モノか?」ってちょっと慣れてないとチャチっぽい印象になっちゃうんですけど、その「異世界転生」モノのフックが最後の方にめっっちゃ効いてきて、「時空を超える思いが通じ合う愛の物語やなあ!」って凄い凄い感動するんですよ。いやほんとオススメです。

こんな凄い作品がこんなに無名でいいのか・・・日本の漫画ビジネスの層の厚さってマジでヤバいな・・・・

と思ってしまう凄い作品でした。

「悪役にもそれぞれなりの美学や正義がある作品」が日本の特徴だ・・・ってよく言われますけど、そういうのが重要なのは、ただ単に「貧しさで仕方なく盗みを働いた男」とかいうレベルじゃなくて、

「圧倒的なモンゴル帝国の残虐な征服力にすらその必然性をちゃんと描くフェアネス」

が徹底していて、かつ

「悪逆非道さが世界を覆ってしまうディストピア」じゃなくて、「そういう残虐さも内包しつつ人類社会は未来を信じて繋いできたものがあるのだ」というカラッとした希望にまで昇華している

ところが良いんですよね。

今の時代の「ある政治勢力が過剰に倫理的観念を振り回して別の政治勢力をひざまずかせようとする」邪悪さが溢れかえっている時代に、こういう「日本コンテンツ産業の目指すもの」の価値はこれから絶対大きいと思っています。

要するに、例えば「他責性のモンスター」みたいな価値観から言えば、「奴隷が作らされたピラミッドなんて褒めるべきでない」いたいな話になるわけですよね。

でもね、ピラミッドすら作れないような「権力」が成立しないバラバラのままだったら、人類は巨大な灌漑事業もできずに最小限の農業生産力の範囲内だけで猿と変わらない暮らしをずっとしてきたわけですよね?

その真実から逃げて「誰かを非難」するほど簡単なことはないんですよ。でもそんなの、お前は人類史の進歩に参加してないお客さんなのか?って話じゃないですか。

今の社会において、権力構造によって損な役回りになっている人たちの状況を改善できるようにしましょう・・・そういう考えはいいんですよ。

でもそれって結局「そういう人たちにとっても問題のない新しい権力構造を一緒になって作りましょう」ってならないと絶対実現しないですよね。ただ単に「今の権力のここが悪い」って言ってるだけでは。

人類は色々と征服し征服されながら、色々と問題を抱えつつも協力しあってここまで進歩してきてるわけですよ。

徹底的に征服していくモンゴル帝国の暴虐も、それに征服されつつも自分たちの文化を守ろうとした西夏王朝の人たちの思いも、等しくどちらが善とか悪でなく飲み込んでここまでやってきたわけですよね。

「どっちか」だけを取り上げて「逆側」をひざまずかせようとするから解決できない問題が生まれるわけで、「当然のように両方のかっこよさ、生き様をちゃんと描くべき」ってならないと、

「社会の中に問題があるのは、全部”自分たちの敵”のせいなんだ」

と騒ぐだけのモンスタームーブメントが社会の安定性を掘り崩し続けてしまうなら、もう人類は中国みたいな強権主義で運営するしかないんじゃないの?ってなっちゃう寸前まで来ているわけですよ。

6●日本人の靖国神社に対する鬱屈と、今の人類社会のあらゆる課題を表裏一体に貼りあわせていく

日本人には、もともと「そういう見方」を持つ要素がある・・・のは確かだと思います。

中国・韓国的な「中華文明」的世界観が、不可避的に単一的な偏差値秩序に収斂していきがち・・・なのに比べて、日本は昔から結構ナアナアに「判官びいき」というか、「負けた側の事情も含んだ多面的なストーリーの描き方」が好きだったというのはあると思う。

しかしもっと重要なのはですね、日本人を75年間苦しめてきた「戦勝国史観」の問題がやっぱり大きいはずなんですよね。

そりゃね、「戦勝国」側の視点から、「敗戦国」側を断罪して、

「昔はああいうモンスター的な悪がいたけど、今はいなくなって本当に良かったね。私たち何も悪いことをしていない正義の民だもんね」

ってなれたほうが簡単だし気楽ではあるんですけどね。

でも、人類史のここまでをちゃんとフェアに見た時に、そんな「自分たちの勢力は何の問題もなく善人」であり、「アイツラはとにかく最低の悪人」みたいな存在がいるという世界観自体が、幼稚すぎやしませんかね?ってところがあるわけですよね。

そうやって誰か特定の人物だけに「人類全体の罪」をおっかぶせてしまおうとするから、そのネジレへの反発ゆえに歴史修正主義みたいなのも生まれてくるわけですよ。

これは「ヒトラーの罪を否定しようとする」動きじゃないんですよね。

「ヒトラーの罪」を「ナチス」の問題だけにしてしまったら、私たち人間が普遍的に持っている「自分たちもヒトラーを生み出しうる性質を持っている」という本質から目を背けることになるんだ

