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パチンコ屋の店員と客

今と昔。
その関係性は全く異なる。


何度も書いてはいるが、パチンコ屋はその昔間違いなく遊技場だった。
景品交換が出来る遊技場。
法の抜け道を利用した3点方式でのギャンブルではあるが、あくまでただの遊技場でありゲームセンターのようなものだ。

言うなら、ゲームセンターのUFOキャッチャーで取った賞品をすぐに買い取ってくれるようなもの。

ただいくら遊技場とは言え、換金が出来るとなるとある程度の線引はしなくてはならない。
それで18歳未満お断りということでなんとなく線を引いている感じか。

それでもやっぱり遊技場は遊技場だったんだよな。
それこそ店員と客の関係は今のゲームセンターで見かけるような関係。
UFOキャッチャーにお金を突っ込む大人を横目に、一緒に来て店内を走り回る子供に「危ないよ~」と注意をしながらニコニコしてたり、子供にメダルゲームのメダルをあげて遊ばせたりしているのを見たことがある人もいると思う。
子供に「メダル50枚プレゼント」とかのチラシが家に入ってたりもするか。先日うちにも入っていた。

俺の記憶にある昔のパチンコ屋はまさにこれだった。

景品で貰ったおもちゃを持ち寄って子供らが店内に集まる。
そんな様子を見て微笑みながら、その親達に「随分大きくなったねぇ」なんて会話。
友達が帰ってしまって暇になった子供を親の隣の台に座らせて、上皿に200円分程度の玉を乗せる店員。
親のマネをしてパチンコを打ち、跳ねる玉を見て目を輝かせる子供。
上手だなぁと店員さんに頭を撫でられ嬉しかったっけ。


それがいつからかパチンコ屋の店員と客は敵となった。


いつからかと書いたが、実はほぼ正確に時期はわかる。
パチンコ屋が賭博場と変わり始めてからだ。
30~35年前。CR機が出てくるもう少し前。ここから。
店によって多少時期はズレるが、この頃から子供は目の敵にされ、通路で会話をする客を追い払い始めたのだ。

電動ハンドルも完全に普及し、羽根物全盛期であり、各メーカーが競うように新商品を出していた。
人々の生活にも余裕ができ、女性の社会進出も進む。日本はバブルに突入するところ。

その時のことを今でも思い出せる。
俺が初めてパチンコ屋を追い出されたのだ。当時中学生。

今でこそ当たり前だろうと思われるだろうが、当時としては珍しい。
親と一緒に入ったゲームセンターから追い出されたようなもの。
初めてのことで俺は混乱した。

俺の母親も混乱だ。
親と一緒に来ている子供を追い出すなんてあり得ないことだったから。
「私母親ですけど?」
「18歳未満の方の遊戯や入場はお断りしていますので」
「いや私と一緒に来てるんですよ?!」
まるで話はかみ合わない。

今となってはそりゃそうだろとしか思われないかもしれない。
ただ当時としては衝撃的。
店員と喧嘩して家路につきながら「じゃあカウンターに並んでるおもちゃやミニカーか何のためなの?」と母は怒り心頭。


俺達がそんなくだらないやり取りをしている一方、過激化した羽根物や連チャン機の登場でパチンコ屋は賭博場と化し、パチンコ屋も客も「奪う方」になろうと必死になりだした。

パチンコ屋が明確に客と敵対した瞬間。

考えてみて欲しい。
前述したとおりパチンコ屋は遊技場だったはずなのだ。
ゲームセンターの店員が客と敵対し、その金を奪いに来るようなもの。金を落とさない奴ら(子供)は出て行けと。
(UFOキャッチャーが徐々にそんな感じになってきてはいるが)
なんと恐ろしい。


この事があった後、俺自身も「奪う方」になろうと決めた。
高校生になり一人でパチンコ屋に行くようになった。
そして小さい頃にパチプロのノボリのオッサンから教えてもらったパチンコの勝ち方、その言葉一つ一つを思い出し実践していったのだ。

まずは各台の釘を記憶する。

天釘、寄り釘、道釘、へそ、その誘導釘。
一台覚えるのも大変だというのにこれを数十台、下手すりゃ百数十台記憶するのか?!冗談だろ?

