近年のセクシャリティやジェンダーを考察できるSF作品4本

執筆:久方楸

※この文章では、上2つは個人的に好きなので称賛の意見が多いですが、後ろ2つはあまり好きではないので批判的な意見を中心に書きます。否定的な批判が苦手な方は読まないことをお勧めします。また往々にしてネタバレを含むのでそこもまたご注意を。

目次

1、平山夢明『桜を見るかい?-Do you see the cherry blossoms?』(絶滅のアンソロジー収録)(2021年)
2、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(2021年)
3、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(2020年)
4、磯光雄『地球外少年少女』(2022年)


1、平山夢明『桜を見るかい?-Do you see the cherry blossoms?』(絶滅のアンソロジー収録)(2021年)

「まず桁外れに狂った主婦アキヱ夫人が登場します」という衝撃的な一文から始まるこの物語は、その他にもアキヱ夫人の旦那がハアトであったり、登場する医者がアソウだったり、大手代理店の名前が便通であったりと諸々社会的な風刺を含む。それと同時に、平山夢明ならではの言葉遊び(精子提供で財を成した男性の呼称が「汁バー・スプーン」、卵子提供で財を成した女性が「エグ・オネア」)が散見され、こういってしまうと乱暴に聞こえるかもしれないが「とても平山夢明らしい」短編小説になっている。
 ここだけ読めば社会風刺に徹した作品に思えるが、しかしその実態はゴリゴリのSF。新自由主義、あるいは優性思想が蔓延り、生まれてくる子供のゲノム編集が当たり前になった近未来。主人公であるアキヱ夫人はある日暴漢に襲われ、不幸にも妊娠してしまう。すでに五十半ばに差し掛かっていた彼女の身を案じて、そしてそれ以上に「犯罪者の子供を未編集のまま産むことを汚点」として、周囲の人間は彼女に堕胎を強要しようとする。一方でアキヱ夫人は子供をそのままの状態で出産することを強く願っており、彼女と周囲の人間との軋轢を短い頁数ながらも見事に描き切ったのが本作である。
 かろうじて優性思想には染まり切っていない現代の価値観から見れば、アキヱ夫人の「生まれる子供に罪はなく、また人間が必ず優れていなくてはならない理由はない」という主張は理想的で正しいといえるだろう。対照的に、周りの人間が唱える「改良していない子供を産むことは野蛮で社会にとってのお荷物」などの呪文は、人権をガン無視した野蛮な主張に映る。しかし作中の優性思想が根底にある世界では、後者の意見こそが正当で、前者の意見は受け入れがたい不当なものとして映っているのがソラ恐ろしいところである。
 しかし出生前のゲノム編集が一般的になり、誰ひとりとして未編集のままの子供を産むことがない世界線。誰もが〝優れた〟容姿に、〝優れた〟頭脳を持ち、社会が〝優れた〟人間を当たり前に要求してくる世界において、未編集の子供を産むことにどれだけの勇気とある種の狂気が必要かを考えてしまうと、周囲の人間の主張も「確かに」と少しぐらいは頷けてしまうのがさすが平山夢明というところだろう。なにより、そんな世界で未編集のまま産み落とされる子供の将来を憂えたアキヱ夫人の長男ハメジロウが発した「人間は対価を払い、社会で評価される為の武器を手に入れるべきなんだ」という一言は、成果主義が叫ばれる現代に生きるいち大学生としては中々刺さる言葉である。〝優れた〟〝劣った〟なんていう社会の評価は、ある一側面から見た特徴でしかなく、多様性こそが種として最大の武器である、ということを頭では分かっている。だが同時に、生まれた瞬間からテストや成績、運動能力などで数値化された評価を押し付けられ続けるこの現代で、そんな言葉は理想的なおべんちゃらでしかないと思ってしまうことを悪といえるだろうか。可能ならば自分や自分の子供は「なにか誇れる得意分野があるといいなぁ」と思い、多様性の部分は別の誰かに引き受けて欲しいという思いは、人の理性で押さえつけられているものの、かなり普遍的な願いではないか。
 一家伝統の家業や地位などが殊に都市部ではほとんど潰えた今、義務教育課程で表面化されるような〝社会的に評価される〟特徴は、自身のアイデンティティを確立するにあたって最も手っ取り早い手段の一つである。これらを踏まえた上で、アキヱ夫人と周囲の人間、どちらの意見に賛同するかという議論を読書会でやれればいいなぁ、と思っている次第なのであった。ただこういう議論をすると、マジョリティや社会的強者からの意見ばっかりが紛糾しそうなので、同時に武田綾乃『愛されなくても別に』なども併せて読んでおきたい気がする。あとまぁ、社会的な倫理観を差し置いて出生前ゲノム編集が一般化するなんていう「行きついた」世界を前提にするのは、ある種究極の選択的な感じもしなくはない。