・・・ってことなんですよ。

自分が左翼的な人間だったら「ヒトラー」とは関係ない・・・とか言うほど浅薄な見方はないわけです。ドイツや日本の過去を声高に非難しさえすればヒトラーから遠くなるか・・・っていうとそんなわけはない。

「そういう主張をしておけば自分は完全に正義の側でいられるという欺瞞」こそが次のヒトラーを生み出しうるわけです。

冒頭で書いたファインダーズ記事における「民主党アメリカ時代の根本問題」が、「極左vs中道の争い」だとすれば、そこで重要になってくるのは、

「靖国神社という十字架にかけられた日本の戦後75年間の鬱屈そのもの」が、新しい人類の希望の源泉となる

んだってことなんですよ。

「自分と対立する逆側にいる政敵」に「あいつこそがヒトラーだ!」と言ってしまえばそこで終わりになる・・・という世界観自体が限界を迎えているわけです。

その中で、「自分たちが歴史の中で大事にしてきたコアを、欧米文明のデフォルト的な考え方によって断罪され続けてきた日本人の無念」こそが、これからの時代の人類社会に新しい基軸を生み出していくわけです。

経済的中心が「大西洋」から「太平洋」に移り、人類全体のGDPにしめる「欧米」の割合は今後減り続ける状況の中で、「物事をちゃんと非欧米の視点から捉え直す」ムーブメントはあらゆるところで起きていきます。

その一環として、「特に文系の学問において、欧米文明中心の文化帝国主義的要素を反省するムーブメント」は当然起きてくるでしょう。

今は、「欧米文明中心主義を反省する」となると、「ピラミッドを作った奴隷の立場からピラミッドを否定する」みたいな馬鹿げたムーブメントになってしまうからぎくしゃくしているわけですけど。

「ピラミッドを作った人類の共有意志を称賛する」「”奴隷”役になってしまう人の立場を改善していく」・・・「両方」やらなくっちゃあいけないのが日本人の(そしてこれからの人類の)つらいところだな・・・覚悟はいいか俺はできてる(ブチャラティのセリフから)

・・という当たり前のムーブメントは、「歴史を学問的に多面的に見れば見るほど当たり前の結論として」浮かび上がってくるはず。

「欧米的善悪二元論」自体を超える新しい視座をこそ、これは日本のアカデミアから、そして私も含めた市井の「書き手」の中から今こそ大きな潮流として打ち立てていくべきタイミングなはずです。

そしてそれは、「民主党時代の米国」が極左に乗っ取られて人類社会が崩壊しないようにするための「大事な礎石」として世界に受け入れれれるようになっていくでしょう。

7●この問題が解決できれば、学術予算だっていっぱい手当できるよ!

これは私の著書に書いたことですが、今あらゆるところで問題になっている日本の学術予算は、「日本人の自然な感情」と「学問」の間に良い関係が取り結ばれさえすれば、今あらゆるところで問題になっている科学技術予算の問題ですら、あっという間に解決できますよ。

詳しくは上記の著書に書きましたけど、日本政府の予算規模って社会保障費も含めたら百数十兆円!もあるのに、”科研費”って数千億円とかいう話なんですよ。

”1%”どころか”0.1%”のオーダーで見直して予算を手当するだけで、あらゆる科学予算の問題を「札束で殴る」ように解決できる程度の問題でしかない。

なんで今日本の「世間の世論」が「学術」に厳しいかっていうと、要はここまで書いてきたような「学術(特に文系の学問)」に染み付いた欧米文明中心主義に含まれているアンフェアネスが、欧米文明の暴虐に対して身を持って防波堤になろうとしてきた日本人の歴史に対してあまりにも上から目線で断罪しがちであるからだと私は考えています。

だからといって、別に「日本の極右派」の、いわゆる「大日本帝国は何も悪いことをしていないしアジアの民衆は実は心底感謝しているのだあわはははは」みたいなのに参加しろっていう話じゃないんですよ!

