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小説「ほんの束の間のこと」 episode.2 ショウエイ その2

 私の幼い記憶の中で、いくつか強烈な印象があって、意味もなく思い出すこともあるが、その商店の上にはいくつか石垣が出来て、幾重にも小さな道が点在している家々を結んでいた。その中には当時のことだから狩猟をする人もいて、その家では大きな犬を何匹も飼っていた。それがポインターという種類だったと思うが、幼い私の当時の小さな体躯に比してかなり大きかったので近寄れば、ライオンや熊くらいの大きさに見え、私は近づくことすらあたわず、その付近は大きな犬がいるということを常に警戒していたものだ。
 その猟師の家の直ぐ上には婆さんが一人住んでいて、親戚でもないのに私はその婆さんの家に上がり込んいた。どこの婆さんも同じようにだいたい腰が曲がり杖なしには歩けないような身体をしていたが、歩くのを止めて一服する時には、石垣に生えた葉っぱに煙草の葉を詰めてゆっくり吸ったりしていた。婆さんの部屋の中を見渡すと、家中、壁から天井に至るまでよくどこの高齢者のうちにもあるようにポスターか新聞や何かが張り詰めてあった。そのうちの数枚には天皇陛下やら皇室の写真やらも混じっていた。
 家のそばには溝(水路)があって幅1メートルに満たないものだったが、飲めるほどのいつも綺麗な水が流れていた。イモリやタガメ、ゲンゴロウなどの水生生物が生息していて水面をミズスマシがスイスイと水上を走っている。草のつるで作ったものを輪にしてイモリをとらえたりしたり、祭りで買ったカエルの形をした緑色の玩具を溝に浮かべて、手に持ったふくらみがあるポンプを押せばカエルの足が勢いよく蹴って前に進んだ。溝の下の川でれたタニシは当時貴重な食糧で、集めたタニシを大きなヤカンに入れて沸かして家族みんなで食べていた。
 ショウエイから百メートルほど上の方、川に烏瓜がまとわり付いた吊橋が架かっていて、そこを通り少し山の麓を上がったところに家があり、婆さんが一人住んでいた。ある日私は母にその婆さんの家に連れて行かれることになった。私がまだ幼く物心もつかない時だったと思う。私は何かきかん気が強くなる年頃だったのか、母が私の「気を切って」その傾向を直すために年頃の子供が恒例にしているまじないを受けた。
 母の記憶によると、上の商店でいつものごとく買い物に行った私が、店主がいないためお金を払わず饅頭まんじゅうか何かを食べたため、母の知るところとなり直ぐにお詫びに行ったらしい。おばさんは「そんなん、いいんやで」と母に言い、そんなことを全くとがめることもなく終わったのであるが、家庭的な不安があると子供は意外な行動を取るものである。そういうことも母には気がかりだったのだろう。 
 母は婆さんに私を見せて、その婆さんが私の左手のてのひらに何かまじないをしていた。それからどうなったか、という記憶はない。ちょうど私の右掌の中央部に小学生の時大きなイボともタコとも分からないデキモノが出来て、時々それを嚙んでいたが、なにせ出来た部位が鼻で邪魔してむに噛めず、そんなことを日々繰り返していたと思うが、いつしか気にしなくなった時分にはそのイボとやらもきれいになくなっていた。不思議なことだが、そんなようなものかも知れない。成長するにつれて私のきかん気も取れていったのだろう。
 その辺の小山は高さ数百メートルくらいのものだろうか、山の高さというのは人々の暮らしと密接な関わりをもっているものらしい。
 山に生息する生き物や植物、森林に至るまで、村に息づく者にとってそれは動かしがたい自然の偉大な創造物なのだった。山から獣たちが降りてきて作物を荒らす。(共存した時代にはなかったことだが)猪も鹿も猿も熊も人がせっかく作った農作物を荒らすので人の敵となってしまっている。人が自然を壊して獣たちの住処すみかを追いやったのも忘れて、獣から作物を守る電機柵を設けている。たぶん今自然を壊したツケを人が払っているのかも知れない。  
 夏はひぐらしが夜中でも鳴く。祖父の家には蚊帳かやってあって、蚊が入らないようにすかさず蚊帳の中に身体を入れると、布団の上で仰向けになってぶら下がった蚊帳の天井部分を何回でも蹴るのが常だった。一晩中途切れることない蜩の鳴き声と遊びつかれた身体が、山の静かな魔力によりいつしか深い眠りに入っていく。