2、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』(2021年)

 ご時世的に、この評論に本作を載せようか否かを結構迷ったのだが、筆者が重版で入ったお金を全額UNHCRに寄付するという最高のムーヴをしてくださったので、私は迷いなく本作を紹介します。個人的に、2021年に発売した小説で一番面白かったまであるので未読の方は是非。
 独ソ戦でドイツ軍に村を焼かれ、ソ連軍の狙撃兵として参戦することになるとある少女の物語。戦争でなければ当たり前に享受できていたはずの幸福や、持ち続けていたであろう人間的な倫理観など、そういった〝何か〟を喪いながら敵を撃ち続ける少女の姿には胸を痛めずにはいられない。また、戦争における命の軽さや、命をただの数として処理する姿、だがその一方でやはり喪った知り合いの命の重さ、ここのあたりの描写が非常に上手い。特に現在、プーチン大統領がウクライナに戦争を仕掛けているため、恐らく読んでいる最中の臨場感は平時と比べ物にならないほど鮮明になるだろう。
 加えて、本作は戦時下における女性に対する戦争犯罪をかなり扱っている。それを嫌悪する主人公の思想も、戦争という異常な環境においてそれを「悲しいが仕方のないもの」と正当化する人物の思想も、キチンと描かれているのが大変素晴らしい。昨今では直視したくない現実に蓋をしてしまう、声の大きい歴史修正主義者がネット上やら実社会上やらでチラホラと見えるので、こういった戦争犯罪を真正面から向き合ってくれる作品は大変ありがたい。
 ストーリーも骨太で、かなりしんどい話でありながらも頁を繰る手が止まらないタイプの小説である。帯に記載された桐野夏生さんの「これは武勇伝ではない。狙撃兵となった少女が何かを喪い、何かを得る物語である。」というのは、この作品を表す最高のキャッチフレーズだとも思う。少しでも気になった人は是非。


3、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』(2020年)

