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小説「女姿三四郎と呼ばれた巡査」4

4 昇任するしかない
 
 術科(柔道)担当の向田(係長=警部補)は、昼食後術科の部屋に花菜はなを招き入れた。さっき食事していると食堂に花菜の姿があったので呼んだのだった。
「どや、最近。元気でやってんのか?」
「はい!」と元気良い返事をして向田を喜ばせようとしたが、元気一杯のいつもの花菜なら身体中に歓びの感情が漲っているのを向田は知っているから、「ま座れ」と自分の前の椅子に座るように花菜に促す。向田は続けて言う。「お前がイジメを受けているくらいおれの耳に入ってる。相手は同じ係でも先輩やろ、お前も悩ましいのう。」花菜は黙って俯いている。そして「ある程度先輩は絶対のものやから辛抱せなあかんけど、ま後でゆっくり話す。おれらの頃は、警察はキツイ、キタナイ、キケンと三拍子揃って3Kの職場って決まってたもんや。先輩は絶対王者みたいに君臨しててな、巡査長やのに巡査部長の主任より権限持ってる感じやったから、もう昇任して部長になるしかないと踏んでた時期があったわ。その先輩からはおれ達に、士農工商のずっと下にバッタがいて、その下に300(サンビャク)があるんやと教えられたもんや。奈良県警やったら09やけど、つまりおれ達PMは社会の最下層やからどんだけひどい扱い受けても文句言うなっちゅうことを教えてたんやな。そやから言うんやないけど、お前も心の中で『チクショー』って思うんやったらな、もう昇任するしかない、というおれの話やけど、どう思う?お前は」
 花菜はしばらく俯いていたが、ようやく顔を上げて向田の顔をマジマジ見た。そして言った。「私、大学時代に、高校までのガムシャラな柔道人生とは違うものを見つけたんですよ。それを警察に入って生かそうと思ったのも事実です。科捜研か鑑識が自分には合っているんやないかって今は考えてます」そこまで言うと、花菜の目が涙に曇って見えなくなり、また俯いてしまった。向田は花菜のそういった心根を痛いほど分かるから、そっと頭を撫でた。「こんなことしたからって、セクハラで訴えるんじゃねえぞ。ほんまは抱きしめてやりたいの我慢してるんやからな」ようやく花菜が顔をもたげて少し笑顔を作って涙を拭いた。
 向田がそんな花菜に向けて話を続ける。「明日本部に行く用事があるから早速必要な参考書、地下で見てくるわ」
 大阪府警察本部の地下には日本一安全なコンビニ「ファミリーマート大阪府警察本部店」があり、図書や文具類はその隣の売店で扱っている。
「あとは新地に夕方飲みに行くからアバンザのジュンク堂本店でも覗いてくるから楽しみにしとけ。それから序でにお前だけに言うとくけどなこの際に。オフレコやで、これ。昔おれが巡査の時には、おれもあんまり褒められた人間ちゃうから、名誉挽回そら一生懸命仕事してたんやけどな。ある時近大の近くで2ケツ(定員外乗車)の原付運転を見つけたんよ。結局逃げられたんやけどな、後でナンバーから照合して奈良県の大和郡山市の本人の名前が割れて連絡することが出来て、本人を呼び出そうとしてた」
 花菜は向田の話を真剣に聞いていて、その後の顛末を促した。「その日の夕方上小阪派出所の二階で休憩している時やったかな。当時はまだ交番は派出所って呼ばれてた。電話がかかってきたから直ぐに受話器取ったら、何と署長からやった。『署長やけどな。今日君は取り締まりをしていたらしいけど、二人乗りの違反の件。それわしに任せてくれるかな』それだけやった。はいと言うしかないわな。直ぐに下に降りて、先輩に今署長から電話が入りまして。さっきの違反の件、わしに任せてくれるかなですって。どう言う意味ですかね、と聞いたら先輩、その通りやろ、って返事が返ってきたわ。分かると思うけど、部下が一生懸命働いて、その中で捕まえた違反や。それをボツにすると言うんは、別の言い方したら証拠隠滅図るんとたがわん。それに大阪府民やないにしても、それをそのガキが奈良県で友達とか言いふらさんとも限らん。つまりそういうことをするのは違反者本人にとっても、警察にとってもよくない、両方の意味で問題になるね。おれは巡査の時に抱いた気持ちをずっと今でも忘れんと胸の中に閉まっとる。もちろんそれから昇任してから方面隊でパトカー乗ってた時にも、また捜査一課の時にもそうや。しかし巡査の時には不正をすることに結局同意したんやからな。またそうせざるを得なかったし、そうさせたんも罪な話やわな。前途有望な若い巡査にとってもそれは問題があったろうし、今警部補になって思うところは、自分なら絶対そういう不正を聞いたら直談判するつもりや、仕事を賭しても。中々簡単に言うけど、仕事を賭してまでそういった不正を糾弾きゅうだんしたり出来んもんや。特に家族がいた時にはな。当時まだ成り立ての巡査の自分にも出来ん相談やった。組織は守りに転じるからな。一巡査の進言とか意見とか消されるだけやから。それは係長になって世帯を持ってももっと進言しにくいことなんやろうと思う」
 花菜は、向田の話を聞いているうちに、今の自分のちっぽけな悩みなんて小さく、恥ずかしい気持ちになった。世間にはもっと命を賭してまで戦う人や、少し前の話にはなるけど、西成署で女性警察官がサポート詐欺の片棒を担いだと佐賀県警に逮捕されるという前代未聞の事件が起きている。花菜は自分も同じ柔道をやってきただけに、どこかで彼女の歯車に狂いが生じて自分の思いとは違う変な方向に行ってしまったんじゃないかと、どうしても考えてしまうのだった。その人はそんなことを最初から意図したんじゃないって。
 
