全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して・・・・あえて京大受けてみると人生変わるかも?という話(17年1月16日)のブログこぼれ話

この記事は、表のブログの17年1月16日の記事(あえて京大受けてみると人生変わるかも?という話)のブログこぼれ話です。

こぼれ話ってなんだ?という場合には初回のこの記事を参考にしていただきたいですが、一言で言うと、ブログって読んで貰える文字数制限も厳しいし毎回あらゆる人向けのウォームアップから始めないといけないので、込み入った文脈を積んだ先でやっと言えることみたいなのが全然書けないために、既にブログとしちゃ相当長い表ブログを読んでさらに読めるインテリ(笑)の人向けだけの「氷山の一角よりもさらに下まで」掘り下げる記事を追加していこうという趣旨です。

今回は「全ての愚かしさを丸呑みにする日本的知識人を目指して」みたいな大仰なタイトルを付けてしまいましたが、これは「こぼれ話へのリンクを踏む」ようなタイプの読者のあなたにはぜひ聞いてほしい話なので、いつもより無料部分を長めに掲載しておくので、今このページを開いておられるご縁を信じてそこの部分だけでもぜひ読んでいただき、あなたの中で長期的な「野心」や「勇気」につなげてほしいと思ったりしています。

では以下こぼれ話本文。

今回の表ブログで、「行方不明的ヒッピーも国際弁護士や中央官僚もベンチャー起業家も、並列的なそれぞれの生き方の一つ」という感覚を維持していたいと思っているのが「京大らしさ」っていう話をしました。

勿論そういう「理想」はだんだん難しくなってきている時代ではあるものの、しかしこの発想自体は非常に「日本文明の良い部分」を表していると私は思っていて。

単純にまず中国や韓国と比べると、別にディスってるわけじゃなくキャラクターの違いとして、彼らの「席次」や「順番」に関するコダワリのレベルは呑気な日本人とは全然違いますよね。よく言われてる、日本は天皇が一緒になって田植えする神事があるが、中華文明では貴人は決して下々に混じって労働することはありえず、そういうことをするとむしろ軽んじられる・・・というような「性向の違い」がある。

上記で書いたような「京大イズム」というのは、そういう意味で「中華文明と島国日本を分ける根幹的な部分」だろうと思っていて、かつグローバリズム自体と、中国の国力伸長の影響によって日本の中から消えつつあり、だからこそ過剰にアレルギー反応みたいな暴発をして彼らとの間の相互対立のあらゆる火種になっている問題の根っこにある性質なんじゃないかと私は思っています。

この中国韓国(中華文明圏)との違いはまた後で掘り下げますが、同時にこれの欧米社会との違いについて述べると、欧米社会では「知識人の枠組み」がもっと強固なので、「認証された知の範囲」と「それ以外の有象無象」がもっと厳しく峻別されているところがある。勿論常にその秩序はオープンシステムによって揺らされ続けるダイナミズムがあるという彼らの美点はあるものの、その場合非常に不可避的に「無駄に”アンチ権威”ぶる」ようなことが必要だったりする。

つまり「体制側」か、そうでなくば・・・となった時には「アンチ体制側」に論理的帰結としてなっちゃう。この言い方は欧米と日本の特徴を述べるにあたってちょっと直観に反していて、というのは勿論「高度な議論としての是々非々のポジション」を位置づける力は欧米の方が日本と比べ物にならないレベルであるんですが、問題はその”知識人同士の冷静に閉じた茶話を遠景に大衆レベルから見て大河のような感情のウネリの中で見た時”には、中間のいい加減でなあなあでその日暮らし的なポジションの居場所が彼らには薄いというかほとんど排除されてしまっている。

