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自己設定を認知する

名付けて『自己設定認知学』。
読んで字の如く、自己設定を知る・認知する学。

“自らが知らぬ間に設定していた自分”
“意識が設定していた自己”
というものを

視点を変えること、他者視点を持つ事、俯瞰を高める事、過去のストーリーの振り返り、今この瞬間の自分をそのままに捉えては、自意識の外側からの視点との繋がり、という作業を通じて
自分がどんな設定を持っているのか、どんな前提で世界をみているのか、自分自身をそもそもどう捉え、どう扱っているのか、を認知する工程。


またそれを通じて『自分を愛する』という視点に立つこと、その視点と調和することを目指す学び。。


・・・とか堅く、言いたいところだけれど、

そもそも自分が持つ大元の感覚を言語化しようと思うと、
そもそもこの生命体は、この地球を、この世を、この人生を、この肉体を楽しむと言うゲームなんだ、と言う感覚をどうしたって離れることはできない。

誰しもが抱えているその戦いも、その悩みも、その才能も、その情熱も、全てはこの地球体験という壮大なステージの上で、
感じること、表現すること、味わうこと、つながること、体験を選ぶこと、この“自分“という人物を最大限に遊ぶこと、知ること、感じること、味わうことなのだろうかな、と感じている。

欲深さも、幼さも、未熟さも、無知も、恥も、全てが地上での輝かしい体験だと思える。


失敗も成功も等しく尊い。
未熟も無知も等しく価値ある体験だ。


そういうゲームの上で、自らの人生のシナリオや、体験は何度でも選べるのだ、ということ。
現在の目の前の現実や、自分の自己認識や意識設定はいくらでも選び決めることができるのだ、ということ。


もっと何を体験したいのか?
何を味わいたいのか?
どんなシナリオを描きたいのか?
具体的にこの地上での経験として“体験“を選ぶ。

という前提の話しである。



その上で改めて、
自分の持っている装備に、与えられた役割に、感覚全てに、健康に、家族に、才能に、この命に、感謝できる視点に立ってみる。


そんな時間を意識的に持つ、ということは
人生を豊かに展開していく視点となるのではないかな、と思う。

自分という体験そのものへの感謝の視点に立つことを、自分を愛する視点ともいうのではないかなと感じている。


だからテンション高くでも、ぼーっとしながらでもいい、マニアックにでもいい、
『自分』という概念を少し遠巻きに見つめて、

自由に今ここを楽しむこと、
周りはみんなそれぞれのゲームの中の登場人物だと知りながら、目一杯この命を楽むことなんだなと思う。




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