読んでいないSFについて懺悔する回【死ぬまでに読みたい本リスト】

執筆:桶屋閉

はじめに

 本の紹介をするにあたって、どうにも気の利いたリストが思い浮かばない。なにか面白そうな題材を思いついても、紹介すべき本を読んでいないという事態に直面してしまうことがしばしばあります。つべこべ言わず気合を入れて読めば良いだけの話なのだが、どうにも力が入らない日もある。私は昨日がそうだった。一日に何冊も本を読める人が羨ましい。
 しかし読んでいない本を紹介するとなれば、これらの問題は全部解決だ。今回限りのインチキのようなものですが、どうか堪忍してください。このリストが新しい本を読む尽きない気力と好奇心を与えてくれることを願って。


・ジョージ・オーウェル『一九八四年』 
 一冊目はオーウェルの『一九八四年』。SF研究会員にもかかわらず読んでいないとは何事だ。読まなきゃまずいよなあと思いつつも、なんとなく手つかずのままになっている本が私には無数にあります。その一つがこの本。
 しかし文庫版(高橋和久訳、ハヤカワepi文庫)の訳者あとがきを見てみると、イギリスにおけるついつい「読んだふり」をしてしまう本の第一位がこの『一九八四年』らしく、その手のつけ難さに定評があることは確かなようです。私もその例に洩れなかっただけなのであって——いいから読め。ハイ。


・ダン・シモンズ『ハイペリオン』
 ハイペリオン4部作の導入部であり、『ハイペリオンの没落』、『エンディミオン』、『エンディミオンの覚醒』へと続く。ヒューゴー賞、ローカス賞、星雲賞など、SFにおける主要な賞を軒並み受賞している骨太のスペースオペラ。
 なにしろ『ハイペリオン』だけでも上下巻あわせて1000ページ近くあるのだ。長門有希が読んでいたこともあって随分昔に挑戦したのだが挫折してしまった。このリストに書くことで再挑戦への布石にしていきたい。
(ちなみに、角川書店発行のライトノベル雑誌『ザ・スニーカー』ではかつて、長門が選んだおすすめの本100冊が掲載されたことがある。SFからはイーガンの『順列都市』、ミステリではそのページ数の多さから弁当箱本とも呼ばれる京極夏彦『魍魎の匣』がおすすめされているが……、むむ……どちらも読んでいないぞ。
 ほかにもラヴクラフトのクトゥルフ神話、たいていの文学史でまず最初に紹介されるホメロスの『イリアス』、そして読破しただけで自慢できるであろう『失われた時を求めて』などがリストアップされており、長門の読書範囲の広さが伺える。長門のおすすめ本リストを片手に、次々と本を読破していくのもまた楽しいかもしれない)


・トルストイ『戦争と平和』
 もはやSFでもなんでもないような気がするけれども、アメリカの作家ヴォネガットの言によればトルストイをSF作家の仲間に引き入れようとする人々もかつてはいたようだ。実際なんでもSFだということにしてしまうのは我々の悪い癖でありますが、新しい視点を導入することで古典を新鮮に読めるという利点もあるでしょう。いずれにせよSFかどうかとは関係なく、『戦争と平和』の重要さと長大さは一目瞭然。まず抄訳から読んでみるというのも一つの手。


・その他の世界文学
 ロシア以外の世界文学を挙げるなら(こちらも無数にありますが)、アイルランドからジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』、ドイツのムージル『特性のない男』、先ほど挙げたフランスのプルースト『失われた時を求めて』、アメリカのピンチョン『重力の虹』、ラテンアメリカからガルシア・マルケス『百年の孤独』といったところでしょうか。20世紀以降の世界文学は難解なものが多くなりますね。特に『フィネガンズ・ウェイク』は翻訳を試みる事自体が偉業のような小説で、言語表現の限界を我々に体験させてくれる。
 日本の小説だと戦後文学が(私を含んで)多くの挫折者を生み出しているようだ。野間宏『青年の環』、大西巨人『神聖喜劇』、埴谷雄高『死霊』などなど。『死霊』は当研究会の会誌『HORIZM36』にて、ある会員が選ぶベストSFランキングの第二位として挙げられていた。現実との対決という『死霊』のテーマが、フィリップ・K・ディックの描くSF世界に通じるものがあるのだとか。俄然興味が湧いてくる。