で、そういうのが行き過ぎると、ありとあらゆる有権者が「マスメディアよりもよくわからんネットニュースの方が信頼できる」とか言い始めちゃう誰のためにもならない社会になったりする。(そうなるのと、日本みたいに”まあ大新聞さんが言うんやったらそうなんちゃうの?”とかいう呑気なオジサンオバサンがまだまだ一定数常にいるのと、どっちが”真実”をちゃんと社会に安定的にビルトインしていくために”良い仕組み”なのかは一概には言えないと思います。まあ日本の方が良いとまで言うつもりは全然ないですが)

つまり「今の社会の内側からはみ出してるものを内側に繰り込むシステム」を社会の中に仕組み化する時に、「個と集団」「権威とアンチ」を分別的に扱いすぎて、その「外部から内部への繰り込みの動き」が常に過剰に「革命ムード」を演出しないと成立しないようにしてしまうと、その本来の機能を例えば「1単位」果たすために、それに引きずられて社会全体の秩序が危機に瀕するところまで行ってしまう。

結果としてその「社会の外側にあるものを内側に入れ込む」仕組みを10単位や100単位単位で動かすことができなくなる・・・というような致命的欠陥を抱え込むことになる。社会はどんどん二項対立的分断から逃れられなくなってゆく。

「閉じた知的システム」の隔絶性を確保し、その「外側にあるノイズ」を排除し続けられてきたこれまでの歴史においてはそれでも機能した(しかも平時の日本においてなんかより圧倒的にスムーズに)んですが、だんだんその「知識人の閉鎖的議論」を「ソレ以外」と隔絶させるための「一線を共有する気分」まで「革命気分」でグダグダになってきてしまった現在においては、最初の段階で決然と分離しすぎた問題が後々にボディブローのように効いてきて身動きが取れなくなってしまうわけです。

そこが「VS(対立関係)」にならないように、ある意味でナアナアに、でも革命的な部分は決して消さずに、地続きに成立するような、そういう「人縁の繋がり」を醸成していくことこそ、今の日本が必要としているもので、さらに言うと「今の日本が必要としている」だけでなく、まあ夜郎自大なことをいうようだが、「トランプvs反トランプ」「欧米vsイスラム国」の二項対立を超える時に世界が「ヒント」として貰えるような価値があるんじゃないかと私は考えているわけです。

そういうところに、「愚かしさをも丸呑みにする日本的知識人」の歴史的使命ってもんがあるんじゃないかと。

例えば明治維新とかね、ある意味で「ナアナアさの極地」みたいなところで、でも一気に「みんなのための改革」が実現したりしたわけじゃないですか。特に「廃藩置県」とか、なんであんなことがスムーズにできるのかわけがわからない。勿論それは「付和雷同型で自分というもんがない腑抜けな日本人の駄目な性質」によるんだとか、当時の国際政治のバランスとして自然な結果で別にスゴイことじゃないとか言う冷笑的な議論も可能かもしれませんが、しかしそこがエンエンと内戦になって誰のためにもならないことになった国も歴史上には沢山あることを考えると、「あれができる可能性」を閉じずにいるルートの可能性をやはり追求して生きたいように私は思ってしまうわけですね。

「知に働けば角が立つ。情に棹せば流される」的な「夏目漱石の悩み」に日本の中のインテリは明治維新以降悩み続けているわけですけど、大げさに言えばその「常にリアルに自分の中にある問題」について「馬鹿馬鹿しい非文明的野蛮民族だからほんと困るよね」で終わらせていいんだろうか?というところから自分の人生を立ち上げたいと思っているわけです。

別に非難したいわけじゃないが、ここ数百年の人類の歴史を考えると、「欧米的な個や知の枠組み」が一気にデファクト化した時代以降、あらゆる人が「それを扱いかねる」ことで、世界中に戦乱や混乱や支配・被支配のシステムが吹き荒れる結果になったところがあるわけですよね。

未だに、「欧米的文明のありよう」の余波が常にその社会の安定性をゼロベースに突き崩してしまうために、マトモな政権の安定すら不可能になって逆に無茶苦茶な独裁政権の支配でなんとかモタセテイル・・・という地域も世界には沢山あります。

