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【寄稿】『杉浦康平と写植の時代』著者書き下ろしエッセイ「ある学生の2つの記憶(1997-1999)」

宇宙としてのブックデザイン

戦後日本のグラフィックデザインを牽引したデザイナー、杉浦康平。
彼は写植という新たな技術といかに向きあい、日本語のデザインといかに格闘したのか。杉浦康平が日本語のレイアウトやブックデザインに与えた、決定的な影響を明らかにする書籍です。(2023年4月新刊)

 今回は、著者である阿部卓也氏に本書の刊行に寄せていただいたエッセイ「ある学生の2つの記憶(1997-1999)」を公開します。本書執筆の目的や意義が分かりやすく述べられていますので、ぜひご一読ください。

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ある学生の2つの記憶(1997-1999)

1997年

いまはもうずっと昔の、1997年の思い出から始めたい。当時、筆者は都内の美術大学の1年生だった。いまもそうだろうが、デザイン科では毎週のように宿題が課される。その日も、仕上げた実習課題を持って、学内の作品提出用カウンターに並んでいた。当時、制作をパソコンで行ったのか、手書きやインレタ(文字を印刷した転写シール)を使ったのかは思い出せない。テクノロジーの端境期のことで、同じ課題でも学生次第で、手法はアナログだったりデジタルだったり、様々だった。さらに言うと、自分の作品に起きた出来事だったのか、前後に並んでいた同級生の話だったのかも忘れてしまった。とにかく、課題の受け取り業務をしていた助手スタッフは、初年次生が持参した作品を一瞥し、こう呟いた。

「文字詰めが、下手だなぁ」

文字詰めとは、見出しやタイトルなどのために文字を並べてレイアウトするときに、たんに均等に配置するのではなく、各文字の形状に合わせて、細やかな間隔調整を行うデザイン技法だ。日本語では、特にカタカナが連続する場合に有効で、例えば「メディア」という4文字を組む時、単純に整列させただけでは、「デ」と「ィ」の間が空きすぎてしまう。そこで、「デ」の右下の隙間に「ィ」をある程度食い込ませるように配置すると、視覚的に締まった、美しい文字列になる、といったことだ。

活字をただの四角形ではなく、それぞれ異なる形態の連なりとして捉え、1文字1文字の間隔を吟味して配列することは、当時のデザイン科で、最も基礎的なスキルの一つだと考えられていた(そして、その技能を磨くには、パソコンに頼らず、印字した紙をピンセットで切り貼りするほうが良い、とも言われていた)。件の助手にしても、できて当然の初歩的な技術について、幼い学生に指導した、ということだっただろう。

当時の筆者は、東北から上京したての18歳で、字間調整という発想自体を持っていなかったので、大いに感銘を受けた。一方で、手間のかかる面倒な作業だな、とも思った。そして何より、一体誰が、こうした手法を開拓していったのだろうという、素朴な疑問を抱いた。

1999年

話は、2年後の1999年に移る。大学3年生になった筆者は、代々木のデザイン事務所でアルバイトをしていた。パソコン(Power Macintosh 7200だったように思う)をあてがわれ、写真データを被写体の輪郭に沿って切り抜いたり、スキャンした画像の色調を補正したり、表やグラフを印刷用に作り直す、といったデザインの補佐的な業務をした。

その事務所では、12月の仕事納め前に大掃除があった。巻号遅れのパソコン技術誌など、日々の業務で溜まった不要な資料を整理し、紐で縛ってゴミ回収に出す。その中に、PPツヤ加工の表紙が青く輝く、「株式会社写研」の書体見本帳があった。『写真植字』という、実直な書名だった。事務所のベテラン・デザイナーは、その薄い中綴じの冊子を手に取って、言った。

「欲しいならあげるよ。いまでは、使えなくなってしまったから」

株式会社写研は、かつて、邦文写真植字機、いわゆる写植の製造と販売で、日本最大のシェアを誇っていた。写植とは、漢字を含めて8000文字以上が必要な日本語のテクストを、鋳造活字を使用することなく写真的に印字し、印刷版下用の文字素材を作り出す、日本で独特な進化を遂げた光学装置である。1960年代から90年代前半まで、写植はグラフィックデザインと出版産業の実務に不可欠な、技術的基盤としての位置を持っていた。

