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【寄稿】コロナ対応にみるアメリカの宿痾とは。『アメリカの病』刊行によせて(池田年穂)

ホロコースト史を中心に歴史学の世界に新境地を切り開いたとして高く評価される歴史学者、ティモシー・スナイダー氏。弊社では今年1月に、オピニオンリーダーとしても知られる彼がコロナ禍のアメリカを考察した『アメリカの病』日本語版を刊行しました。刊行にあたり、翻訳を手掛けた池田年穂さんに本書の紹介文を寄稿して頂きました。


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 連邦議事堂乱入事件のあとのアメリカの騒擾の中で、ティモシー・スナイダー・イェール大学教授はメディアに露出する機会がさらに増えている。一年でだいぶ老けたなと思う。まだ51歳の氏だが、なんと言っても2019年の12月29日には、コネティカット州ニューヘーヴンの救急病棟で、肝疾患による敗血症のために死線を彷徨っていたのである。入院時に氏が綴った「病床日記」から本書は始まった。救急病棟では、氏の友人の黒人医師が付き添ってくれたが、病院スタッフは彼女が黒人と言うだけで取り合わない。

 救急救命室に入る際に担当してくれた二人の看護師が通り過ぎるのが見えたし、話している内容も聞こえた。「あの人誰なの?」「自分では医者だって言っているわね」。彼女たちは私の友人について話しながら笑っていた。……その晩に人種主義が私の生きる可能性を害(そこな)ったように、人種主義は他の人びとの生きる可能性を、彼らの人生のいかなる瞬間においても害うものなのだ。(ティモシー・スナイダー『アメリカの病』19₋20頁)

 そして氏が退院すると、新型コロナウイルスが蔓延していた。ここで気にかかっていたことがある。氏は<妻と私が、影響力のある有力者たちに庇護を求めなかったことに同僚たちがひどく驚いていることを知らされた。私たちはそんなことは考えもしなかった。>と記している。「医療は人権であって特権であってはならない」と信じる氏らしい振る舞いである。それで、個室ではなく、滞米期間は長いが英語をまるで話せない中国人男性と同室になる。その中国人は中国へ里帰りして戻ったばかりであった。本文中にあるCTスキャンの結果の描写などから、スナイダー氏本人に新型コロナ感染の確認をしたところ、「可能性は高いと感じているが、わからないので、慎重に曖昧なままに留めました」との返事であった。
 氏の持病だった偏頭痛のヨーロッパでの治療。また、オーストリアでの第一子の出産体験とアメリカでの第二子の出産体験の比較などから、氏はアメリカの過度に商業主義化された医療制度についての批判を繰りひろげる。

 あなたが医師や看護師に診察されるたび、検査が行われるたび、病院のアルゴリズムは――誰がどれだけの金額を稼げるかを巡って――保険会社のアルゴリズムと真っ向から対立する。病院は、最も適した人員がそこにいるかどうかを考慮せずに、利益を生む治療を選びがちだ。たとえば、あなたの子供である新生児が、複雑な心臓の欠陥を持って生まれたとしよう――地域の小児専門病院は、別の病院に勤務する外科医のなかで最もその手術を上手にこなす者を紹介するのではなく、たとえそれが真実でなくとも、自分たちの病院の外科医がその手腕を持っていると主張するだろう。その結果、新生児は苦しんだあげく命を落とすのだ。(同108頁)

 JALに勤めていた筆者の10代からの友人のお子さんも先天的な心臓疾患を持って生まれたが、企業駐在員として「条件の良い保険」に入っていたからcutting-edge な治療を受けられたと30数年前を振り返る。ヴォランティアに助けられたとも述懐しているが、これもスナイダー氏がニューヘーヴンに戻る前にマイアミの病院で実感したことに通じる。
 (アメリカには実はたいへん多いが)「科学を信じない」トランプがパンデミックにどう対処したかは、わが国のメディアでもつとに報じられてきた。