……こうして未読の気になる本ばかりが増えていくわけです。なにしろ本を一冊読んでいる中でもそこで複数の本が言及されたりしていて更に気になってしまったりするものだから、あれよあれよという間に脳内積読リストは指数関数的に増大していってしまう。際限なく増幅する積読リストはマゾヒズム的快楽を我々に与えるが、時に精神的な負担となることもあるだろう。こうした自らに対する読書圧力が行き過ぎて読書の楽しみが損なわれてしまったなら、それは本末転倒というもの。また、過度な教養主義の押し付けも不和の基になりかねない。


・『宇宙英雄ペリー・ローダン』シリーズ
 そこで、『宇宙英雄ペリー・ローダン』シリーズ。世界最長のスペースオペラ小説シリーズとして知られるこの作品は、1961年にドイツで刊行され、現在もヘフトと呼ばれる複数作家のリレー小冊子の形で毎週発行されている。今年3月9日時点で3212巻目が発売されるそうだ。3212巻!!
 この巨大なシリーズの前ではいくら教養主義の人間でも謙虚にならざるを得ないだろう。人間は全ての本を読むことはできないのだ。とはいっても、ペリー・ローダンの過激な教養主義者がいるならば是非会ってみたいような気もする。このシリーズを全て読破している人もこの世界のどこかにはいるんだよな……。
 日本でもドイツ語版ヘフト2巻を1冊にする形で翻訳が出版されていて、今年3月末には685巻目(ヘフト版で換算すると1369巻および1370巻)となる『ストレンジネス狂詩曲』が早川書房から発売予定とのこと。
 とにもかくにもまず一冊目を読んでみたいと思いつつ、シリーズ全体の膨大さにしり込みしてしまう作品。しかしこの膨大さという現実の前で、観念的な読書圧力といったものは消し飛んでしまうことだろう。


・ヘンリー・ダーガー『非現実の王国で』
 1万5000ページ以上のテキストと300枚以上の挿絵からなるこの作品を、ヘンリー・ダーガーは19歳の時から60年間、誰にも知られることなく制作し続けた。正式には『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ・アンジェリニアン戦争の嵐の物語』。
 これもまた読むことが難しい。その長大さゆえに、そもそもテキスト全文の刊行がなされていないのである。オリジナルはニューヨーク近代美術館などに所蔵されおり、美術館のアーカイブから一部の挿絵を閲覧することが可能だ。また、抄出版の日本語訳も出版されている。このあたりになるともはや気合で読める云々の話ではない。


・ヴォイニッチ写本
 どこか『非現実の王国で』とも似た雰囲気を持つ、解読不能の写本。イェール大学がデジタルデータで公開しているため、こちらを読むことは比較的簡単——理解できるかどうかはさておき。2ちゃんねるやオカルトサイトで大変人気となったこの本だが、実は慶応大学が複製本を所有しており、ときどき三田の図書館でお目にかかることができる。


・アリストテレス『詩学』第二巻
 『詩学』のなかで喜劇を扱ったとされるこの文書については、死ぬまでに読みたいというよりもむしろ、死ぬまでに見つかってほしいと言った方が良さそうだ。というのも既に散逸してしまっているからである。本当に存在したかどうかも定かでない伝説の本。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』で重要アイテムとして登場する(らしい)など、小説でしばしば言及されることがある。
 ほかにもシェイクスピア『恋の骨折り甲斐』、『源氏物語』より「輝く日の宮」の巻、デモクリトスの著作集などもまた、その存在だけが言い伝えられている。見つかって欲しいと願うばかりであるが、こういった逸書・逸文は挙げ始めると終わりがない。そもそも散逸していていながら、かつ本の名前が伝わっていること自体が珍しいといえるだろう。アレクサンドリア図書館に一体どんな著作物が収蔵されていたか、我々はほとんど知らない。


