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茶聖陸羽と顔真卿、その周辺の年表

茶文化について世界で初めて体系的に著述した(書物が残っている)、陸羽。お茶屋さん一保堂の包装紙でその名をご存知の方も多いのではないだろうか。その包装紙に唐 竟陵陸羽鴻漸著 とある通り、竟陵(湖北省)の出身。コトバンクによれば、湖北省鍾祥県出身とのことであるが、wikipediaによれば鍾祥市ではなく天門市出身のようだ。鍾祥県が天門市を含んでいたのかもしれないが、チャイナネットでも湖北省天門と記載がある上に、”陸羽公園(Lu Yu Park)”があるのも天門市であるから、天門市周辺の出身と見ていいだろう。さて天門市がどのあたりにあるか、といえば今話題の武漢の西にある。チャイナネットを参考に地図を作成した。陸羽は竟陵(天門)→升州(南京)→湖州と移動している。

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さてそんな陸羽の生きた時代とはどんな時代だっただろうか、ということに興味が湧いてきた。顔真卿という名に聞き覚えのある方も多いだろう。先の国立博物館での顔真卿展では、祭姪文稿を一目見ようと数えきれない客が大挙をなして観覧に押し寄せた。観客の殆どが中国語話者という異様なてんじであった。それだけ、漢字圏に置いて祭姪文稿に価値があるということである。ここで顔真卿を取り上げたのは、もちろん陸羽と顔真卿に交流があるからである。陸羽が760年に湖州に移ってきた後、唐の官僚である顔真卿も、転任で湖州に着任した。刺史という役職だが、現在では知事と言って差し支えないだろう。民選ではなく、中央からの任命というところが異なるだけである。その顔真卿の下で陸羽は『韻海鏡源(いんかいきょうげん)』という書物の編纂に携わっている。散逸して現存しないのが悔やまれる。
さらっと述べてしまったが、現代まで書の大家であり忠臣の鏡として絶大な尊敬を集める顔真卿と茶聖・陸羽が交流していたという事実は、もちろん既知の事実であるけれども、「そこ繋がってるんか!!!」という驚きと感歎を以って受け入れるべき事実である。

そこで、顔真卿のように陸羽と直接交流のあった人物だけでなく、同時代の人物はどのような人で、どのような時代感になるのかを認識するために年表にまとめた。

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詩人に偏っているのは否定しようがないが、とりあえず思いついた人物は上記の形である。ひとまず、陸羽の同時代人=安禄山の乱(安史の乱)を経験した人、という風に定義したいと思う。有名な杜甫の詩、国破山河在 "國破れて山河在り"もこの安禄山の乱によって生まれた詩である。陸羽が湖州に避難したのも、安禄山の乱が原因であって、そうでなければ顔真卿との出会いもなかったし、韻海鏡源も編纂されなかったであろう。

さて、陸羽の茶経に関して言えば、770年に初版が、780年に追捕が上梓されている。このことから言えるのは、上梓部分については、顔真卿との重複期間、つまり772-777年を跨いでいるから、その影響を受けている可能性があるということである。これについては布目先生の本を再読しながら再考したい。

いずれにせよ、安禄山の乱によってしか生まれ得なかった作品群があるからこそ、安禄山の乱を経験した人を同時代人と定義して良いと考える。 日本で言えば、先の対戦に近い感覚かもしれない。 白居易や"喫茶去"で知られる趙州従諗は後の時代の人物として考えた方が良いだろう。

ちなみに、留学生として玄宗に仕えた上に唐で没した日本人、阿倍仲麻呂という人物の存在を最近知って驚いている。今の日本でいうところの文科省勤の高官であり、 帰日に際して王維から詩を送られ、その船が沈んだと噂されると今度は李白から追悼の詩を送られるという凄まじい人物である。羨望と嫉妬を禁じ得ない。結局帰日の船はベトナムに漂着し、最終的に帰日を諦めて唐で没した。
-終-


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