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つれないつり(4) ウグイ

大阪から福井まで特急サンダーバードで2時間、その後、2時間に1本の越美北線という単線に乗り換えて、山を3つほど越えて、このままどこに連れて行かれるのかと思っていると、突然平野が開けてくる。そこは福井県大野市。人口3万4000人の美しい盆地である。ここに仕事ができて通うようになった。ここには海はない。あるのは美しい山と清らかな川と巨大なダム。ここではイワナやヤマメが釣れる。川で釣りをするしかない。

市内の中心部を流れる真名川沿いの道を走ってポイントを探していると、橋の近くに大きなたまりがあった。車も止めやすいのでそこで糸を垂らすことにした。スプーンを下流に向かって投げる。スプーンはゆったりと流れに逆らって戻ってくる。
スプーンというのは名前の通り、スプーンのような金属片だ。その昔、ヨーロッパの湖のほとりで食事をしていた貴婦人が湖にスプーンを落としてしまった。それに魚が食いついたことから、スプーンに針をつけて釣り道具にしたことが始まりである。

私は今、ティースプーンの柄を取り、表面にギザギザの模様を入れたような、釣り用のスプーンを投げている。こんな金属片を魚は食うのか、こんなものが1000円近くするのか、スプーンを100円均一で買って加工した方がよかったのではないか。つまり、全く釣れる気がしないのである。とりあえず、来たばかりで帰るのも癪なので惰性で投げ続けた。川の真ん中に投げる。何も来ない。場所を変えて対岸の岸沿いに投げてみた。飛びすぎて対岸に生える草に引っかかった。強引に引っ張ると切れた。暗くなってきたので帰った。

場所を変えてみた。真名川と九頭竜川が合流し、大きなたまりになっていた。2つの川が合流する。魚の量も2倍に違いない。トラウト用の竿を新調し、スプーンを5枚買い、この日に臨んだ。車に釣竿を立てかけ、リールをセットし、糸をガイドに通し、スプーンを糸先にくくりつけた。準備はできた。さあ川へ向かおう。車のドアを閉めた瞬間に、ドアの行く先に竿があることに気づいた。開いた状態の後部座席のドアに竿を立てかけていたのだ。スローモーションでドアが閉まっていく。 


おれ、どうしてこんなところに竿を立てかけたんだろう。いつも地面に置いて仕掛けを作っているのに。この竿買ったばかりなのに。あ、竿を傷つけたくないからと地面に置かずに車に立てかけたんだった。ああ、いつものようにやればよかった。でも、竿は弾力性があるからドアの衝撃を吸収したりなんかして。

ドアはバタンと閉まった。竿先を巻き込んで。ドアを開けた。竿を確かめた。先が折れていた。竿はこれしかなかった。折れた部分を外し、20センチほど短くなった竿で釣りをした。棒を振っているようだ。竿が全くしならない。スプーンが飛ばない。飛んで5メートルほどだ。そんな距離では狙いたいポイントまで飛ばせない。運良く魚が食いつきはしないかと思ったが魚は全く寄ってこない。開始10分で釣りをやめた。

新しい釣竿を買った。もう絶対に車に竿は立てかけない。地面に釣竿を置いてスプーンをセットした。初めに行った真名川の橋の近くのたまりへ行った。そこはいつもよりずいぶん浅かった。雨が最近降っていないからだろう。水量によってこんなに風景が変わる。いつものポイントもポイントではなくなるのだ。となると、この前は釣れなかったポイントは今日釣れるかもしれない。川の真ん中に砂洲がある。前は水中にあったが今は水面に出ている。砂州の下流に投げ込んだ。スプーンを巻く。何か魚が追ってくる。でかい。かなりでかい。追ってくるが食わない。スピードを緩める。プイッと顔を背けて戻っていった。もう一度同じ場所に投げた。また追ってくる。しかし、また食わない。また投げた。また追ってきた。少しついてきて、プイッとどこかへいってしまった。また投げた。もう何も見えなかった。何度も投げた。同じ結果だった。私はとても緊張していた。胸がバクバクと高鳴っていた。しかし、投げるたびに期待は失望へと変わっていく。ああ、もう来ないのか、あれは釣れないのか。あの魚はなんなんだ。

