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【連載】感情の哲学 入門の入り口 第1回 感情と思考は対立する?(源河亨)

身近な「感情」をテーマにした哲学の入門書、『感情の哲学入門講義』。刊行にあたり、著者・源河亨氏による連載(全3回)をお届けします。

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感情の哲学入門講義』という本を書きました。その名の通り、感情の哲学の入門となる内容を講義形式で書いてある本です。ここ数年いろいろな大学でやっていた感情の哲学の授業をまとめたものになっています。

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泣いているロボットのカバーが目印

その出版にあたり、感情の哲学に触れてもらえるような記事をいくつか書くことになりました。今回は、まず「哲学は何をする分野なのか?」について説明します。そのあと、今回の本題である「感情と思考は対立するのか?」という点について少し考えてみましょう。

哲学は何をする分野なのか?

哲学というと、「人はどう生きるべきか」「正義とは何か」といった難しい問題についてアレコレ考えているというイメージがあると思います。こういった問題を普段からずっと考えている人はほぼいないでしょう。日常生活のなかにはもっと大事なことがあるからです。

ですが、「どう生きるべきか」みたいな問題はまったく重要でないと言う人もそうはいないと思います。人生の重要な場面では、そうした問題がたびたび現実味を帯びたものとして現れてきます。そうしたとき、何かヒントはないかと思って哲学の本を読む人もいるのではないでしょうか。日常生活では見過ごされている問題を改めて考えてみる、そんなときに哲学が必要となります。

ですが、人生の大事な場面に直面していなくとも、「改めて考えてみる」という習慣をつけておくことはとても大事です。というのも、その習慣が役に立つ場面は日常生活のなかにもあるからです。

学校でも会社でも、前から行われていたルールがそのまま引き継がれることがあるでしょう。靴下の色はこれだ、履歴書は手書きじゃなきゃいけない、エクセルの結果を電卓で確認しなきゃいけない、とか何でもいいです。こうした意味がわからないルールを「前からやっているから」「それがルールだから」といって受け入れていると、損にしかなりません。そんなとき、「この決まりって何のためにあるの?」と改めて考える必要が出てきます。改めて考えてみて、それが必要ないとわかったら、いらない作業に時間を割いたり、理不尽な決まりで嫌な気持ちになったりしなくて済むようになるでしょう。

ですが、「改めて考えてみる」というのは急にできるものではありません。というのも、何かを考えるという作業は面倒だからです。時間も労力もかかります。そんなことをせず、当たり前だと言われていることを受け入れている方が、とりあえずは楽でしょう。そもそも人間の心はなるべく労力をかけず省エネで働こうとするので、差し迫った重要な問題でないものは軽視しがちです。ですが、その反面、長い目で見れば損になることを受け入れてしまうという欠点があります。

その欠点を克服するには、普段から考える習慣を身につけているのがいいでしょう。そして、それにうってつけなのが哲学です。哲学には、「常識を問い直してみる」という側面があります。当然と思われていることを改めて考え直して、「実はおかしいんじゃないか」と疑問を投げかけたり、「こっちの考えの方が正しいんじゃないか」と提案したりするわけです。

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哲学は「改めてじっくり考えてみること」からはじまります
画像:Unsplash

このように、「改めてじっくり考えてみること」が哲学なので、実は何でも哲学のテーマになります。「やらなくちゃいけない仕事を後回しにしてしまうのはなぜなんだろう?」「かっこいい音楽ってどんなものだろう?」みたいな日常的なテーマを扱った哲学もありますし、「それぞれの生物種はどうやって区別されるのか?」といった生物学の問いを扱ったものや、「光は粒子なのか波なのか?どちらでもあるとはどういうことか?」といった物理学の問いを扱う哲学もあります。

というわけで、何でも哲学のテーマになるのですが、ここで取り上げるのは感情です。感情は、誰もが毎日何かしら感じている、とても馴染み深いテーマでしょう。

この連載では、感情に関する常識をいくつか取り上げ、改めて考えてみたいと思います。今回の残りは、最初に書いた通り、「感情と思考は対立するのか?」という問題を取り上げたいと思います。

感情と思考は対立するのか?

感情は思考とは正反対のものに思われるかもしれません。「頭ではわかっていたのに、感情に流されてやってしまった」とか、「冷静に感情をコントロールしなければならない」という言葉は、よく聞くと思います。また、「些細なことで怒って暴言を言ってしまったけど、冷静に考えればあんな言い方はないな」と後悔したことがある人も多いでしょう。こうした体験を振り返ると、感情と思考は対立するもので、しかも、感情は思考を邪魔する悪者だと思われるかもしれません。

ですが、本当にそうなのでしょうか。以下では、感情が思考を邪魔するというよりも、感情こそ思考に振り回されているのではないか、と考えたくなる話を書きたいと思います。

たとえば、ドアのノックについて考えてみましょう。「ノックを2回するのはトイレに人が入っているかどうかの確認なので、部屋に入るときのノックは2回じゃダメだ」という、なんだかよくわからないマナーがあります。(1回だと偶然何かがドアに当たったのと区別がつかないので、複数回ノックするというのはわかるのですが、2回でも3回でもどっちでもいいような。)

