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シリアについて思うこと

今週、シリアについてお話しする機会があった。

いまのシリアのことをお話ししたり、呟いたりするときに、彼らを「かわいそうな人」としないことを心掛けている。

ある特定の場所、あるいはある特定の一時の人を「かわいそうな人」と印象付けてしまったら、ほかの人は?爆撃が止んだあとの人は?ほかの地域の人は?と、”比較”されてしまう気がするから。

どこに住んでいても、シリア国内でもシリア国外でも、キャンプでも壊れた家でも壁や屋根のある家でもどこでも、いまこの空の下で生きているシリアの人、シリアにルーツのある人は、何らかのかたちで傷を負い、痛みや悲しみを抱えていると思うから。

戦渦のとき、国外で働いていた友人は、国内いる家族に安否確認の電話しかできないと、呟いていた。

爆撃が止んで屋根も壁もある家に住んで、職があっても、笑っていても、経験した戦闘と分からない”事実”が傷となり、痛みを抱えている友人もいる。そしてまた、同じ国で続く戦闘に、心を痛めている。

いまどんな状態にあろうとも、そこに生きる人たちの命の価値は同じ。価値、と表現するのさえ適切でないかもしれない。

そして何よりも、シリアの人たちは、とても美しく、強い人たちだから。

「かわいそうな人」と思わせてしまうと、自分と相手に距離や上下関係みたいなものができてしまう。少しでも対等に、身近に感じられるように、それは避けたい。

そして、彼らは「かわいそうな人」ではないとも、思うから。

どのような困難でも、隣人を温かく迎える。前を向き、たとえ痛みを抱えながらも、いまを生きようとする。とても美しい、強さを持った人たちだと思う。


もちろん、人道危機については関心をもってほしいので、なるべく事実や当事者の言葉を呟き、個人的な感情は入れないようにしている。客観的に、呟くこと。私はアウトサイダーであり、彼らの声を、彼らの存在を主体にしたいという思いがあるからかもしれない。


もうひとつ、気を付けていることがある。それは、悲惨なシリアだけではなく、いまも続く美しいシリア、人の営みも伝えたい、ということ。

もちろん、瓦礫で悲惨な光景がある。けれどその中で、人々は生活を営み、シリアの文化や歴史を紡いでいる。

壊れた町の中に、かつての美しいシリアが残っている、ある10代の女の子がそう教えてくれた。

もともとの長い歴史が残る、美しいシリアのことも知ってほしいから、そして戦闘が落ち着いた後、生活を再建しようと奮闘する人々は、シリアの未来をつくろうとしているから、一見、戦闘があったのかと分からなくなるような残された自然や建物、人の賑わいも、伝えたいと思う。

彼らが誇りに思う、美しいシリアを。


そうしたことが、常々願う”シリアを忘れないで”に繋がるんじゃないかなと感じている。


このNoteで、どうやってそれをもっとうまく、自分だからこそできることは何だろうか、と考えている。

本業のシリア国内支援のことも知ってほしいけれど、持続的な、シリアのこと、シリアの人々に関心がつながるように、と思う。

支援をする・支援を受けるシリアではなくて、その先にあるシリアの姿を。支援をする・支援を受けるシリアは、シリアの”一部”に過ぎないから。支援を受けるシリアも、支援をすることも「特別」なことではなくて、例えば、支援するのが「日本人」だから特別なわけでもなくて。

主役は、シリアで、シリアの人々だから。

そうした思いもあり、模索中。

友人の言葉を、記してみたり、シリアの写真やシリアとつながりのあるものを載せてみたり。

もう少しうまくやりたい。まだまだ考え中。



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