・キルゴア・トラウトのSF小説
 こちらは存在しない架空の作家による、存在しない架空の小説。
 キルゴア・トラウトはアメリカの作家ヴォネガットの小説にたびたび登場するSF作家である。数多くのSF長編・短編を出版しているにもかかわらず無名の老人で、彼の作品は物語の中であらすじのみ紹介されることが多い。そしてそのどれもが興味をそそる内容だ。(ちなみに村上春樹『風の歌を聴け』に登場するデレク・ハートフィールドとその作品もまた架空のものであるが、ここにはトラウトの造形が多少なりとも影響しているのだろう)
 驚くべきことに、『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』のなかでトラウト作として登場する小説、『貝殻の上のヴィーナス』は現実に発売されている。名義もキルゴア・トラウトとなっているが、実際にはSF作家のフィリップ・ホセ・ファーマーによるものだ。裏表紙にはトラウトと思わしき顔写真も添えられていてかなり本格的だったそう。


・スタニスワフ・レム『完全な真空』
 他に存在しない本として思い当たるのは、スタニスワフ・レムによる架空の本についての書評集『完全な真空』だろうか。作品内でレムによって述べられる「あらゆる書物は、それが押しのけ、滅ぼしてしまった無数のほかの書物の墓である」という文言はあまりにもかっこいい。こちらは本が存在しないことに作品の意義があるため、もし読むことができたとしたら元も子もなくなってしまうだろう。そういう本も存在する(しない)。


・バベルの図書館(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「バベルの図書館」より)
 そして「存在する書物によって押しのけられた無数の書物」のすべては、存在するすべての書物とともに、この図書館に所蔵されている。これまで紹介したすべての本もまたバベルの図書館のどこかに存在するだろう。しかしそれらを見つけることができるかどうかについてはまた別の話だ。ボルヘス「バベルの図書館」に登場するこの際限の無い図書館では、我々が意味を見出すことのできる文字列を持つ本の方が圧倒的に少ない。
 ボルヘスの作品には興味深い架空の本もまた、いくつか登場する。例えば「砂の本」という短編では、まるで砂のように始まりなけれなければ終わりもない、無限のページを持つ本について語られる。ページの厚さは限りなく薄く、一度ページを閉じてしまったらもう二度と同じページに出会うことはない。


おわりに
 これまで「死ぬまでに読みたい本」として様々な本を取り上げたけれども、最後の方は死んでも読めない本になってしまった。しかしそれもまた本が生み出す面白さだろう。とはいえ、これまで取り上げた本を何も読まないまま終わってしまうのもなんだかもったいないので、記事の最初で紹介したオーウェル『一九八四年』をこれから読み、そして記事を終わりたいと思う。


……読書中……
(なお、今回私が読んだのは
ジョージ・オーウェル,『一九八四年[新訳版]』,(高橋和久訳),ハヤカワepi文庫,2009年)


 読了。結論から言うと、古典(と言って良いと思う)の力強さを改めて感じることができる、素晴らしい読書体験だった。
 『一九八四年』における作り込まれたディストピアの社会構造や人物造形はそれ自体驚嘆すべきものでありつつも、同時に読者を限りなく重苦しい気分にさせる。その原因の一つは、『一九八四年』の世界と現実社会とがどこかで地続きになっていると私たちが感じざるを得ないことにあるのかもしれない。作品全体に濃く漂う暗さは物語の進行とともに深まっていくばかりだが、しかしだからこそ、少ないけれども途切れる事無く描写される、人々の活力や主人公の少年時代の幸福な記憶がより一層輝き、読者にたいして希望を暗示しているように見えた。
 いずれにしろ素晴らしい。現在わたくしは大変高揚しております。そうした気分の中では読書リストの義務感や圧力といったものは、読んでいない本が無数にあることにたいする喜びへと一変してしまうものだ。



[慶応SF研究会は週に二度の読書会を行っています。SFに限らずともおすすめの本・漫画・アニメ・映画を紹介したり、一人だと読み切れないと感じている本を一緒に読んだりすることもできます。その他学外活動などもしているので、興味のある方はいつでもtwitter(@keio_sf)までご連絡ください]

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