株式会社写研は、特にも、高品質な専用書体によって、デザイナーからの高い支持を獲得し、躍進した。写研の文字は、書籍、雑誌、漫画、広告、テレビなど、あらゆる場所に溢れていた。だが1999年には、すでにほぼ完全にDTP(パソコンによる印刷物のデータ作成)に取って代わられつつあった。なおかつ当時の写研は、自社の書体資産をパソコン向けのデジタルフォントとしてリリースすることを拒み、企業として長い休眠期間に入りつつあった。そのため、写研書体の使用手段は事実上なくなってしまい、デザインの現場では、もうこれ以上同社の見本帳を取っていても仕方がない、という時期だったのである。

実は、そのベテラン・デザイナー(拙著の成立を支えた恩人の一人である)は、長年「株式会社写研」の広報物デザインに関わった経歴の持ち主だった。それゆえ、当時の言葉の背後には、色々な思いがあったに違いない、と筆者が気付くのは、それから何年も後の話だ。とにかく、その時に貰ってきた写研の書体見本帳『写真植字 No.46』(手動写植機対象、1993年の最終版)は、このエッセイを書いているいまも、机の上にある。

写研の書体見本帳『写真植字 No.46』(編集部提供)

筆者は、写植を使ってデザインをした経験を持たない。しかし、デザインを学び始めた20世紀末の現場には、不要になった見本帳に限らず、つい昨日まで写植の黄金時代があったという現実の、残滓のようなものが至る所にあった。それらは、どこか不穏で心がざわつく、亡霊的な印象をもたらすものだった。ある先進技術が、歴史展開の中で淘汰され、急速に無用となる。それとともに、大げさに言えば、日本社会全体の「文字の形」が、突然に変わる。にもかかわらず、ほとんどの人はそれを気に留めてさえいない様子で、毎日が進んでいく。

この出来事は、一体なぜ起きたのだろうか? この先もまた、似たようなことが起きるのだろうか? 写植を駆逐したデスクトップPCをはじめ、次々登場する「デバイス」にしても、歴史から見れば、それぞれに、どれほどの耐久性や実体性があるのだろうか? 当時の筆者は、そのような疑問を持たずにはいられなかった。

『杉浦康平と写植の時代』

以上2つのエピソードは、拙著『杉浦康平と写植の時代』の本文中には一切登場しない、完全に個人的な思い出だ。だが言ってしまえば、同書はこれらの疑問を解き明かすべく書かれた。
『杉浦康平と写植の時代』の主題は、書名のとおり「杉浦康平」と「写植」だ。そしてブックデザイナーの杉浦康平は、まさに1つ目のエピソードで述べた「文字詰め」という手法を日本語の文書やデザイン用に発展・普及させた、代表的な人物である。なおかつ(美大生だった頃の筆者は、知らなかったのだが)、1つ目のエピソードと2つ目のエピソードは、深く関係していた。「杉浦康平」と「写植」は、何十年にもわたってさまざまなコラボレーションを行った、きわめて緊密な関係にあったからである。彼らの協働の成果は、日本のデザインと書物と文字の歴史に、決定的な影響を与えた。

書籍『杉浦康平と写植の時代』は、文献調査とオーラルヒストリー取材を通じて、「杉浦康平」と「写植」の活動の主要な軌跡を描き出すことを試みた本である。一人ひとりの人間としての彼らの実践の意義を、より大きな文化や歴史状況から捉えることに、筆者の力量が及ぶかぎりで挑戦した。

具体的な内容や、論述の流れについては、すでに公開されている書籍の概要や目次、【試し読み】記事(各章テーマの概説を含む)などを参照いただきたい。執筆中、つねに心に留めたのは、消え去った技術への懐古趣味や、伝説的創作者に対する憧憬としてではなく、自分たちの現在を認識し、未来を構想するための手がかりとして、デザインとテクノロジーの歴史を学ぶべきだ、ということである。

そのような問題意識を共有する読者の方に、ぜひ、本書を手に取っていただきたい。そして、さらなる対話や生産的批評を、多くの人びとと積み上げていけることを、何よりも願っている。

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