 百合SFとして一時期かなり話題になった。まぁ確かに百合といわれれば百合かもしれないが、所謂〝百合〟認識がここまで足を引っ張っている作品も珍しい。
 さて、そもそも百合とは「女性同士の関係性を描くもの」であり、別段主要人物に男性を出さないものでも、男性の感情表現を排除するものでもない。確かに百合が芽吹いた土壌たるエスは女学院内の姉妹関係を〝中心に〟描くものであったから、そこから「百合に男性を出さない」という文化が出てきてしまっていることは別段驚くものではない。だが、その呪縛にばかりとらわれていると、上手く表現できないものがあることもまた確かだ。ということで、ここではそういった弊害によって上手く表現しきれていない本作のストーリーを眺めていきたい。
 まず舞台設定を非常に簡単にいえば、とあるガスの惑星において、とある巨大なガスの魚(怪物サイズのエネルギーの塊と思ってよい)を捕獲するために、これまた巨大な航空兵器に操縦役と捕獲役のふたりが乗り込む、というものである。ここでその航空兵器は星に暮らす部族たちの間でも貴重なものであり、また搭乗するふたりは男女の夫婦であることが必要条件とされていた。主人公たち女性のふたりペアは奇異の目で見られながらも、圧倒的実力で駆け抜けていく……とまぁ、活躍劇なのだが。この主人公たち「女性ふたりペア」という特異性を強調するために、昭和のようなこてこてのジェンダー観で周りの人間たちが喋るのが非常に苦痛である。いくら星での暮らしが村社会といえども、6000年後の未来でここまでひどいミソジニーやら男女の二元論は無理があるだろう。「女性は感情的でいざというときの対処が弱いから操縦役にはさせません」「女は子供を産んでなんぼ」なんて、この21世紀ですら聞く機会は減ってきている。
 しかし、この無理矢理なジェンダー観をどうにか作中に導入する手立てが実はひとつだけ存在しているのである。……が、それは見事に「百合の主要キャラに男性はいらない」という間違った百合認識のせいで潰されてしまっている。さて、その手立てを説明したいのだが、ちょっとそれには固有名詞やらなんやらが必要なので作品の設定をもう少し詳しく説明していく。
 そもそも舞台となる星(ガス惑星)は、とある移民船団が見つけたものである。その団長たるマギリは女性であり、同じく女性であって天才学者のエダをパートナーとしていた。しかしある日、エダは事故によって命を落とす。エダを失いながらもどうにか団長としての役割を果たすマギリの肩を支えたのが、これまた女性のシービー・エンデヴァ。どうにかこうにか船団は回っていたが、ある日星の奥底でエダが生きているのではないかと勘繰ったマギリは、エンデヴァの静止を振り切り、自身の責任の一切合切を捨てて星の中心へ降下してしまう……というのが、本作のプロローグである。そして主人公たちの時代まで約300年が経過した現在、航空兵器に男女ふたりが乗る正当性を担保するために、初代船団長が女性でかつレズビアンカップルであった事実は不都合であるとされ彼女らは歴史的に抹消。またシービー・エンデヴァもC.B.エンデヴァとされ性別がちゃんと伝えられていない節がある(エンデヴァの伝えられた性別についてはちゃんとした記述があったかもしれないが、記憶が曖昧)。
 とまぁ、見事にミソジニー拗らせたやつに歴史改竄をされてしまっているのだが、その経緯が213頁に「男女の夫婦しかいなくなった時に、(マギリとエダの)二人の記録を抹消した」と書かれている。しかしそもそも、50万の人口を有する移民船団で、初代団長がレズビアンカップルであったという事実を踏まえながら男女の夫婦しかいなくなる、というのは無理のある話だろう。LGBTQ+の割合はおよそ10%といわれており、50万人のうちに男女の婚姻関係しか存在しないのは万に一つもあり得ない。ここのセリフを「権力を握っている層が男女の夫婦しかいなくなった」と好意的に解釈しても、なぜそう易々と歴史改竄が許されているのか。男女のカップルの全員が、同性愛を嫌悪しているわけでもないのに。こういった諸々を考えていくと、設定にいくらか無理があるのは否めない。主人公たちの特異性を強調したいがために、無理くりな設定を用意するのは個人的に嫌いである。
 だが、プロローグに登場するシービー・エンデヴァを男性に変更し、またエダの元夫(エダがマギリと婚姻するにあたって一方的に関係を解消された)という設定にすればすべて一本線を入れて説明できる。つまり、エンデヴァはマギリを恨んでいたがその実力だけは買っていたので、エダが死亡したのちもずっと支えていた。しかし、マギリがエダの幻影を求めて感情的にすべての責任を投げ捨てたとき、今までの積もり積もった恨みが噴出し「女性全体が感情的でダメな存在」と認識するようになる。よってマギリとエダは歴史的に抹消するのではなく、むしろ悪例として語り継がれており、まわりまわって同性愛も嫌悪されている。こうしてしまえば、航空兵器に男女の夫婦でしか搭乗できない理由も、女性が差別されている理由も、お話上矛盾なく通るように思うのは私だけだろうか。
「百合を書きたい」というだけで、主要人物からひとまず男性を排除しておこう、というのは悪習である、と私は百合若輩者ながらずっと思っている。男性がいるからこそ、描くことのできる女性同士の関係性や、ストーリーの筋書きがあるはずだ。そういう意味で、中山可穂の『猫背の王子』はやはり傑作であると思う。
 またセクシャリティやジェンダーという本投稿の趣旨とは少しずれるのだが、主人公たちの天才ぶりもちゃんとした説明がなくて個人的にはもやもやする。確かに「天才なんだよ」といわれていまえばぐぅのねも出ないのだが、それにしたってちょっと天才性を盛りすぎである。通常のペアが一回の飛行(約10時間)で獲得できる魚の平均量が113,000トンであるにも関わらず、主人公ペアは初回の漁で314,000トン獲得している(これはすぐに捨てているが)。また、その後きちんと持って帰った漁獲量も201,000トン。常人の倍近くを当たり前にとる彼女たちの天才性について、明確な記述はない。123頁にそれらしい記述「あまりとりすぎると燃料不足でホームに帰れない」があったので一応の納得はしていたのだが、そのあとの族長との決闘で族長が約5時間のうちに得た漁獲量が69,100トンであることを鑑みると、どうにもその説明も矛盾してくる。主人公が作る網の形が特殊、という説明は所々あるのだが、それだって特別画期的なものには思えない。なんというか、主人公が天才なのは娯楽小説あるあるなのであんまり気にはしないが、数値として明確なものを出すのならば、いかにして常人とは異なっているのかをもう少し説明してもらいたいと思った所存である。