繰り返し言うけれども、これは「欧米人を批判」しているんではなくて、「無邪気に彼らの文明を無誤謬的に称揚してると、彼らの文明の”自然的内側”にはない国では現実的にひどい不具合が起きることがある」ということを前提として対策を考えていかないと、この世界から「いっそ自由主義の良い部分も含めて全部排除しちゃおうというムーブメント」はむしろ強烈に湧き上がってくる可能性があるぜということが言いたいわけです。

彼らが理想化して述べている個人の自由やチェック&バランスの仕組みや、その他のあらゆる理想を否定したいわけじゃなくてむしろほんとそれがちゃんと機能する日本社会にしていきたいと思っている。そりゃこっちは毎日その内側で生きてるんやから切実でっせ!

しかしそういうシステムをどうやって「非欧米社会」に無無理に着地させるかということに真剣になって考えれば考えるほど、「個人の自由や客観的に認証された知性への全権移譲のようなものは、無料で簡単に手に入るもんではないぞ」ということについて真剣に考え、社会の中での「納得感の醸成」について特別に配慮された算段を必死に積み上げていく必要がある。

今まで欧米社会は「欧米社会が持っている征服されずに自然につづいてきた安定性」によって「欧米文明が持っている自己批判性」が本来の目的を超えたレベルに過剰化して秩序が崩壊寸前になるようなことは免れられたし、その間は非欧米国がいかに「因習にまみれた批判を許さない閉じた社会か」を上から目線で批判していればよかったが、いざ欧米社会自体の「特権的自明性」まで掘り崩されるご時世になってみると「あんたらも結局おんなじじゃん」的危機が世界中で巻き起こりつつある現在、「夏目漱石の悩み」に常に常に常に日常的に向き合い続けている「日本の知識人の苦労」が、単なる「野蛮的後進国の人たちは大変だねえ」じゃなくて、人類にとって世界史的意義のある「取り組むべき課題」として今後フレームアップされるべき時代の流れがあるだろうと私は思っているし、だからそういうのベースで「やれること」を積み上げていようと思ってこの10年ちょっとを過ごしてきました。

で、「愚かしさを丸呑みにする日本型知識人」て何なんだ?という話をより深く考えてみると、これって要するに、「欧米社会」や、「学歴的な序列感が無誤謬的に通用する中華文明圏」とは違って、日本社会において「インテリ」であろうとするということは、常に「そこら辺のオッサンオバサン」との「同じ目線の共有」を強いられるし、だから「自分の中にビルトインしていく客観的に認証された記号的な知性の体系」と「自分自身のあまりにも生身な日常生活」との間の矛盾をごまかすことなく、常に「どこまでも液状化した本能」と「記号的言明」との間の「弁証法的関係」に揉まれ揉まれ続けながら自分というものを形作っていく必要があるんだ・・・というふうに言えるかもしれない。(京都学派!っぽく言うとね)

はっきり言ってこういうものは、日本以外の多くの国において、欧米社会でも中華文明圏でも(というか当の現代の日本社会においても!)、「愚かしさ」と名付けられるものソノモノみたいなところがあるように思います(笑)

だからこういう「性質」を徹底して拒否したいとあなたが思っていて、むしろ日本社会の今の駄目さの根幹的なものだと考えていても全然オカシクない。というかマジで俺もそう思うぜ!!!・・という気持ちも嘘偽りなくあります。

現実的な個人の生活においては、客観的に認証された現代的知性の運用によってホイホイ進められるべき要素が社会の中で滞りなく動かせるようにしていくことは超大事なことなんですが、同時に、「自分がそれだけを考えて生き、同僚もそれだけを考えて生き、あらゆる社会の中のオッサンオバサンが同じように考えて生き・・・」た時に生まれでてくる「総体的なムーブメント」が、キリスト教社会の人が無邪気に「神の見えざる手でなんとかなる」とか言っちゃえるほどには全然そうならない・・・という問題があったりする。

