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【Story of Life 私の人生】 第14話:我が家の新生活

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回のは、 第13話:転校生の苦悩 をお送りしました。
昨日は、私の新しい学校生活スタートのお話でしたが、今日は引越しによって大きく変わってしまった、我が家の新生活についてお話ししようと思います。

ゴールデンウイークが終わり、私は学校がスタート。
父も、練馬から上野まで通う生活がスタートしました。
今までは、東十条から電車1本で通えたのに、今度はバス⇨西武線⇨山手線と、乗換が多い。
その上、バスの本数は少なく、時間も道路の渋滞によって遅れが生じるので、時刻表通りには来ない。
電車は乗換があるだけではなく、通勤ラッシュ時は激混みで大変。
通勤時間が今までの3倍らいになってしまい、かなり大変そうでした。
朝はバスの時間が読めないので、今までよりもかなり早く家を出て、夜はずっと遅く帰って来るようになりました。

昭和40年代の通勤ラッシュ

父が異動願を出した訳ではないのですが、上野動物園での勤務年数はその時点で20年を超えていたことと、上野までの通勤時間がかなり長くなってしまった事を考慮されたらしく、6月から石神井公園の管理事務所に転属が決まりました。
これで通勤時間も短くなり、下り電車での通勤に変わったため、朝のラッシュ時の激混みからも開放されたようです。
ただ、今回担当することになった仕事は、野球場の利用受付、利用料の集計に、使用に関する日報を作成することがメイン。
算数が大の苦手だった父には、かなり苦痛だった模様です。

余談ですが、父は締切前日になると、毎回家に仕事を持ち帰ってきて、私が代わりに利用料と日報の集計をしていました。
父はただ清書して、提出するだけ(爆)
当時は、手伝うとお駄賃として、ガムを1枚くれましたが…
父の本業を請け負っていたのですから、もっと貰っておけば良かった(笑)
今では考えられませんよね、とても良い時代でした。

母は、私の通学が始まると同時に、先生のお宅の家事と、子供の世話をするようになりました。
朝食は、先生の家で用意されていましたが、後片付けは母がやっていました。
また、先生の家族5人分の洗濯と、我が家3人分の洗濯。
1階と2階の部屋の掃除。
当時まだ幼稚園に入っていなかった、先生の末娘を朝から世話をしながら、家事をこなし、お昼を作って一緒に食べ、お散歩がてら2件分の買い物に連れて行き、戻るとまず先生のお宅の夕食を準備し、その後に我が家の夕食の準備という生活になりました。

真ん中の娘が幼稚園から戻り、末娘と遊んでいるうちに、私が学校から帰宅する。となると、国立の小学校に通っていた私より2つ上のお姉ちゃんが帰って来るまでの間は、私が2人の面倒を見ることになります。
十条でも妹分がいたので、最初の頃は特に違和感もなく、一緒に遊んでいたのですが、何かの拍子で喧嘩になったり、おもちゃの取り合いになると、私が母から「お前はお姉ちゃんなんだから、我慢しなさい!」と怒鳴られました。

また、上のお姉ちゃんはかなり意地悪で賢く、妹2人に「ケイコちゃんは家のお手伝いさんちの子だから、私たちの言うことを聞かなくちゃいけないから、何をしても良い」と言い聞かせ(洗脳)し続けました。
当然、横柄な上から目線で接してきました。
意地悪をされたり、足を引っ掛けられて転ばされたり、怪我をさせられることがしばしばありましたが、先生や母の前では「良い子ちゃん」になり、私が「鈍臭くて勝手に転んだ」などと平然と言い放つ。
先生は、当然お姉ちゃんの味方だし、母も「お前が鈍臭いからだ」と同意する。
「よく平気で嘘がつけるな、どんだけ性格が歪んでいるのか!」と思っていましたが、自分は「あんな風な人間には、絶対なりたくない!」と強く思っていました。もしタイムマシーンに乗って、その時に戻れるのなら、我慢せずにブチ切れていると思います。飛び蹴りしちゃうかも。

