人生は創造の連続

創造しない人間は、誰かに使われ歯車となるだけ。
本日の内容は以上。以下私の考えをだらだらと述べる。

まず、前提条件として、誰しも人間は創造性を有していると私は思う。これはどんなささいなことでもいい。例えば料理をするにしたって、既知の調理法でもレシピを完全にコピーしたものでない限りは、必ずどこかで自分のアレンジが加わる。「このレシピだと味が濃いから塩の量を半分にしよう」などである。これは創造と言えると思う。

仕事であろうが、プライベートであろうが、このようなささいな創造を多くの人がたくさんしていると思う。まったくしていない、という人がいるならば教えてほしい。個人的に、今までどんな人生を歩んできたのか、どんな人生観なのか、気になる。

それはさておき、人間は創造主タイプとそうでないタイプに分かれる。カタカナでいうと「クリエイター」だろう。クリエイターの人はそうでないタイプの人と比べて芸術的観点からして圧倒的に「創造」のレベルが違う。その分野においてのセンスが違う。「スキル」という意味での創造力は多くの時間をかければ誰しも均等に得られる。しかしセンスだけは違う。どんなに時間をかけても凡人にはあるレベルで成長が止まってしまう。

多くの人は私を含め、圧倒的にそれにかける時間が足りていない。「創造」は誰にでもできるが「クリエイター」レベルの創造は圧倒的に時間をかけた者のみが到達できる領域である。先に凡人にはあるレベルで成長が止まってしまうと述べたが、とはいえ凡人でも「クリエイター」レベルまで到達することは可能であると思う。その頂を目指すとなると、「センス」が必要になるので凡人には無理というだけの話である。

「私にはセンスがない、創造する意味なんてない」と言って、ささいな創造すらやめてしまうと「生きる意味とは」という問いが生まれてしまう。凡人であろうが創造はするべきだ。もしかしたらその創造がいつか誰かのためになるかもしれない。創造の繰り返しから自身の何かしらの「クリエイター」能力が開花するかもしれない。

人生は創造の連続。私はまだ「クリエイター」能力はない。その能力探しの旅の途中である。少なくとも誰かに使われる歯車だけの存在にはなりたくないと今日も創造を繰り返す。文章を生み出すこの行為であっても、私の10年前は、日本語的な意味がわからない、そもそも1000文字に2時間かかる、みたいな感じであった。それが今では30分もしないで作り出すことができる。これは昔から少しでも文章を作り続けていたから身についた能力である。そんな創造の連続の結果の一例を上げて、今回は筆を置くこととする。

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