4、磯光雄『地球外少年少女』(2022年)

 つい最近公開された映画、またはNetflixにて全話配信中のアニメ。最初の頃、具体的には3話までは面白かったと思うが、それ以降は正直微妙。というか、はっきりいえば面白くない。その理由を、ストーリーからとジェンダー観からの2つの観点で眺めたい。
 まずストーリー的な話について。こういった宇宙ものにおいて大いなる智と接続する作品は往々にして存在するが、では『2001年宇宙の旅』と比較して優れている、またはより一層の進化を遂げているか、といわれればそんなことはない。本作の場合、『2001年宇宙の旅』とは対照的に、巨大な智と接続してなお主人公は人間に戻ってくるのだが、その理由も曖昧である。あれだけ巨大な智性を得てなお、主人公が高々ひとつの命に固執している心情を上手く表現しきれていない。そのあたりの話をノリで進めている感じが否めなく、加えてずっと取り上げられていた脳内インプラントが解決する理由も説明が不充分である。クライマックスはただの感動ものに仕上げられており、率直にいってチープさがにじみ出ている。知能リミッターを外した瞬間に、学習を経ずにAIが知能向上をしていく意味も分からないし、そもそもあの演算量を人が持てるサイズの機械で果たせていることもあり得ないだろう。ズラズラと不満点を色々とあげたが、このあたり設定をもう少し詰めていれば名作になったかもしれないので非常にもったいないと感じてしまう。ただ、本作に登場する未来のガジェットは確かにとても面白いので、それ目当てで本作を見ることはありかもしれない。
 次にジェンダー観について。表立った差別発言などはさすがに時代に合わせてかないものの、無意識のうちに持っている、アップデートされないままのそれがにじみ出ていて少々つらいところがある。というのも、本作には女性キャラクターの知的階級からの排除が見受けられる。
 まず本作に登場する主要キャラクターは、男性が3人(登矢、大洋、博士(読み方はひろし))女性が3人(心葉、美衣奈、那沙)である。この人物たちの物語上のロールを見れば、登矢は中二病を拗らせた天才クラッカー、大洋は正義の心を持ち合わせた天才ホワイトハッカー、博士は宇宙のことが大好きで登矢に理解を示す聡明な少年、心葉は病弱な少女で大いなる智へとつながることを中継する巫女、美衣奈は自己顕示欲の鬼のSNS中毒者、那沙は看護師および介護士で後に陰謀論者と発覚する。続いて、本作の最終話で明かされる彼ら彼女らの未来を書けば、登矢は大洋および心葉とベンチャー企業を興し脳内インプラントで世界を先行、大洋は「飛び級で大学を卒業、大学院に通いながらUN3(国際連合的な組織)に就職」、博士は「アメリカ留学中、部活で論文を発表しイグノーベル賞を最年少受賞」、心葉は「地球にいたタリンの母親とタリン郊外で居住」、美衣奈は撮影した事件の一部始終で財を成し今はアイドルとして成功、那沙は死亡(「」は作中に実際に出た文言の引用)。
 こうして設定を羅列すると、個々人の成功や幸福度はさておき、紹介文における男性と女性の知的領域の触れ方の違いに愕然とする。特に心葉は登矢と同様大いなる智に接続し知能向上されているはずなのにも関わらず、記述は「母と同居」。また、ベンチャー企業では心葉と登矢が中心となって脳内インプラントを作ったように受け止められる話が出てくるのだが、ベンチャー企業を紹介する記事の写真は登矢と大洋が映っているだけで、ここでも心葉は見受けられない。作品的に、登矢と大洋の絡みを強調したかった気持ちはわからないでもないが、ベンチャー紹介の記事で設立者のひとりたる心葉を外すのはさすがにダメだろう。美衣奈も3話ぐらいまでは実はいい子みたいな変遷をしていたのにもかかわらず、そのあとは結局足を引っ張り続けるお荷物になってしまうし……。このあたりもうちょっとどうにかならんかったのか、というのが私の感想である。那沙も殺す必要性が本当にあったのか……相当無理矢理殺しているようにしか映らなかったが。
 なんにせよ、扱うテーマやガジェットは良かったので、何とも惜しい作品である。

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