砂州の大物はあきらめた。岸沿いにスプーンを投げた。カンっとアタリがあった。急いで巻く。重みを感じる。何かが掛かっている。どんどん巻いてみる。魚が寄ってきた。銀色の細長い魚だ。小さなウロコがビッシリとついている。ウグイだった。サイズは15センチほど。小さかったけれど、喜びは格別だった。ついに、スプーンで釣ることができた。

スプーンで魚が釣れる。それを自分の目で確認できた私はイワナを釣ろうと思った。イワナは美しい山間の渓流に生息する。水が綺麗でないといけない。大阪とは真逆のような環境にいるのだ。イワナの塩焼きを山の中の温泉旅館で食べたことはあるが、生きているイワナは見たことがない。とりあえずより山の方に行こうと福井県と岐阜県の県境にある和泉に向かった。

和泉までの国道は川沿いを走る。釣れそうな場所を探しながら車を走らせた。川にすぐ入れて、車も止められるという条件の場所は少ない。しばらく行くと川沿いに温泉があった。その前が開けていた。温泉の駐車場に車を停めて、川岸へ行った。膝ほどの深さで底が見える。水は透き通っている。ところどころに丸い石が顔を出している。水面で何かがぴちゃぴちゃと跳ねている。魚だろうか。ここでスプーンを投げた。全く反応がない。しばらくしても魚の気配がなかった。 跳ねていたのはアメンボだった。

まだ山深さが足りないのかもしれない。より上流へ向かった。石徹白(いとしろ)川という九頭竜川の源流へ。川は急に細くなる。人気も急に少なくなる。車とすれ違うことがない。民家はあるが人が住んでいるかどうかわからない。途中、ダムがあった。底にはベージュの砂が敷き詰められ、青い水が溜まっていた。その水は自然のものではなく、青い絵の具を溶かしたようだった。あまりにも透明なので、あたり一面底までしっかり見える。魚はいない。しかし、ただならぬ雰囲気がある。何度か投げてみた。しかし、全く反応はない。粘ってみたがダメだった。こんなに奥まで来てもイワナには出会えないのか。

さらに上流へ。人気のないところほど魚がいるに違いない。石徹白川沿いの車道を走る。道路の右手に未舗装だが川へと下りていく道があった。車道から外れて凸凹の道を進み、車を止めた。小さな落ち込みがある。近づくと魚影が見えた。そして、私に気づきパッとどこかへ消えた。あれがイワナだろうか。今まで見たことのないタイプのシルエットだった。ちょうど水が落ちてくるあたりにスプーンを投げ入れた。水飛沫の中で銀色の金属片がひらひらと舞っている。それは魚というよりも銀色の落ち葉のようであった。落ち葉に魚は寄ってこない。何度も投げても現れない。気配を気づかれてしまったからだろう。もうここはダメだ。車に戻った。

未舗装の道をバックで進み、車道に乗り上げようとした時、ガタンと音がした。車が動かなくなった。アクセルを思い切り踏みこんでも動かない。車を降りて確認すると、左の後輪が道路の側溝にはまっていた。溝に向かって垂直にタイヤを進めていれば難なく溝を越えられたが、水平に近い角度で入って、タイヤがちょうど溝にはまってしまった。運転席に戻って思い切りアクセルを踏む。ウィーンと大きな音を立ててタイヤが空回りするだけだった。車を一人で押してみた。車が少し揺れただけだった。力を込めて体当たりした。体が弾き飛ばされた。これは参った。どうしようもない。ロードサービスに電話をするしかない。ケータイを取り出した。圏外だった。山の中で独り、ただ、ザーと川の流れる音がする。

車が通らないかとしばらく待った。30分ほど待ったが誰も通らなかった。そういえば、途中に道に民家があった。そこまで行けば人がいるかもしれない。しかし、ずいぶん先だ。車が通らないかと期待しながら来た道を歩き始めた。

川沿いの道を歩く。ザザーと川の流れる音がテレビの放送が終わったホワイトノイズのように聞こえる。目の前の風景がモノクロの粒子からなるように見えてきた。このままでは世界に閉じ込められる。

あ!