「同じことをしても、なんで先生の家の子は叱られないのか?」とか、「なんで何もしていない私が悪いのか?」と、母に聞いたことがありました。
母曰く「よその家の子は、よその家の親が良い悪いを決めるから、お母さんは口出ししない。お前には、ああなっちゃいけないと教えているんだ」と。
そう言われても、まだ小学1年生の私には意味不明でしかなくて。
「何があっても叱られるのは全部私」という、なんとも理不尽な状況に、ひたすら耐えるしかありませんでした。

真ん中の子は、お姉ちゃんの言うことをある程度理解出来たので、私に対する態度が大きく変わり、どんどん横柄になっていき、最後は完全に召使い扱いするようになっていきました。
そして、お姉ちゃんの真似をして、どんどん私をいじめる態度を取るようになっていきました。
「年下から舐められる」のは、この頃から既に始まっていた訳ですね(笑)
この時、末娘はまだ2歳くらいだったので、お姉ちゃんの言う事が何も理解出来ませんでした。
また、先生よりも、ずっと一緒にいる母に懐いており、母も挨拶や礼儀作法を教えていたこともあるのでしょうね。
彼女だけは、私に対しての上から目線も、横柄な態度を取ることは一切ありませんでしたし、外でもしっかり挨拶の出来る子に育っていきました。

話を元に戻します。
日も暮れて、先生ご夫妻が帰宅し、夕食を出したところで、母はやっと開放され、そこから我が家の夕食の支度をすることになります。
元賄い婦だった母にとっては、2件分の食事を作るのは朝飯前だったとは思いますが、それでも家事の負担は、相当大きかったのではないかと思います。
それだけが理由では無かったと思いますが、練馬に来てからは、お手伝いしなければならない事がかなり増えました。
1年生の時は、布団の上げ下げ(当時、まだ小さかった私では、押し入れの上の段は届かなかったので、布団は下の段に収納していました)に、食事のセッティングと片付け、茶碗洗い、米研ぎ、洗濯物の取り込みは、私の「仕事」になっていました。
(因みに、その後、学年が上がる度に、私が担当する仕事はどんどん増えていきました。)

母は毎日、2階に戻ってくるとかなり不機嫌でした。
昼間抑えていた感情が、家族の顔を見た途端に一気に出てしまったのだと思います。
何気ない、ちょっとした事で私は叱られ、体罰を受けるようになっていきました。時には両親から「言いがかり」をつけられることも…
明確な理由もなく、両親から体罰を受けるのは、ただただ苦痛でしかなく、
本当に悲しかった。
「学校でいじめられた」と話しても、「お前が鈍臭いからだ」と叱られるだけ。「ブタって言われて笑われた」と話すと、「お前はブサイクだから、みんなは間違っていない」と突き放される。
小さい頃から「口答え」は地雷を踏むのと同じだと分かっていたから、もう最低限の事以外は話さず、母の怒りの嵐が通り過ぎるのを、ひたすら待っていた私。
楽しかった引越し前まで日々を思い出しては、毎日布団の中で泣きました。

そうそう、両親は元々タバコを吸っていましたが、練馬に来てからはヘビースモーカーに輪をかけて、チェーンスモーカー状態になっていました。
部屋の中は、ライブの演出の、ドライアイススモーク状態さながらで、いつも真っ白でした!
きっと二人とも、相当なストレスを感じていたのだろうと思います。
そして何かある毎に「お前のせいだ」と責めたてられる毎日。
確かに、私が「嫌だ」と言わなかったから、こうなっちゃった。
日に日に後悔と罪悪感ばかりが募っていき、ただただ「ごめんなさい」と両親に謝る毎日。
家でも学校でも「ひとりの人間」として扱ってもらえない虚しさに苛まれ、私は自分の感情にどんどん蓋をして麻痺させ、ますます自分の殻に閉じこもっていきました。

そんな日々が過ぎて行き、練馬に来てから1ヶ月くらい経ったある日から、突然私の身体に異変が出始めたのでした。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は、第15話:突然の喘息発症 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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