 都会で眠るのとでは全く異質な空間の広がりと深さがある。それは深い森が人間に作用するからだろうが、森に対する人の畏れや死に対する漠然とした諦観などが入り混じって人の環境を支配するのだろうか。
 その祖父方は元々そこから坂を上がった山の中腹にあった。鮎釣りの得意な祖父は、山から引いている自然の水を利用して水槽を拵え、あゆうなぎを捕まえてはそこで飼っていた。黄色い鰻が混じっていたこともあった。狭い畳部屋で私は父の度のきつい眼鏡をかける。畳が斜めになって見え、幼い私は眩暈めまいがして倒れてしまう。
 そこは私が生まれた場所とすでに記したが、叔父おじが国道の反対側に新居を建てると同時に祖父も、大きな納屋もあって何かと便利な叔父が住んでいた屋敷に移った。夜になるとイタチが活動するその納屋の薄暗い部屋の狭い二階が私の気に入った場所で、そこで中学生の夏休みを宿題に費やした。
 元々そこは祖父の兄弟が酒屋を営んでいた商店の一部で、当時は味噌、醤油しょうゆの他何でも扱っていたらしいが、家業を継ぐ者がいなく絶えたらしい。中学三年の時の社会科の先生は、社会の教科書の一ページから最後のページまで出てきた熟語をすべて書き写せという無理な宿題を生徒に出した。なぜ社会の先生が国語の宿題を出すのか疑問だったが、最初は軽い気持ちで何れすぐに終わるからとやっていたが、教科書の真ん中まで進むと、最終ページまではかなりハードな時間であることを、その二階の納屋で一人思い知った。
 ショウエイでの私の幼い記憶の中で、父が母を何か刃物のようなもので追いかけまわしているという情景も長い間私の脳裏から消すことは出来ないものであった。それらは断片的な記憶の中で思い出しては形が合わなかったら放置してしまうパズルのかけらのようなもので、曖昧な記憶のまま死ぬまで父には聞くことはなかった。母に問えばきっと夢でも見たのだと言うに違いない。誰しも壊してしまいたい記憶というものはあるが、父にも周辺の狭すぎる環境から一つや二つ不満を抱え込んでいたに違いない。
 出征した満州での過酷な環境が、人を変えたとも言えるかも知れない。
母によれば若い頃に言い寄られた村の青年がいて、父と結婚するやその兄とやらを使って父に対しいろいろ難癖なんくせを付けてきたらしい。 
 実際私たちが村を離れるまでその酒好きの男が母の周囲に言い寄って来たりしていて、私たち一家が村を離れる一因にもなったらしい。今私が住んでいる一戸建ての家は五十年前に父が買ったもので、当時私たちが住む際には父の仕事の残務整理で、父は単身赴任状態となり、母は町で生活する間しばらく蒸気機関車の汽笛の寂しい音に悩まされることになる。
 ショウエイの家の前には、卵色のラビットというスクーターが止まっていた。それは父が役場に乗っていくための足であった。スクーターはそのうち何時しか黒色の二気筒の単車に変わっていた。
 時々父は私を単車に乗せて走る。道沿いには山から樹を架線かせんで運ばれた材木が熟練の日焼けした職人の手でトラックに積まれている。学校が終わって、幼い私が一人でランドセルを背負い役場の木の階段を上がり父の執務室に行き、そこで父と合流して帰りはよく単車で一緒に帰ったものだった。当時のことだからヘルメットは着用していなかった。
 家路に向かう道中いつしか進路に太陽が同じ位置で現れ、木々に覆われては消え、また現れる、そんな不思議な景色の中で風を受けながら私は後部座席に乗っかっていた。
 父は私にある場所を通る際には決まって声を張り上げて言う。「まんまいちゃん!」。それは地区のお地蔵さまが川向うに祀ってある場所辺りの道路を通るときであった。太陽がいつまでも私たちを追いかけてきて、風が包むように髪を撫で、「まんまいちゃん」と呼ばれるお地蔵さまも私達を見守ってくれていた。
小学校の近くに転居するまでは数キロの道のりを重い鞄を背負って歩いて通学していた。台風の日でも連絡網とてない時代のことだから、学校に着いてはじめて休校を知る程だった。しかしそのお蔭か私は六年間皆勤で通すことが出来た。私が自慢になることはそれだけだった。

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