このルールをとても大事にしている人は、訪ねてきた人が2回しかノックをしないと「ここはトイレじゃありません」とか言って怒りだします。実は、この怒りは思考にかなり影響されたものです。言い換えると、一定の思考や理解能力がなければ抱けない感情なのです。

その点を理解するために、まず、言葉を喋り始めたばかりの子供について考えてみましょう。そうした子供も、自分のおもちゃを急に取り上げられたときには怒るでしょう。なので、怒ること自体は可能です。ですが、そうした子供を怒らせる原因は、かなり限られているでしょう。おもちゃを取り上げられることなどは怒りの原因になりますが、ノックの回数が怒りの原因になることはなさそうです。というのも、ノックの回数が怒りの原因になるためには、それなりの思考能力が必要となるからです。

ノックは、自分が訪ねてきたことを相手に知らせ、部屋に入ってもいいか許可を得る合図です。その合図なしに部屋に入ると、相手は人を迎え入れる準備をしていなくて、みられたくない姿をさらすことになります。そのとき相手は嫌な思いをするでしょう。それを避けるために必要なのがノックです。なので、ノックの必要性を理解するためには、対人関係とか、相手の気持ちとか、それをないがしろにすると失礼になるとか、直接は目に見えないさまざまな物事を理解できている必要があります。

そうした物事をまだ理解していない子供は、ノックの必要性についても理解していないでしょう。ノックの必要性が理解できなければ、ノックに関する怒りをもつこともできません。ノックをせずに部屋に入ってきた人に怒ることはないでしょう。それが失礼にあたるということが理解できていないからです。

ノックの回数で怒る人は、さらに複雑なことを考えているでしょう。その人は、失礼を避けるためにはノックをすればいいだけでなく、ノックの回数にも気をつけなければならないと思っています。下手にノックを2回だけやってしまうと、自分の部屋とトイレを一緒にされたと感じ、失礼な行為とみなされます。その人は、ノックの回数と場所を関連づけていて、この場所では2回、この場所では3回という、複雑なルールにしたがっています。そのルールは、小さい子供には理解できないものでしょう。

というわけで、ノック2回で「ここはトイレじゃないぞ」と怒る人は、複雑なルールを理解し、大事に守っていて、それに基づいた怒りを抱いているわけです。他人からすれば「そんな怒ることじゃないだろ」とあきれるようなこの怒りは、一定のルールを重視する考えによって生まれているものなのです。

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私たちのいろいろな感情は思考によって形作られている?
画像:Unsplash

以上からすると、感情が思考を振り回すどころか、感情は思考によって形作られていると考えられるでしょう。どういうときに喜び、悲しみ、怒り、恐怖するのかは、普段からどんなことを考え、どんなルールにしたがっているかに左右されるのです。そうすると、感情と思考は対立するどころか、感情は思考にしたがったものであると言えるでしょう。

以上の考えが正しいとしても、まだ疑問が残ります。感情と思考は対立するものではないとしても、「感情と思考が対立する」と多くの人が考えているのはなぜか、という疑問が出てくるのです。

一般的に言って、Aという考えが間違いだとしても、それが常識として広まっているからには、Aが正しいと考えたくなる理由があるはずです。そうでなければ、その考えが広まるわけはありません。なので、Aが間違いだと主張したら、次に、「なぜAは間違いであるにもかかわらず広まっているのか」を説明しなければなりません。

たまに、「常識外れなことを言うのが哲学」だと思っている人もいますが、それは間違っています。常識外れなことを言うこと自体が悪いのではなく、言いっぱなしなのがダメなのです。常識外れなことを言うときには、必ず、常識を捨てるメリットまで言わなければなりません。これらをセットで提示できて初めて哲学になります。無闇に常識外れなことを言うのはロクに考えていない証拠であって、「じっくり考える」哲学とは正反対のものです。

では、感情と思考は対立しないのに、なぜ対立すると考えられているのでしょうか。残念なことに、話はここまでです。続きが気になったら、ぜひ『感情の哲学入門』を手に取ってみてください。

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第2回「ロボットは感情をもてるか?」はこちら

【執筆者プロフィール】
源河 亨(げんか とおる)
2016年、慶應義塾大学にて博士(哲学)を取得。現在は、慶應義塾大学文学部・日本大学芸術学部・立正大学文学部ほか非常勤講師。専門は、心の哲学、美学。
著作に、『知覚と判断の境界線――「知覚の哲学」基本と応用』(慶應義塾大学出版会、2017年)、『悲しい曲の何が悲しいのか――音楽美学と心の哲学』(慶應義塾大学出版会、2019年)。訳書に、ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる――情動の身体知覚説』(勁草書房、2016年)、セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』(慶應義塾大学出版会、2019年、共訳:木下頌子)など。

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