と大きな声を出した。

あ!

とそれはこだました。車は一切通らない。先ほど釣りをしたダムまで来た。魚が見える。しまった、竿を持ってこればよかった。魚に後ろ髪を引かれながら歩を進める。

ダムを越えると、山が壁のように迫って、空が小さくなった。新緑の山は美しくはなく心を圧迫する。前方にはトンネルが現れた。トンネルが近づいて来る。これを通り抜けなくてはいけないのか。中に入る。空気は冷たい。何か出るんじゃないかという恐怖心が空気をさらに冷たくする。それは寒気に変わった。体を温めようと、早歩きをした。足音だけがカツンカツンと響き渡る。ポツンと頭に冷たい何かが落ちてきた。これは水に違いないが水ではないかもしれない。でも、たぶん水である。きっと水に違いない。陽気になろう。私はスキップをした。

「アイム シーング イン ザ レイン」

落ちてくる水を雨と思い込むために『雨に唄えば』を口ずさんだ。この部分しか歌詞を知らない。ただただここを繰り返し歌った。光がだんだんと近づいてくる。もうすぐ出口だ。早くあそこに行きたい。

私は光に包まれた。温かい。太陽はなんてやさしいんだ。ピーンと音がなった。聞き覚えのある音だ。ポケットのケータイを取り出した。メールが来ていた。Yahoo!ショッピングからの案内だ。ありがとう、Yahoo! 電波が入るということを知らせてくれて。

ロードサービスに電話をかけた。街中から行くので1時間はかかると言われた。私は車に戻った。もうトンネルも怖くない。山の景色を楽しみながら車へ戻った。私はしばし仮眠を取った。

コンコンとドアをノックする音がする。ロードサービスの青年だ。いとも簡単に車を救い出し、彼は去っていった。車は車道に戻った。もう夕方だ。よく釣れる時間帯である。あとワンチャンスある。

山を下っていると、天狗岩という案内表示があった。観光スポットなのだろう。駐車場が整備されている。車を止めて岩の方へ歩く。道が整備されていて川のすぐ近くまで簡単に行くことができる。天狗の鼻のような形をした大きな岩がある。岩の前に深い青色をしたたまりがある。水は深く神秘的だ。魚と天狗の気配がする。

たまりの真ん中にスプーンを投げた。表面を引いても何の気配もない。かなり深い。今度はたっぷりと時間を取ってスプーンを沈めた。重いルアーだと手の感覚や、張っていた糸が弛むことで底に着いたことがわかる。しかし、軽いルアーでは底に着いたかどうかの感覚がない。川の流れがあるため、底に着く前に流されている可能性もある。投げ入れたスプーンがどのあたりを漂っているのか見当がつかない。より重いルアーに変えればいいのだが、手持ちには軽いスプーンしかない。川の真ん中に投げると流れが速くて流されていく。自分の足元ギリギリにスプーンを落とした。これでもかと思うほどにたっぷりと時間を取った。底まで沈んだだろう。糸をゆっくりと巻いてきた。スプーンが上がってきた。全く反応がない。水面に近づいてきたところで、ぬ!と魚が現れた。イワナだ。でかい。しかし、手にはその驚きは伝わらず、自動でくるくるとリールを巻いてしまっている。スプーンがぴょんと地上に出てしまった。彼は水面までスプーンを追ってきて私と目があった。もう一度同じところに沈めてみる。もう、彼は現れなかった。何度も何度も落としてみた。同じ結果だった。目があってしまったから仕方ない。暗くなってきた。天狗が出てきそうだった。竿を仕舞った。しかし、大きなイワナだった。

ミンミンと蝉が鳴いている。季節は夏になっていた。海水パンツとサンダルでやって来た。これなら川の中に入って、いろんなポイントを攻めることができる。石徹白川はまったく釣れなかったので、雲川という真名川の源流へと向かった。大野市街地から車で30分ほど山の中へ行く。ダムを越え、変電所を超える。ケータイの電波はずっと入らない。もうしばらく誰ともすれ違っていない。道路に沿ってずっと川が流れている。山奥とはいえ道路がずっと見える場所で釣るので安心感はある。車を止めて川へ向かった。 
 