「神の見えざる手的な調和があるはずなのに全然そうならない問題」については、やはり欧米社会の方がまだマシである場合が多い。繰り返すようですがそれは彼らが我々より賢いからではなくて、彼らの文明がとりあえず自明的惰性的延長を生きることが他の地域よりもできているので、「おばあちゃんの知恵袋的な配慮」が他の地域ほどには破壊されていないから・・・というだけなんですよね。

そういう現在の世界史的状況を生きている我々日本的知識人がですね、自分の中の「愚かしさの半身」を呪うだけに終わってはたしていいんだろうか?ちょっともったいなくね?というところを突破口にしたい。

日常的には、「こういう自分のアホなとこって嫌だなあ」と思いながら、知識人風にサクサク生きるべき部分では積極的にそうしていこうとするのはいい。そして、現代を生きる知識人のある範囲までの人間が、過剰に液状化した愚かしさに足を取られずに、欧米的なシステムの延長でサクサク生きることを選択する自由も尊重されるべきだし、そういう人たちの奮闘によって現代社会の滞りない運営も支えられているわけではあります。

しかし、「インテリの範囲内」の人間は完全にそういう「性質」を持って生きていて、「その範囲外」に生きている人間との”共感関係”が一切途絶してしまった社会において、じゃあその「デジタルに固定的な入れ物が取りこぼした、どこまでもドロドロに液状化したエネルギー」をどうやって社会の中に還流させていけばいいんだ?という問題が喫緊の課題となっている現代の世界の現状の中では。

むしろ積極的に「愚かしさの塊を自分の中から排除せず、それも自分の一部だと思って生きる」ことを引き受けて、できればさっき書いたような「京都学派的弁証法」的なムーブメントを迂遠なようでも自分の中で常に持とうとし「揺れ動き続ける自我」を持つことの価値が、今後絶対的に世界人類の新しい一歩としての貢献を生み出す可能性が必ずあるはずです。

そういう余計なことを一々考え続ける(というか”生命レベルで抱え込み続ける”)ことの「価値」は、結局実践面においては単に「非知識人への知識人による呼びかけ」において「配慮が行き届く」というだけの話かもしれないですけどね。でも”それだけ”でも物凄く大事な進歩だと思います。

例えば最近、ハリウッド女優メリル・ストリープさんが、ゴールデングローブ賞のスピーチでトランプ大統領への批判演説をしてて、それがスゴイ「最高の名演説だ」ってネットで話題になっていました。

で、嘘でなく本当の気持ちとして、その演説を聞いて熱くなる気持ちを私も持ってるんですよ!持ってるんだけど、演説の中で唐突に(ほんと唐突に)フットボール(アメフト)と格闘技(プロレス?)をディスって、いわゆる「アート」を称揚してるところがあって、そういうところでなんか一気に夢が冷めちゃうっていうか。

私は毎年スーパーボウルの時期に特別ブログをあげるぐらいアメフト見るのが好きなので↓。(今年もやりたいと思ってます)

一昨年のもの

昨年のもの

単なる「配慮」の問題だけじゃなくて、やはり「社会の中でマトモなもの」と「それ以外」が過剰に峻別されてしまう世界観で全てが組み上げられているから、どれだけ「他者への寛容」を目指しても、ナチュラルに相手の感情を傷つけてしまったりするんだなあ・・・と、「演説の他の部分に感動したからこそ余計にオイオイ!と思った」ところがありました。

私の著書の中で紹介したことがあるんですが、弘法大師空海が数ある仏教のお経の中でこれが超サイコー!と言ったお経に「理趣経」というのがあるんですが。

これの解釈書をライバルの最澄さんに見せるかどうかで仲が決裂したとか言うほどのお経ですが、今ならネットで検索すれば全文現代語訳がすぐ読めます。

全体的に、「善と悪とか、良い悪い、知性と愚かしさ・・・といった区別は小賢しい狭い範囲での人間の見方の問題であり、菩薩的に完全に徹底した境地から見れば全てが”よい”もので、それが全体として相互作用していく総体の中に我々は希望を見出すべきだ」みたいなメッセージだと思います。

