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「出来ごころ」は「絆」に溢れてる(総括)

2023年11月12日22時にそれは始まった。

東京国際映画祭2023、WOWOWのオンデマンドで観た「出来ごころ」がとうとうWOWOWにて放送されたのだ。

この日は無料放送!
加入していなくても観られる!!

いかほどの方が観られたかは知る由もないが、再放送(11/14(火)午前0:00、11/19(日)午前9:00、12/2(土)午前11:00、12/11(月)午後0:00、以上WOWOWプライムのみだが、このほかに4Kもある)も、オンデマンドもある今作。
この無料放送である初回に「出来ごころ」を持ってきたWOWOWに、「OZU」シリーズ(全6話)にかける意気込みを感じた。

ちょっと!観ないと損するで!!

というくらいの秀作!!

企画はWOWOW。

小津安二郎生誕120年記念!世界に誇る小津監督の初期サイレント映画6作をリメイク。田中圭、柄本佑、前田敦子、成田凌、石橋静河、中川大志出演のオムニバスドラマ。

WOWOWより引用

とあるように、小津安二郎生誕120年記念なのだ。

「出来ごころ」のあらすじはこう。

酒やばくちに目がなく妻に逃げられた喜八(田中圭)は相棒の次郎(渡邊圭祐)と同じ工場で働きながら、息子の富夫(森優理斗)と暮らしていた。ある日、喜八は町に流れ着いてきた春江(白石聖)にひと目惚れ。春江はおとめ(渡辺真起子)の切り盛りする食堂を手伝い始め、喜八は春江への想いを募らせていく。富夫のためにも春江に告白しようと決意する喜八であったが、一方の春江は次郎に想いを寄せていた。

WOWOWより引用


私が、映画祭、オンデマンドと観てから本家小津監督のを観て思ったこと。

それは、この作品は小津監督の喜劇の部分にプラスアルファをした城定監督の極上の作品だな、ということ。

そして最後のシーンの違い。
小津監督は笑いながら富坊に会いに行く喜八に、城定監督はむせび泣くかのように抱き合う喜八に仕上げた。更に日常を取り戻した二人を映し出した。

最後のシーンの違いもさることながら、城定監督のプラスアルファ要素が素晴らしい!!
さらに、城定監督ならではの映像美もある。
この映画がつくられた当時ではできなかったカラーの時代ならでは、だ。

なかでも私は各所にちりばめられた「絆」に焦点をあてたくなる。

まず圧倒的な絆

それはやはり、基本的にパチンコ、お酒が大好きな、お調子者で、惚れっぽい、でも自分のことより他人のことを思う喜八と、賢くてしっかり者の喜八の息子の富坊との親子の絆

そう、二人にはとっても強い絆がある!!
だから私たちはこの二人に魅せられてしまう。

「お母さんいるか?」
と、酔っ払った喜八は惚れた春江のことを何気なく富坊に聞く。

こう聞かれた時の富坊の心の機微を表すため、城定監督は、1000円もすると言っていた詐欺まがいの玩具にさえも投影しているように思う。

富坊自身がニセモノとわかっていたのに買ったこの玩具。
その人形は喜八の姿に変えられてる。
富坊の父ちゃんへの愛が溢れているところだろう。
これを見て喜ぶ喜八の笑顔もまた印象的だ。

田中圭という役者は人懐っこい役を生きるのも上手い。だからこそ、この普通に考えればダメ親父でも、喜八なら仕方ないなぁと思わせる。
劇中の周りの人にも、視聴者である私たちにも。

そして、わざわざ父ちゃんを描いてくれた、その喜びにあふれた笑顔を喜八は見せる。

余談だが、つい最近のこと。
金沢の「中島」という和菓子屋さんの栗きんつばが大好きな母。
先日某デパートの入口に、金沢で有名な「中田屋」さんの栗きんつばが売られていた。ここのは通常のきんつばしか食べたことがなかったので、栗きんつばが売っている!と、母の顔を頭の中に描きながら私は買って帰った。

この時の富坊も、私と同じように、きっと喜八のことを思って、このなんのへんてつもない人形を、一生懸命大好きな喜八に仕立てたに違いない。

そして、富坊がこの玩具と一緒に飛び跳ねることで、父ちゃんがいない時間も二人で遊んでいる気持ちになれたのではないだろうか。
だから富坊は人形と飛びながら嬉しそうにしているところを、帰ってきた喜八に見せたのだろうと思う。