一台覚えて次の台を覚えた頃には前の台の記憶がなくなる。
それでもなんとか数台覚えて帰ったが、次の日にはその記憶もあやふやに。
せめてひと島だけでも覚えよう。それまでは一発も打たない。

それから一ヶ月ほどかけてようやく釘を覚えた。
いや・・・釘を覚えたのではなく、釘の覚え方を覚えたのだ。

パチンコの盤面をぼんやりとしたイメージで捉える。
○番台は羽根に寄りやすいが落としが厳しい渋子ちゃん。
×番台はパカパカ股を開くが玉が寄り付かないブスなヤリマン。
ガリ勉のカチカチさんにこっちはゆるゆるのユルマンさん。

そんな感じで覚えていると、いつしか「今日の調子はどうだい?渋子ちゃん。お?今日は優しい落とししてんじゃないの?」と釘の開け締めまでわかるようになってきた。

そうなると今度は各台のクセの把握。
他人が打っている様子を覗き見たり、データを記憶したり。
なかなか役物に玉が飛び込まなくても、飛び込めばすぐにVゾーンに引き寄せられる台、またはその真逆のような台などがわかるように。

ここまで来るとある程度自分が今日勝てるかどうかがわかってくる。

もちろん100%なんて滅多に無い。
それでも無鉄砲にやたらめったら打つ一般客よりも確実に勝率は上がる。
打てる台がない時は打たずに帰る。これだけでも収支は全く変わってくる。

そんなことをやっているうちに後ろの島、隣の島と多く覚えた方が更に儲かるということがわかる。当たり前だ。

しかし敵も指を咥えてただ黙っているわけではない。
あの手この手を使ってこちらの邪魔をしてくる。
台を島ごと移動したついでに、台の並び順をグッチャグチャに入れ替えるというようなことを行ったりするのだ。

そんな時のために盤面等に付いたちょっとした傷の形なんかも覚えるようになった。
回したハンドルのバネの音や感触も覚えたり。
ここまで覚えたらもう台と対話しているようなもの。ようお前こっちに移ったのか?今日は機嫌良さそうだな。


こんな感じになったのが高校2年から3年にかけて。
「ネオンが消えた夜・新元号へ」で書いていること辺りの話。
そちらの文章でも「こいつこんなだったかな?」と台を擬人化してるのがわかると思う(笑)

この頃の俺は店員は敵だと思っていたし、店と他の客は金づるだと思っていた。だがそれは間違っていた。


これも以前書いたことなんだが・・・
いつものように打っていると店員が俺の元にやってきて「どうせこれ打ち止めになんだろ?」と俺の台の釘をぐにゃりと曲げて開けていったのだ!

もちろん台は程なくして打ち止めになったんだが・・・
その時の店員の顔は、俺が小さな頃に玉を上皿に入れてくれた店員と一緒だったのだ。
あの時のノボリのオッサンの言葉を思い出す。

「持ちつ持たれつだろうが・・・」

十数年経ち、ようやくその言葉の意味を理解する。
俺が箱を積み上げてると、他の客が羨ましそうな顔をしながら同じ並びの台を打ち出す。
それを見た他の客が同じ島にやってくる。
そんな賑わう店内を見た外を歩く通行人が店に飛び込み金を落とす。

そうして俺はいつの間にやらサクラとして成り立っていたのだ。

俺の中で数年あった心のモヤモヤが晴れていく。
そして美味しい酒を飲む。


話は変わるが結局俺が初めて追い出された店は、かなりギャンブル色が強い台ばかり置くちょっと怪しげな店だったのだ。
周りが増えた減ったの優しいパチンコを提供してる中、もう当時から札束が飛び交うような営業形態であった。

羽根物減らして一発台みたいなフィーバー台ばかり置いていたもんなぁ・・・。
羽根物も一発大量出玉のトキオとモンローしかなかったし。
過激連チャンのCR機もいの一番で並べていたもんな。そりゃ子供は追い出されるわ。


それからさらに十数年後。
何の因果か嫁がその店の系列店に就職した。
真面目な働きぶりに社員にならないかと誘われ社員になり、とんでもない金額の給料とボーナスを・・・・貰う前に妊娠して即辞めた。
嫁もまたちゃらんぽらんな人なのである。

そんな店も最近AUショップになってしまった。



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