 彼は根拠もなしに(抗マラリア薬の)ヒドロキシクロロキンを奨励したが、それは患者の致死率が高いことで知られた薬だったし、おそらく投薬された多くの退役軍人の命を奪ったと思われる。納税者の税金をヒドロキシクロロキンに配分したことについて、まことに当然のことだが疑義を呈した連邦政府の職員は、解雇されてしまった。また必要な設備・備品が不足しているのを報告した別の職員も、やはり解雇された。こうして暴政が続いてゆく。真実を告げる者は追放され、阿諛追従の徒が群がる。その後、大統領は、アメリカ人は殺菌剤を注射したらどうかと、放言をした。(同、77頁)

 マスクを着ける、着けないが、公衆衛生の問題でなくイデオロギーの問題になってしまう国情なのである。また、上の引用の少し後の方では下のように述べられている。

6月15日に、トランプはこう宣言した。「我々が今すぐ検査を止めるなら、あったとしてもごくごくわずかな感染者になるだろう」。5日後にトランプは「検査を遅らせるよう」命じたことで、自画自賛したものだ。こうしたマジカル・シンキングは、独裁的であり、欺瞞的かつ無責任だ。(同、78頁)

 この「マジカル・シンキング」という言葉は、実は2011年に拙訳を出した、ジョーン・ディディオンの全米図書賞受賞作『悲しみにある者』の原題に使われていた(Joan Didion, The Year of Magical Thinking)。意味は「実際には相互に無関係なもののあいだに関係があると思い込み、一方に働きかけて他方にある種の効果をねらうことができるとする考え方」である。これで政治をやられては堪ったものではないが、実は病気や死は、権威主義の政治家にとっては都合の良いものなのだ。

死、そして死への恐怖は政治的な資源になりうる。独裁者は、すべての者に医療を行きわたらせるかわりに、人びとが死んでゆくのを見つめ、生き残った者たちの混乱した感情に便乗して権力の座にしがみつこうとするのだ。アメリカでは、最初に、しかも急速に亡くなったのは、概してトランプに投票しなかったアフリカ系アメリカ人だった。(同、82頁)

 本書が店頭に並ぶのは1月20日と聞く。アメリカで大統領就任式の執り行われるのも1月20日正午(EST)である。これを記しているのはちょうど24時間前である。パンデミックのために就任式は市民の参加なしで行われ、ワシントンDCには25000人ものnational guardが配備されたと聞く。しかも、現職の大統領は姿を見せないというのだから異例ずくめである。保健医療制度に関しては、バイデン政権になったら、一挙に「単一支払者制度」までは無理だろうが、通称「オバマケア」が当然息を吹き返すのではと期待している。
 スナイダー氏の祖父が父方・母方ともオハイオ州の農民だったことは本書を読むまで知らなかった。痛みに対するきわめてストイックな態度が氏に受け継がれたことについての記述も興味深い。ただ、いつの間にか<「ピルミル」――むやみに薬剤を処方する医療関係者――の出現は、苦痛と薬剤のどちらを選択するかという極端な論理を展開するものだった。>という事態が出来し、結果としてのオピオイド禍はアメリカの宿痾と化している。
 氏の『暴政――20世紀の歴史に学ぶ 20のレッスン』(2017年)と同じように手頃な厚さの本だが、考えさせられるところの多い本である。


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[執筆者プロフィール]
池田 年穂(いけだ としほ)
1950年横浜市生まれ。慶應義塾大学名誉教授。歴史学者。ティモシー・スナイダーの日本における紹介者として、本書のほかに『自由なき世界』『暴政』『ブラックアース』『赤い大公』を翻訳している(2020年、2017年、2016年、2014年)。タナハシ・コーツの紹介者として『僕の大統領は黒人だった』と『世界と僕のあいだに』を翻訳している(2020年、2017年)。他に、パメラ・ロトナー・サカモト『黒い雨に撃たれて』(2020年)、ピーター・ポマランツェフ『プーチンのユートピア』(2018年)など多数の訳書がある(いずれも慶應義塾大学出版会)。

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