愛しいよ、富坊。

そして先ほどの父からの問い。
何気なく聞かれたのを真剣に捉える富坊。
それは喜八の性格を知ってるから。
惚れっぽいことを知ってるから。

富坊には喜八さえいればいい。
2人の絆の中に他人はいらない。

だから、喜八に問われた時、遊んでいた人形がパタッと倒れる。

この表現が好き。

富坊の魂を人形に吹き込んでいるからこそ人形は倒れる。
と、私には思えた。

それは富坊が人形から糸を離したからなのだが、人形があることで「心」という本来実態のないものを映像として見せている。
だから余計富坊の寂しさが伝わってくるのではないだろうか。

結局喜八の恋は勘違い(春江は喜八の相棒の次郎が好き)ということで終焉を迎えるが、ここも毎回書くように大好きなシーン。

喜八は一生懸命キメまくって、床屋にまで行って春江が働く食堂に出向く。
薔薇まで買って。

この喜八の勘違い妄想シーンを城定監督はサイレント映画とし、文字を入れ込んでいる。これは城定監督の小津監督へのオマージュであり、面白さを誘う部分でもある。
城定監督の秀逸さが出ていると感じた

初回に観た時には笑ってしまった。
ここ、妄想だったんかーい!と。
だってその後すぐカラー画面に戻り、リアルな世界となるから。
喜八の勘違いと分かるから。

このサイレントはもう一つのシーンで使われているが、そこもまた肝となるところ。
なぜ春江が次郎に惚れたか。
このシーンで使われている。

この二カ所だけ、城定監督はサイレント映画とした。
多用したならば活きなかったはず。
ここぞ、というところで使うところが憎いし、さすがという思いだ。


そして二つ目の絆

それは喜八と相棒の次郎だ。

2人はとても仲が良い。長年連れ添ってきた夫婦のような関係だ。
近づきすぎず、離れすぎず。
適度な距離を保ちつつ、お互いを思いやっている。
だから喜八は自分の恋心をあっさりと捨て、春江の恋心を優先する。
次郎に幸せになって欲しいという思いもある。

これは役を生きた田中圭にも通じるが、喜八という男は自分のことより他人(ほか)を優先させる。優しい心持の男なのだ。

「まだ女はダメなのか」
と聞くところにそれは表れていると思う。
幸せになって欲しいと願っているのだろう。
次郎にも春江にも。

だから2人が無事結ばれた時は自分のことのように喜ぶ。
長年の女嫌い(前妻に逃げられたことからくる)を知っているからこそ、喜八は喜んだ。
自分が好きだったはずなのに、素直に喜ぶ喜八にとても好感が持てる。

こういうところに喜八の人間性が表れていると思うし、こういうダメ男だけどそれだけに終わらせない、田中圭という役者の素晴らしさを改めて喜八に見る。


三つ目の絆。それは弟との絆だ。

「ラブストーリーは突然に」という小田和正氏の歌があったが、一つの転機は突然やってきた。

病気になった富坊を喜八の弟が養子にするという。

弟は妻と共に不妊治療をしてきた。
それほどに子供を欲しがっている。
その治療を諦めた。

子供が欲しい弟夫妻にとって、どれほどの想いがあって諦めたことだろう。

そこで、だ。

弟は兄の喜八に、富坊を自分なら何不自由なく育てられるから養子に欲しいと乞う。

喜八を助けたいという弟の想い。
富坊を助けたいという弟の想い。
どちらも弟の紛れもない本心だろう。

兄の喜八を思うからこそ、富坊を思うからこそ出た「養子に欲しい」。
私はここにも絆を見る。
単に喜八から富坊を奪うのではない。
最善の策は何なのか、を弟なりに考えてのことなのだと思うから。