川に入った。水は思ったよりも冷たかった。しかし、すぐに慣れて心地よくなった。川の真ん中に立つ。緩やかな流れを両足が受け止める。ルアーをまっすぐ上流に投げる。リールを巻く。なんて気持ちがいいんだろう。釣れるか釣れないかなんてどうでもよくなってきた。これが渓流釣りの醍醐味なのか。 

川の中を上流に向かって歩く。スプーンを投げる。糸を巻く。いつもの動作を繰り返す。ふと膝に違和感を感じた。大きなハエのようなものが止まっている。アブである。チクリとした小さな痛みを感じ、手で払うとすぐに飛んでいった。スプーンを投げる。今度は背中がチクリとする。手で追い払う。スプーンを投げる。またチクリとする。アブが私の周りを飛ぶ。

アブから逃れるために上流へと歩いて移動した。よいたまりがあったのでスプーンを投げた。ちょうど対岸のギリギリに着水した。コン!とアタリがあった。慌てて竿を合わせる。しかし、重みはない。きっとイワナに違いない。もう一度、同じ場所に投げる。コン!とまたアタリがある。急いで合わせる。しかし、魚は掛かっていない。もう一度投げる。チクッ!と膝にアタリがあった。アブである。しかし、アブに構っている時間はない。すぐに投げる。アタリはない。もう一度投げる。アタリはない。ええい、アブめ。せっかくいい感じだというのに。手でアブを追い払うがまたすぐに集まってくる。

アブを避けるためにさらに上流へと。またよいたまりがあったのでそこにスプーンを投げた。またコツン!とアタリがあった。しかし、魚はかからない。着水した瞬間に食ってくる。糸が弛んでいるから掛からないのか。着水ギリギリでベールを返し、糸が張った状態で着水するようにした。アタリがあった。急いであわせた。魚がかかった。よし!しかしすぐにバレた。もう一度投げた。チクッと膝の裏に来た。アブが来た。また投げた。反応がない。何度も投げたがアタリはなかった。場所を変えても同じだった。来るのはアブばかりであった。大量のアブが私に集まってくる。刺された箇所がだんだんとかゆくなってきた。もう気になって釣りにならない。帰ることにした。

車に戻ると、車の周囲にびっしりとアブが張り付いていた。車は生き物ではない。車から血は吸えない。一体、どういうことなんだ。車に入りたくない。しかし、車に入らなくては帰れない。迷っているとこちらにアブが飛んできた。やばい、気づかれた。急いでドアを開けて車に潜り込んだ。アブも車内に入ってしまった。アブを追い払おうと窓を開けた。さらに大量のアブが入ってきた。車内を大量のアブが飛び交う。フロントガラスにもアブが張り付いている。前が見えない。しかしその場を急いで離れなくてはならない。急いでアクセルを踏んだ。ドン!と何かにぶつかった。急いでハンドルを切ってまたアクセルを踏んだ。なんとか道に入った。窓を開ける。スピードを上げる。ブヨが風で流れていく。まだ数匹は車の中をぶんぶんと飛び回る。車を止めて追い払いたいがまたアブが集まってくる。アブは手を刺す。しかし止まるわけにはいかない。車をしばらく走らせてから、車を止めてアブを完全に追い払った。バンパーが凹んでいた。

ホテルにようやく戻った。刺された場所がただかゆいだけではなく、暑くなってきた。体全体が火照ってきた。全身が、熱く、かゆい。何も手につかない。急いでドラッグストアに行った。キンカンを買い、体に塗りたくった。ひんやりと気持ちよかった。しかし、すぐにキンカンの冷涼感を体の熱さが上回った。かゆい、熱い。何もできない。風呂に水をため、湯船に入ってひたすら体を冷やすしかなかった。

ワンシーズンをかけて魚が全く釣れなかった。アブが恐ろしくて川に行けなかった。イワナを釣ることはあきらめた。渓流の美しい魚は、美しい場所に住む、美しい人間しか釣ることはできない。大阪という薄汚れた町に住んでいる人間には高嶺の花だ。私は釣れて所詮ウグイぐらいなのだ。イワナは私にとって天然記念物のように輝いていた。


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