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【試し読み】『三田文學』の書評ページをチラ見せ! その1

こんにちは!今回と次回に分けて、現在発売中の『三田文學』2023年春季号(153号)から2本、「その1」「その2」として書評記事をお試し公開します。今回は、カミーラ・シャムジー『帰りたい』(金原瑞人・安納令奈 訳)の書評です。
読者のみなさまにとって、新たな出会いになれば幸いです!

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声たちが満ちる世界

カミーラ・シャムジー『帰りたい』(金原瑞人・安納令奈 訳) 

河内恵子

 小説には対照的なブリティッシュムスリムの二家族が描かれている。イスマ・パーシャはアメリカで社会学の博士号をとるために研究している20代後半の女性で、彼女には19歳の双子の弟妹がいる。彼女の父はイスマが幼い時に家を出て、彼女が8歳の時に一度戻ってきた。その際に母は弟妹を身ごもったのだが、その後再び旅立ち二度と戻ることはなかった。この「不在の父」アーディルはジハード戦士として各地の紛争地で戦い、最終的にはキューバの米軍基地にあるグアンタナモ収容所に移送される途中で病死したらしい。母親は7年前に亡くなったので、イスマは学業を中断し働きながら弟妹を育てた。双子が高校を卒業したのを機会に彼女は研究を再開したのだ。妹のアニーカはロンドン大学で法律を勉強しているが、弟のパーヴェイズはさまざまな音源を収録することに深い関心を抱いているものの大学に進学もしなければ仕事に就くこともなかった。彼は「不正と闘う、勇気ある男」「国境などというまやかしの向こうを見つめ、苦境にあるときには同志を励まし続けた男」である父に盲目的に憧れていた。現実には知らないがゆえに「不在の父」に強く惹かれていたパーヴェイズは「男が男でいられる理想の場所」、すなわち父がいた場所へとたやすく誘われる。彼はISの戦士となるべくシリアのラッカへと出発する。

 イスマがアメリカで知り合ったエイモン・ローンはイギリスの次期内務大臣就任が確定したカラマットの息子だ。パーシャ家はカラマットが新人議員であったときに不愉快な接点を彼ともったことがあったがエイモンは父を理解してほしいとイスマに頼む。父カラマットはムスリムだが母テリーはアイルランド系アメリカ人でインテリアデザイナーとして著名であり、妹は22歳にしてニューヨーク・マンハッタンの投資銀行でキャリアをつんでいる。そしてエイモンはコンサル業に就いてはいるが現在は「一年ほどのんびりしている」という、社会的にも経済的にも恵まれた一家だ。カラマットは「ミスター・イギリス的価値観」「ミスター・治安強硬派」「ムスリムというアイデンティティを捨てた男」とムスリム側から批判される存在だが、エイモンはパーヴェイズがそうであるように父親を尊敬し「父親を追い越したい。父親を追い越すことを許された、世界でたったひとりの人間になりたい」と願っている。
 
 イスマは強くエイモンに惹かれるのだが、彼が激しく愛するようになるのは、ロンドンに帰って、イスマに預かった物を届けに行った際に出会ったアニーカだ。電撃的な恋に溺れるエイモンは父親が母校でのスピーチで語った「自分の服装や考え方、かたくなに守っている時代遅れのしきたり、忠誠を誓ったイデオロギーにこだわって、自分を国家から切り離さないでください。というのも、切り離せば、疎外されるからです」という言葉にそぐわない生き方をするアニーカを拒むことはできない。

 父のようにジハード戦士として生きようとしたパーヴェイズは自らが選択した世界が「わびしく無情で残酷な地獄」であることを知り「自分よりまともに生きてきた家族をないがしろにしてしまったこと」を認識する。アニーカの「この家の女たちならではの毅然とした、思い切りのよさがあらわれ」た声を聞いたとき「とにかくうちに帰りたい」と彼は訴える。しかし、パーヴェイズはIS離脱に失敗しイスタンブールで「敵対するジハード戦士グループ」と推定される男に射殺されてしまう。カラチに運ばれた弟の遺体を引き取りイギリスに連れ帰ろうとアニーカは決意するが、イギリス国籍を失っているパーヴェイズをイギリスに運ぶことを内務大臣になったカラマットは禁止する。アニーカはジャーナリズムを通して内務大臣に敵対する。全身を白い衣服に包み、赤いバラの花びらをまわりにまいて、カラチの公園に登場した彼女は「受難の象徴」のようにテレビに映し出される。「邪悪な独裁者にまつわる話では、男も女も国外追放の刑に処され、遺体は家族から遠ざけられ、首は大釘に突き刺され、そのなきがらは墓標なき墓に投げ捨てられる。こういったことはすべて、法によるもので、正義によるものではありません。あたしがここに来たのは、正義を求めるため。内務大臣に直訴します。弟を家に連れて帰らせて」。毅然としたこの声に呼応するかのようにエイモンもテレビカメラを前にしてアニーカを擁護し、父親に疑問をぶつける。そしてカラチの公園へと急ぐ。最後にアニーカはエイモンを抱きしめて何か囁くのだが、その声は聞き取れない。そして大きな悲しみが静寂を呼び込む。

 親と子、姉と弟妹、宗教と政治、国家と個人といった多種多様な関係性が登場人物たちの哀しい声で語られる、これはきわめて美しく重い作品だ。それぞれの人物が奇妙なほど真面目に生に向き合い、自らの声で真剣に語ろうとする。カミーラ・シャムジーが描いてきた声たちはいつも外に向かっては毅然と、そして内に向かっては謙虚に語る。

 In the City by the Sea (1998)では11歳のハサンが体験した政治的事変や目撃したある少年の墜落死を自らに問いかけるような声で語る。Salt and Saffron (2000)のアリヤは家系図にまつわる物語を語りながら恋愛も結婚も階級格差に強く支配されている自分たちの世界の在り方を理解していく。Kartography(2002)では生まれた時から親友であるカリムとラヒーンの交錯する思いが破壊と生産を繰り返す様をふたりの声が伝える。Burnt shadows (2009)では1945年長崎に投下された原子爆弾によって婚約者を亡くし、自らは重傷を負ったタナカ・ヒロコの生の軌跡がインド、パキスタン、ニューヨークといった空間で描かれる。歴史に翻弄されるかのように生きるヒロコの声には圧倒的に哀しい生命力がある。最新作Best of Friends (2022)は1988年にベーナズィール・ブットがパキスタンの首相に就任したとき、女性の時代が到来したと希望を抱いた女子学生ザーラとマリアムのその後の葛藤の日々を2020年まで描出する。芸術、音楽、政治、人種問題、同性愛、差別と暴力等、多くの問題を豊かな言葉で凜とした声で語る女性たちがここでは躍動する。カミーラ・シャムジーが創りだす声たちはさまざまな空間や時間を現出させる。現在を見つめながら、歴史の断片を、声を媒体として繫いでいく彼女の小説はその包括性ゆえに今もっとも読まれるべき文学作品だ。

(白水社・3,190円税込)

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