対して、喜八は一度は拒む。
なにしろ富坊のことを心底愛している。
おいそれと「はい」とは言えない。

ただ、お金がないという現実は抗いようもなく喜八を襲う

いつの世も、お金というものはつきまとうものだ。
あれば即幸せではない。この弟のように。
ただ、あって損は無いし、あるに越したことはないのも事実。

弟の提案を断った翌日の、喜八が叩く「トントントン」という作業音が物悲しく職場に響いていた。
無機質に。

ずっと頭の中で富坊のことを考えていたはずだ。だからこそ、この単調なリズムとして表れていたんだと思うし、監督はこの部分を差し込んだのではないだろうか。

なにが富坊にとっていいのか。
自分より相手を思う喜八。
富坊に負けなくらい喜八も富坊が大好きだもの。
富坊を第一に考えたら弟に託した方が良い。

だから自分よりどうすれば富坊にとって一番いいのか、を考えていたのだと思う。

自分にはパチンコでしかお金を増やすことができない。
だからといって、そこに行ったところでお金が増える訳ではない。


こうして出てきてしまった「出来ごころ」


喜八は弟に富坊を養子に出す決心をする。
弟もまた、大事に育てる決意を固める。
兄弟だからこそ、だと思う。

信頼という絆が無ければ成り立たない。

本家の小津監督は食堂屋さんの女将さんに富坊を預けた
そこを城定監督は弟を登場させることにより、より富坊を大事に想う二人という世界が描かれたのではないだろうか。


四つ目は風船がもたらす親子の絆だ。

風船は最初の方の、人形を子供たちに見せるシーンでも使われていた。
この場所を偶然喜八が通りかかる。
すると、赤い風船が飛んでいく。
柵には、赤、青、黄と色とりどりの風船があるにもかかわらず、飛んで行ったのは赤い風船。

「赤」

私はこの色が血になぞられているように感じた
親子は当然ながら血の繋がりが深い。

そんな赤い風船が柵からふわりと飛んで行った。

正に、喜八の手から富坊が手放されたように。

そして喜八は呆然とその風船を見上げ、覚醒する。
覚醒という言葉が正しいかは分からない。
ただ、この飛んで行った風船が高く高く舞い上がって二度と戻ってこない、その様に、富坊を思い重ねたことだろう。

と、同時に、弟に連れられた富坊も車の中からこの赤い風船を見つめる。そして窓から少し顔を出して更に見つめる。

二人が同時に見つめる先には、喜八が想う富坊、富坊が想う喜八がいたことだろう。

だからこそ、二人は走り出す。

本当のクライマックスだ。

ここは長回しという手段をとった監督。
田中圭はもっとコマ割りをすると思ってたという。

だが、この長回しだからこそ、喜八の富坊への想いが強く表れていた。

喜八の上がる息遣い。
途中咳き込むことすらある。

だが、ただ走るのが苦しいからではないはないはずだ。
早くこの手で富坊を抱きしめたい。
俺はなんてことをしたんだ。
待ってくれ、行かないでくれ。

この息遣いは、そんな悲痛な叫びに聞こえた。

とある方のツイで知ったがこの走り続けた距離はなんと170mあるという。

そこを時に膝を抱えながら、一呼吸おきながら、時に少し歩き、一気に走るを繰り返す喜八。
もう一度言おう。
息遣いは疲れからではなく、富坊にいかに会いたかったか、後悔したかの表れなのだと思えてならない。

大通りに出た瞬間、喜八はとうとう転んでしまう。
大通りにはバスが通る。
だからこそ、ここまで来たという緊張の糸が解けたと同時に、疲労により喜八の足が限界だったのだろう。

170mの距離を走り抜けた喜八。
思いの分だけ走り抜けた喜八。
「俺は何やってるんだ今更、ちきしょう」という言葉が全てだ。

その大通り。

やってくるバス。
と同時に喜八は立ち上がる。
そしてバスを見つめる。

このバスは東京へと繋がる道を走ってきたものだ。
なぜなら、東京から来た春江がこのバスに乗って来たのだから。

喜八が立ち上がったのは、もしかしたら一縷の望みがあったのかもしれない。
あのバスに富坊が乗っていたらという願いもあったのかもしれない。
喜八の息上がる背中がそう感じさせた。

去ったバスの後に残されている富坊。いつものようにおどけている。
まるで喜八に、日常を戻してあげるかのようだ。
なんてことないよ、とでもいうように。

賢い富坊がなにも感じずに喜八の弟の車に乗ったとも思えない。
それはボーっと車窓から外を眺める姿にも感じられた。
だからといって、喜八を責めない。
父ちゃん、ほら。
というように、普通におどけてみせるのだ。

赤い風船。
何よりも濃い血の繋がり。

これが二人をまた出会わせてくれた。

抱きしめ合う様は、本当に感動的だ。

ギュッと絡めた富坊の足が父ちゃんとは二度と離れないと物語っていた。
喜八もまた、富坊をギュッと抱きしめる。
この時の田中圭の大きな手がまた活かされてる。
ギュッ富坊の頭を大きな手で包むのだから。

そして次のカットでは何事もなかったかのように二人は浜辺を歩く。
日常が戻ってきた瞬間であり、永遠に二人で生きていく証のようにも思えた。

この作品は様々な絆がある。
これまで書いてきた他にも、喜八を取り囲む周囲の喜八親子を見守る絆、春江と次郎の絆もある。

当然絆には「愛」がある

ゆえに、このドラマは愛にあふれた親子の物語になっているのだ
周りにも愛された親子の物語でもあるのだ。

喜八の言葉を借りて言うならうやっぱり締めはこの言葉しかない。

「よくできてやがら。」

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