「欧米列強の侵略に対して必死で対抗しようとしたのは良かったが、その”無理”の結果いろいろな惨禍を国内外に巻き起こすことになってしまった。私たちは、立ち上がった勇気を誇るべきだが、その力を自分たちでコントロールしきれなかったことを反省しなくてはならない」

という程度の、「多面的に見た結論として当たり前の話」に立脚して、どの立場から見てもメンツが立つ構造に立つのなら、そこから先どんどん精緻に歴史的事実を掘り下げていって、色んな「戦争被害者」たちの問題を提起していってもちゃんと安定的に取り扱えるようになるわけですよ。

そしてそういう視座が「欧米文明中心主義」をちゃんと相対化して、世界戦争すらありえる米中冷戦の時代の「新しい人類社会の中心軸」にすらなっていくムーブメントを、私たち日本人こそが起点となって作っていくことも可能なはずです。

それさえできれば、「たった0.数%の予算見直し」を日本社会に実現してもらうことだって簡単にできるでしょうし、そしてたったそれだけで、今の予算規模からすれば「札束であらゆる問題を殴って解決」できるぐらいの変化になるでしょう。

さっきも書いたように、菅政権は今のノラリクラリ答弁を続けながら、市井の日本人の「アカデミアへの反感」を煽っているだけで結構安定的に「押し切る」ことはできるでしょうけど、それは日本にとっても「学問にとって」も良いことではありません。

そうじゃなくて、この「学問の本来性」の観点から、欧米文明帝国主義を相対化し、「民主党の米国による米中決戦時代」における本来的なコアの価値を見出していくようなムーブメントをこそ、私のような「アカデミア外」の思想家と「アカデミア」との共創の中で見出していくことが必要とされているのだ・・・という理解ができるといいですね!

今回記事の無料部分はここまでです。

以下の部分は、この記事で書いたような「善悪二元論でない社会の多面的な見方」とか、「特権的アカデミアからの断罪に対する懐疑主義」的な性向を、裏打ちする歴史的伝統としての、法華経や鎌倉仏教ムーブメント・・・みたいな話についてちょっと私が昔から考えている話をします。

中国と韓国の文化と、日本の文化の「違い」をちょっとでも述べることを凄く差別主義的なものだと感じてしまう人って結構いるんですが、前も書きましたがそういう姿勢こそ逆に「アジア蔑視の欧米中心主義」的なところがあるんですよね。

南欧の国と北欧の国じゃあ文化の違い結構あるよね・・・という話題はOKなのに、中国と韓国と日本じゃあかなり違う性向がある部分あるよね・・・っていうだけで「差別だ!」ってなるのだとしたら、それはたまに「中国と日本って違うんだっけ?」って言う欧米人がいるような、「アジア人ごときが自分たちの違いを主張するなどおこがましい」と考えているってことだと思います。

で、これは現代中国人・韓国人と話していても思うことなんですが、彼らって「偏差値的な上下」というか、「世の中的にコレがいいとされている標準」に対する、日本人からすると凄い盲目的な同調圧力があるなあ、って思うんですよね。

「同調圧力」っていうと世界で一番日本人が持ってる性質みたいな感じがしますけど、こと「人工的な価値観で無理やり統一する」みたいなことに命がけで反発するのが日本人みたいなところもあったりして。

その「違い」の背後に、やっぱり鎌倉仏教ムーブメントとか、法華経中心の仏教理解とか、そういうのがあるのかなあ・・・って思うことが最近多くあるんですね。

中韓文明と日本を分けるあり方として、「サムライ」的存在の重視があるんだ・・・っていうのを、こないだ「アメリカが作ったサムライゲームが世界を席巻している話」

について書いた時に触れたんですけど。

世界の人が「サムライカルチャー」をアイコンとして消費する時に感じているのは、「グローバリズム」的な集権主義に対する現地現物の「リアリティベースの反骨主義」としてのサムライカルチャーというのを直感しているからだと思うわけですね。

そしてその「サムライカルチャー」のさらに背後にあるものとして、色んな鎌倉新仏教ムーブメントや、さらにその前の「法華経ベースの仏教理解」みたいなのがあるんだと思うわけですね。

たとえば、平安時代末期に「三一権実諍論」というのが最澄と徳一という僧の間で戦わされたのが有名なんですが、こういう「万人志向」の仏教性が中華文明から日本文明を分離していった大きな流れの基礎になっていると私は思うわけなんですよね。

そしてそれは、今の時代で言うアメリカの「反知性主義(反権威主義)」的なムーブメントみたいなものまで通じる流れがあって、今後の「民主党米国時代の日本」を考える上で、日本の歴史の「背骨」的な部分からこういう「中韓とは違う独自性」のコアを引き出してきて、新しい軸を作り上げていく必要があるんじゃないか・・・というようなことを最近考えているという話をします。

別に私は仏教の専門家じゃないけど、宗教の「教義」の内容が社会の運営にどういう影響を与えていくかについて考える・・・という点について経営コンサルタント的な経験から深堀りするというのはよくやってて、前に理趣経について書いた時にはネットで真言宗のお坊さんからお褒めいただいたことがあったんですけど。

今回は鎌倉仏教とか、法華経的な価値観、三一権実諍論的な世界観が「中韓と日本文明を分離していったプロセス」を今後が重要になってくるのでは、という話をします。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。結構人気がある「幻の原稿」一冊分もマガジン購読者は読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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