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戦時下の庶民のしなやかさ

今年の5月祖母が亡くなった。享年97歳、大往生だ。そんな祖母はよく戦争の話をしてくれた。それを、5年前にとある週刊誌の「戦後70年記念特集」で執筆を依頼されて寄稿した。それをせっかくなんで少し改編して以下に書いてみる。

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祖母は戦時中、明石市にいた。祖母によれば、祖父(享年85)は電気技師だったため、戦地には行かず、明石市にある川崎航空機工業(現・川崎重工業)の工場勤務だった。

1945年1月から神戸でも空襲が始まった。祖母の住んでいた場所は戦闘機を作っていた工場の近くだったので空襲の可能性が高かった。B29が来たら薄っぺらい布団を1枚持って田んぼに逃げていた。その時、父を身篭っていた祖母は実家のある淡路島に疎開した。

ー45年1月から終戦までの約8か月間に神戸と周辺地域は合計128回の空襲を受けた。死者は8000人以上ともいわれる。焼失家屋は15万戸にのぼったー


「戦争は大変やった?」と祖母に聞くと
「大変やったねえ」と言いながら笑っている。
「天皇を神様やと思ってた?」と聞くと
「おもてたねえ」と軽く答える。
「竹槍突いてた」と聞くと
「うん、突いとった」とすぐ答える。

 
神戸に買い物に行った時、空襲にあっておじいちゃんが明石から自転車に乗ってヒーローのように迎えにきたとか、近くの工場で廃棄された石炭の燃えかすを夜拾いに行って炊事してたとか、神戸港にはたくさんの小さな船が浮かぶ闇市があってそこで砂糖を買ったとか、疎開先の淡路島には米がたくさんあるけど、明石海峡を渡るとなくて、家族に食わせてやりたかったから真空管ラジオに詰めて持ち込んだとか(バレると憲兵に取り上げられる)、そんな話を笑いながら話す。そして、戦争が終わり、明石に戻ってきた祖母はその10月に父を産んだ。

戦争は本当に大変で、そこで生きていた人は権力に抑圧され、貧困と飢えに苦しんでいる、そんなイメージがまず出てくる。それはある程度は事実なんだろろうけど、実は庶民はたくましく、しなやかに生きている。2001年にぼくが戦時下のアフガニスタンに行った時にも思ったこと。戦争ばかりしているアフガン国民は、な監視の目をくぐってうまいもの食べたり、コーランなど宗教歌以外の音楽を聴くことは禁じられていたのだけれども、隠れてポップスを聴いていたり、下ネタを話して笑ってる。どんな国家は権力も、宗教、主義思想もこのしなやかさを踏みつぶすことはできない。人間は地球のあちこちでたくさんの戦争を重ねてきた。でも、このしなやかさ、つまり、人間と人間が持つ愛やユーモアだけは生き残ってきた。それが、戦争で荒廃した世界を再生していくのだろう。

こんなことを書いてたら、神棚の前のテレビが勝手について、みたら日の丸の鉢巻を巻いた女性が石炭を炎に放り込んでた。NHKの『太陽の子』という戦時中を描いたドラマが始まった。おばあちゃん、テレビ見てるな。

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