 あくる日から花菜は、不思議なことではあるが、明るく「ご苦労様です」という声が、誰に対しても自然に出てくるようになった。そして率先して早く署に出て掃除をするようになった。嫌がるような事でも積極的になることで自分を変えていこうと思った。道場だけでなくトイレ掃除もした。
 一週間ばかりしたある日、また向田に術科指導の部屋(錬成室とも呼ばれている)に呼ばれた。向田の机の上にはたくさんの本が並べられていた。「お前、まずどれから読む?」と向田が言う。「え?これ全部ですか?」と花菜は感想を漏らす。
 「いっぺんにはいかんやろうから、このうちの一冊をまず選んで一冊ずつやれ」とそのうちの一冊を向田が手に取って、「この本はな、ジュンク堂本店にあったものやけどな、本来なら警部補が読むような内容や、『擬律ぎりつ判断ここが境界』。図解してあるからわかりやすいしな。ただ巡査が読んでもあかんことはない。現場で擬律判断するのは非常に難しい。これは事件になるのか、ならんのか。去年の夏改正された性的写真撮影の条文が説明してあるから、新しい」。
 その本を置くと、もう一冊を選んで「この『条文あてはめ刑法』もそれぞれの事案に沿って解説してある。あと『FOCUS刑法』もお薦すすめや。ただ5択の正解がこれはちょっと気になるから、又それはお前に説明せなあかん。あとは新聞読めと署長が今朝朝礼で言ってはったけど、まあそれはネット記事でもいいし、新聞はもうデジタルの時代やし、ただ時事に強く慣れてという意味や。おれの息子は自慢やないけど、新聞一回も見たことない、ネットで全部見れるからが理由らしい。」目をくるくるしている花菜の前で続けて言う。
 「あと『捜索・差押えハンドブック』は第二版になる本やけど、特に二次試験の論文には昔から捜索差押がよく出る。一次にも同じに出る。それほど重要やってこと。逮捕の時には必ずっていいいほど令状によらない差押えが大事やしな。そやからこの、本部にあった『ビジュアル刑訴法』と『ビジュアル刑法』の方が漫画の横で解説してあって…と説明していると、そのビジュアルの方を花菜は選んで手にとってしばらく読んでいた。「これいいですね。」と言いながら「これ借りていいですか?」と向田に断りを言う。「あ、それおれの中古やから上げるわ、刑法、刑訴法両方持ってけ。ま、改正点があるっていっても基本は変わらんから」と手渡す。
 向田は花菜に昇任試験合格の条件について少し解説をはじめた。
「あのな。昇任試験で合否を決めるのは、まず勤評や。勤務評定は主にお前が日々やってる仕事の実績とイコールやな。毎月どれだけ検挙したかとか、交通取締りとかその他の交番の仕事を一人ひとり評価するのには、数字で計れるように本部の地域総務課でソフトを作ってあるから、各署それぞれ個人の実績を入れるようになっている。それがそのまま勤評に今では反映されるようになってるんやけど。それはつまり、組織にどれだけ役立っているかにという目安やわな。上司はそれを見てこいつどれだけ実績をつけてるか見るってこちゃな。勤評の次は上司の受けやけど、その上司の受けは、ほぼこの実績イコールやと考えてもいい。あとは一次の成績や。どれだけ勤評が良くても試験が50満点で30に満たなかったらちょっと厳しいなあ。ただその実績は去年の数字とか年数が活きているから『下駄はく』っていう言葉があるように、人によってある程度足切りが弱くなってるはずや。そやからお前が先輩らと戦うとしたら、50問中40から出来るだけ満点に近づけることやな。40ならおそらく合格や。二次の論文も捨てたもんやないけど、刑訴法は大事やから『捜査手続き』というのが一つの問題としてあるんやな」
 「警務論文は、『士気向上方策』とか『規律の振粛しんしゅく』とか難しい用語が好きやけど、要するに警察官としていかにして自分を律して仕事を進めていくかってことを書くだけや。ただ気つけなあかんのは、決まりきった模範答案を覚えて書いてもいい点数は取れん。自分の今取り組んでいる、悩みながらこう言うふうに改善しながら仕事に取り組んでいますっていうのを、いかに上手く描くことが相手に訴える文章になると思う。わしも当時はそうした、それは合格した警部補試験やったけどな。こんなん言っても忘れたらあかんし、要領も必要やから、一度文章にしてお前にわかるように書いたるわ。それで論文は、一度自分の考えを作って書いてみることが大事やな。添削はするでえ、有料で。
 すると花菜はすかさず「お金取るんですか!」と声を出す。「当たり前やろ、地獄に落ちても、いるのはお金やさかいなお嬢さん」と向田は交わす。
 「あと一つ言い忘れたことがある。それは、多分お前は挫折を知らんと思う。おれは若い時分近畿で慣らしてちょっと天狗になってたんやろうな、全国大会で大敗した。寝技でやられた。おれは投げ技が自分には合うし、それで敵を倒すって決めてたもんや。それを覆された気がしたなその時は。天井向いてしばらく動けんかった。お前も今その挫折を味わってるんかも知れん。人は必ずどっかでつまづく。その時に人はどうやって這い上がっていくか値打ちが問われるんよ。覚えとけ」一方的に話すと向田は部屋を出て行った。
 それから花菜は時間を作って昇任試験の勉強に充てることにすることにした。分からない事は先輩や上司、向田に尋ねた。花菜の目指した昇任試験は、翌年の五月に一次試験を迎えることになった。

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