狭い範囲で無理やり押し込めようとするから善と悪や知性と愚かしさに見えてしまうので、むしろ「それを丸呑み」にしていった先に「善用」しきってしまうという「大欲」を持って望むなら、それが本来の機能を発揮して人間社会は希望を見いだせるはずだ・・・という観点でしょうか。

というか、現代語訳を読むと、大昔の人が書いたのにこんなに「フワッとした”寓話”でなく”理屈的言明”として通用する明晰さ」があるお経ってスゴイな・・・と素直に感服してしまいます。

これはある意味で「神の見えざる手」の東洋バージョンと言えると思いますが、その寄って立つ土台が一神教でなく仏教なので、より「欧米社会では外側にはじき出されてしまうようなタイプの”悪”や”愚かしさ”にまで包含しようとする意志」がある・・・と言えるかもしれません。

過去に欧米系の現代人と何回か議論した経験で言うと、私の話が「こういう領域」に入ると、なんか大げさに言うと結構「メチャクチャ無責任な化け物が出てきた」のような不気味さを感じさせてしまうことがあったりするようです。「不気味」でなければ「不快」に思われたり単に呆れられたり色々するけど、あまり肯定的な反応が帰ってきたことはない。というか語学的問題もありつつ「ちゃんと理解された」感じになったことすらあまりありません。大陸欧州人に比べて英米人には理解者がたまにいる感じもしますが、それは結局全然違うイメージをお互い持ちつつ勝手に理解しあってるつもりなだけかも?という予感もちょっとします。歴史的なタイミングが満ちるまではあまりうまく相互理解できないタイプの問題なのかもしれません。

こういう性質の欧米でのカウンターパートは「アナーキズム」だと思いますが、理趣経の特徴は「アナーキズム」や「反体制主義」ですらないところで・・・・例えば「アナーキズム」は「あらゆる政府的な統治の仕組みに反対する」という「特定の言明」を含むわけですが、私が考える理趣経的境地というのは、さっきちょっと書いた「大新聞を盲信してるオッサンが一定数いることにも現実生活上の価値ってあるよね」みたいなものも含むので、「アナーキズム」ですら全然ないわけです。

同様の構図によってこれは「ネオリベ」とか「リバタリアン」とも違います。いろんな意味で積極的に個人に対する「”制約”を取り払うべき」と思ってるわけではなく(望ましいとは思っているが)て、「制約を取り払うべきという意見に対する社会的反発がある範囲を超えて逆転してきた現状があるならそれにも意味があるだろうから善用するべき」ぐらいの立場なわけですからね。

しかし、こういうのは欧米人的知性から言うと「何も考えてない愚かしさと単なる無批判的な現実的追認」に見えちゃう部分があるし自分でもそこは常に自省しながら進まなくちゃいけないよなと思うんですが。

ただ、例えばある種の「良くない右翼性(人種差別主義とか排外主義とかその他なんでも)」を発揮する存在がいたとする(あなたの立場によっては安倍政権や靖国神社やトランプ政権や・・・も含まれるかもしれない)。

で、そういう存在が「弱き者」をガシガシ抑圧している現状があったとしたなら、それに対して「ちゃんと批判していく必要がある」というのは一面非常に正しいようで(もちろんそういう批判をちゃんと真剣にやってくれる人もいてくれないと困るし、”抑圧されている側”にいる人はあらゆる手段によって”自衛”する権利があると思いますが、それと同時に)、その「ムチャクチャ言う存在」は、「現状の世界のシステムの歪みによって噴出しているだけのエネルギー」だというふうに捉えると、単に彼らを批判していくだけでは、10の力で批判すれば10の力で押し返され、100の力で批判すれば100の力で押し返される・・・というような問題じゃないかという一種の「諦念」も湧いてきます。

