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小説「ホーチミン・シティ」5

5  再会(10月2日更新)

 島野三郎氏は、終戦後約十年を経て帰還命令が出て帰国。ベトナムでの妻子はそのまま残し、帰国することすら告げずにいたので後ろ髪を引かれる思いであったろう。                                
 出征前日本では独身であったために、残っていた親族は病床の母親(数年で死去)と母方の伯父と父方の叔母だけであった。亡き父親が残した資産は僅かであったが、その山林と小さな製材所を引き継いで生計を繋いできたのだった。その地場が桜井と榛原(はいばら)であり、住み慣れた町は長谷寺に近い場所であった。 ならば長谷寺のある桜井市初瀬を出会いの場とすべきところであるが、彼島野氏が再会として選んだ場所を室生寺としたのは、単に分かりやすい観光地であるというよりも、極力住所地を避けたいとの意向があったからなのだろう。
 遅延していた彼ら一行が約一時間程で到着し、私たちは日本で再会した。夏(なつ)も元気そうだった。グエンは、日本でいえば鈴木のように多い苗字である。    
 私はNguyen Van Hoa のHoaが日本では「和」(わ)であることなどを伝え、彼女を夏と呼ぶように、彼には和(かず)が似合うと考え、そう説明した。しばらく二人の近況を聞いたりして打ち溶け合ってから、ナビの設定に従い、ベトナム人二人を乗せて室生寺を目指した。桜井市からバイパスに乗れば、途中緑なす小山がそこかしこになだらかな稜線を描き、新旧入り混じった瓦葺屋根の住宅が広がっている。ルートは初瀬から山道を辿るが、一山越えれば近鉄大阪線の手前でナビは左折の案内を出し、国道165号線をそのまま榛原へと目指す。ときどき和が窓の外を見ながら声を上げる。赤色の火の見櫓を「あれは何だ」と聞いてきた。それは消防が登り、遠くの火を見るためだと夏(なつ)の通訳を介して説明する。近鉄線を越えれば、室生口までは直ぐで、そこからは山道をひたすら走る。登り坂の途中右側に退避場所があり、ちょうど陰になっていたので一息入れた。山の湧水を飲料水として携帯タンクに入れる人達がいた。私はキャンプ用のマグカップを用意して二人にその水を飲ませた。日本ではどこに行っても自販機で水やジュース等いくらでも飲める国である。しかし山から出る水はそうは飲めない。
 ベトナム人のグエンこと和が最初に訪れた日本の場所が、世界遺産で名高い室生寺であるのは感慨深いことである。室生寺は、奈良県宇陀市にある真言宗の山岳寺院であり、女人高野として知られる。弘法大師の空海の本山である高野山の金剛峯寺へは、かつて女性は近づくこと能わなかったが、ここ室生寺への参詣、修行は許されたと聞く。本尊の釈迦如来は国宝であり、同じく国宝である五重塔は教科書に載るほど有名である。

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(「辰巳家」辺りの景色 Google street view から)

 私たちは道沿いに薬や一刀彫の店などが軒を連ねている中に辰巳家(たつみや)という蕎麦屋を見つけて、そこに車を納めた。店は妻の父である先代が、伊勢湾台風のあった昭和33年に創(はじ)めた、という経緯を店主である主人が話してくれ、丁重にもてなしてくれた。その店で蕎麦を三人で食べることにした。店主は私に車をそのままにして参拝したらいいと言ってくれたので、助かった。そこから奥へしばらく道を歩くと川に架かる太鼓橋があり、寺の入口を入り参詣する。