そこである種「欧米的には諦めるけど東洋的には諦めない」というか、むしろ自分もその「愚かしさの内側に入っちゃう」立場からすると、「そりゃまああんな言い方されたら怒りたくもなるよなぁ(ぼけ〜)」ぐらいのところを共有してしまうところまで行くことになる。

で、そのうえで、「この人達がそんなこと言う気持ちにすらならない」ような全体的な構造ってどういうものだろうか???ということを問い直してみることが、21世紀のどうしようもない二項対立的断絶を超える一つの力になるだろうと私は思っているわけです。

それが「理趣経的希望」なんですよね。

とはいえ、私は父方も母方も数代遡ると高野山近辺の山村から出ていて、「血」に引っ張られて無駄にロマンを感じているけれども、普通に生きてる現代人にとってこういう「理趣経的境地」とか言うのを目指すのはどこにも全然折り目がつかないグダグダの無責任さのように見えても仕方がないし、実際には「いやほんと困ったもんですよねえ」という感じになる要素だということは自覚してるんですよ。

実際、空海よりも随分後の時代、京都を中心とした平安時代がどこまでもグダグダになって崩壊した後の鎌倉時代において、日蓮さんは「真言亡国」と言って、真言(空海の宗派ね)みたいな宗旨でずっとやってると「男子がちゃんと育たないので亡国となる」と批判してます。

これについても、「いやほんまその通りやで!日蓮さんええこと言うわ。さすが東国(現代の千葉県あたり出身)の男はハッキリしててカッコええな!!」と正直私は同意します。

だから今回の京大に関する表のブログで書いたように、「この立場が正しい立場」だと言ってるわけじゃなくて、「いろんなキャラクターの人間たちが生きているこのシャバにおける多様性の中のバランス」を取りながら、「自分が受け継いだ血」に全体の中の歯車的な「噛み合った価値」が与えられるように、この10年色々と頑張って来てるんですよ・・・って話なんですよね。

そしてそういうレベルの話で言えば、個人レベルで「その価値」を全的にコミットして生きていく人間が現代世界にいることの価値は必ずあるだろうと思っています。

この文章にネットで出会って長々とここまでちゃんと読んだあなたも、おそらくこの「理趣経的志向性」を消せずに、だからこそ「現代社会の中での位置取り」に悩んでいるという人だと思います。そうですよね?

まあ、あんまり簡単にうまくハマれないのが我々の性質ですけど、腐らずに、自分たちが持っている「血」の性質が持つ今後の「世界史的意義」をマクロに見て信じながら、一歩ずつ積み上げていきたいですよね。ご一緒に、諦めず、何かがキライだからといって『アンチ●●』になることがその解決であるというような短絡主義だけは意識して避けることが「東洋的知恵」なんだぜぇとかカッコつけたりしながら行きましょう。

ここまで長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。自分の「血」を諦めずに最後まで生きて生きましょうね!

さて、ここからはいつも通りの有料部分にしたいと思います。さらにちょっと読みようによっては揚げ足取られて批判されるようなことも書くので。

以下は多少円払ってもいいぞという方だけが読んでください。ここまでで書いたような「理趣経的」ポジションは欧米文化の中に居場所を見つけづらいの基本だが、しかし「ある文脈」をちゃんと捉えられれば、欧米的システムの内側においても「なるほどこういうものね」と理解してもらえ、日本社会の中でも自然な居場所がある・・・ような方向性があるはずだという話になります。つまり「理趣経的視野」を「欧米的システム」に入れ込むための、個人の人生における「長期的戦略」について・・・というテーマですね。

ここまでのぶんでも、感想をツイッターなどにお寄せいただければと思います→@keizokuramoto

5年ぶり新刊、「みんなで豊かになる社会」はどうすれば実現するのか?もお読みいただければと思います。

(ここ以降さらに1万字ほど続きます。)

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普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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