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 仁王門までに案内所があり、用意していた朱印帳に記帳を頼んで三人で立ち話をしていた。他にも遠いところからわざわざ一人旅をして来たであろう若い女性が一人、夫婦連れが一組、受付横の店で記念になるような土産物を探していた。その時付近の売店の女性が声をかけてきた。私がその女性の案内で売店横の木製の長椅子のところに行く。白地に茶色の格子縞の長袖シャツに濃い灰色のズボンを穿き、幾筋もの皺を浅黒い顔に作った男性が腰を掛けてタオルで噴き出す汗をぬぐっているのが見えた。私が名乗るより早く彼が立ち上がりかけて「島野三郎です」と紹介した。
 矍鑠(かくしゃく)としており、さすが元兵士であると感心した。とても八十七歳には見えなかった。しばらく言葉を交わした後直ぐに私は「和(かず)!」と呼んだが、すでに彼も察知しており、足早に近寄って来た。やっと父親との再会を果たした瞬間であった。島野氏は最初何も語らなかったが、チューリップハット帽を右手に持ちつつ立ち上がった後、息子を抱きしめる手に力が入っていた。今更言い訳は通用しないと思っていただろうし、子供と死ぬまでに会うということも既に諦めていたのだろう。
 私と夏は少し離れたところでしばらく立って見守っていた。蝉の声だけが辺りの静寂をかき消して、時間がとても長く感じられた。朱印帳を受け取り、それを夏に見せると彼女は声を上げて感動し、それを写メに撮る。 
 私がようやく二人を促して、両脇に赤と青の仁王がいる真新しい朱色の山門に入る。庭の奥にあるのは清めの水だと説明する。鎧坂(よろいざか)と呼ばれる石段の両脇には、春には咲き誇る石楠花(しゃくなげ)が茂っているが、木々が覆いかぶさる中、石段をゆっくり上って行く。島野氏はずっと和と一緒だった。十二神将像がいる金堂、更に上ると本堂がある。そこでも朱印帳を預け、中央に座りマニュアルどおりの梵語を唱える。本堂を出て石段へと進むと、石段の上に聳えるように立つ五重塔が映えていた。周囲には杉木立が雨上がりの少し湿った空間の中ですっくと佇立している様は凛々しくもあり厳かでもあった。幹回りは優に三尋(ひろ)か、大きい幹にあっては五尋もある杉もある。

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 やはりここが再会に相応しい場所だと思った。彼がここをその場所として選んだのは意味があったのだということを、室生寺を訪れてはじめて私は理解していた。彼も未だ訪れたことのない、死ぬまでに残しておいた場所なのだそうだ。京都と同じく奈良でも寺院は数多いが、私も初めて訪れる場所だった。奥の院へは、五重塔から石段を登り詰めると、一旦は坂を下り山道に出る。
 羊歯(しだ)が天然記念物と記す案内札を見つつ、見上げれば杉の大木が空を隠すほどに重なり合って天を突いている。岩を掴んで伸びている樹の辺りから石段は急に空へと伸びて、そこを四人が続いて登る。島野さん、和、私そして夏の順番であるが、さすがに元兵士の足はへこたらず堅牢であった。私は時折夏の手を引っ張ったり、上の父子を見上げたりしながら登る。 

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 お堂を支える懸造(かけづく)りと呼ばれる木組みが見える辺りまで来ると、自然に息が荒くなった。もう御影堂(みえいどう)は近い。ここが室生の頂きかとほっとしながら位牌堂を廻ると遠くの山が見渡せるが、車で来た道は森林が景色を覆い隠して隙間からしか覗(み)えない。先客が位牌堂を廻って座っていたので太子堂裏の七重石塔を見落とすところであった。
 奥の院からの帰りは石段をゆっくりと一段一段確かめながら下り、五重塔も見える辺りまで降りると角度が変わればまた趣が違い、しばらく佇んでいると、蝉が辺りの静けさをかき消して風が杉木立を揺する。私たちも草木と同じように風が吹くままに汗ばんだ身体を天に向けて仰ぐと、風に救われたように命が吹き返すような気がした。

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 島野氏が和にベトナム語で「今から四人で食事をしよう」と促し、夏もそれに賛同する。
 室生寺を後にしてからは、島野氏が和を乗せ、私が夏を同乗して向かった先は、桜井市にある彼らが宿泊する予定のホテルであった。そこは丘陵地の上にある緑豊かな場所であるが、歴史はまだ浅い。島野氏がおそらく彼らに問い合わせてホテルが分かり、ホテル側の協力をもらいささやかなウェルカムパーティを設(しつら)えたものらしい。ホテルの大広間は少人数の参加でも卒なくセッティングされており、島野氏のほかに昔の旧友である男性が三人いた。
 私は知らなかったが、彼らの来日に合わせて旧友を呼び寄せていたのだった。ここだと夕食の時間を気にすることなく寛げる。一生に一度とでも云うような少々派手ではあるが心のこもったもてなしが島野氏の発案で行われたことは和だけでなく、他人である夏はじめ私までも感動させられた。


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