【Story of Life 私の人生】 第15話:突然の喘息発症
こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生
前回は、 第14話:我が家の新生活 をお送りしました。
今日は、私が喘息を発症した頃のお話をしようと思います。
十条にいる頃から、しばしば夕方から夜にかけて高熱を出していた私。
練馬に来てからは、その頻度が更に上がっていました。
幸い、家の斜め前にご夫婦で開業されていた内科・小児科のお医者さんがあったので、よくお願いして診てもらっていました。
練馬に来て1ヶ月位経った頃、就寝後から夜中にかけて、咳が出て止まらなくなるようになりました。
最初の数日は、咳止め飴やトローチを舐めたりしていたのですが、症状は日に日にどんどん悪化していき、息をするのも苦しくなってしまいました。
数日経ったある夜、流石に親も見ていられなくなったのでしょうね。
近所の先生を電話で起こして、夜間診療をお願いしました。
その夜は「この時間じゃ詳しい検査も出来ないから」と、咳止めのシロップを飲み、点滴を打ってもらって、明け方に帰宅しました。
小学1年生の授業は、給食を食べたら終わりだったのですが、翌朝はとりあえず学校に行くことになり、担任の先生への連絡帳には「もし授業中に具合が悪くなったら早退させてください」と書かれていました。
授業中も咳込みましたが、夜中程ではなく、かなりマシだったのですが…
例の如くノートの書き写しが遅い私は、休憩時間も頑張って書いていました。
そんな私の周りに、クラスメイト達が集まってきて取り囲み、「バイキンを撒き散らすなよ!」「あっち行け!」と、白い目で見られ、みんなから引っ叩かれました。
「私、何か悪いことしているのだろうか?咳はしちゃいけないのか?」と思い、どうして良いかわからず黙っていると、今度は「バイキンは捨てちゃえ!」と、オレンジのランドセルを窓から校庭に投げ捨てられました(驚)
流石に捨てられたままにしてはいけないと思い、外までランドセルを拾いに行き、教室に戻ってくると、休み時間はとっくに終わっており、担任の先生が教壇に立っていました。
当然ですが、「ケイコちゃん!休み時間はとっくに終わっているのに、何してるの!」と叱られ、クラスメイト達からは、指を指されて大爆笑され…
「先生、ごめんなさい…」と謝ってから自分の席に戻ると、さっきまであった筈のノートと鉛筆が、私の机から消えていました(泣)
既に授業は始まっているけど、ノートも鉛筆もない状態。
キョロキョロと探していると、先生から「ケイコちゃん、一体を何やってるの!!」とまたまた叱られてしまい…
仕方ないので「ノートと鉛筆がなくなりました…」と話すと、「家に忘れて来たのでしょう!」と言われてしまったので、「さっきまで使っていました。ランドセルを外に取りに行って戻ってきたら、なくなっていました」と正直に話しました。そこで「じゃあ、みんなで探しましょう」となり…
結果として、どちらもゴミ箱から出てきました。
ノートは数ページビリビリに破られていて、落書きもされていました。
また、鉛筆の芯は全部折られていて、何も書ける状態じゃない。
「私は何もしていないのに、どうしてこんな目に合わなくちゃいけないのか」と悲しくなり、泣きたくなったけど、「泣いてしまうと、またいじめられる」と思って、グッと我慢するしかありませんでした。
給食は、机をくっつけてグループで食べるのですが、私と同じグループになった子たちは、「バイキンが感染ると嫌だ」と、私からかなり離れて食べていました。先生がちょっとだけ注意したけど、状況は何も変わらず。
もう一挙一動、何をやっても全てケチつけられることが当たり前になっていて、エスカレートの一途を辿る始末。
先生も含めて、味方は誰もいないと思えて、自分の存在価値を完全に見失ってしまった気がします。
その日は、とりあえず早退せずに給食を食べて帰宅し、母と先生の末娘(まだ2歳だったので、1人で留守番させられないので)と一緒に、夜間に診てもらった小児科の先生の診察を受けに行きました。
肺活量の検査とか、血液検査をして貰いましたが、その結果「喘息の疑いがある」ということでした。
ただ、ちゃんとした診断は大きい病院でしてもらった方が良いということで、翌日行くようにと、板橋日大病院へ紹介状を書いてもらい、この日は咳止めの飲み薬をもらって帰りましたが、結局その夜も咳が止まらず、結局は夜中に先生を起こして点滴を打ってもらいました。
翌日の朝、学校をお休みして、朝から板橋日大病院に連れて行かれました。
大きい病院は初めての経験で、かなり緊張したことを覚えています。
診察まで数時間待たされ、予診室で母が症状などを話し、レントゲンや、肺機能検査や、血液検査などをして回って、やっと主治医の先生の診察になりました。
もうとっくにお昼を過ぎていて、一緒に連れてきた先生の末娘は「お腹空いた」とギャン泣き状態に…
母がお菓子と牛乳を買ってきて食べさせて「終わったらご飯にしようね」とあやしていました。
診察の結果は「気管支喘息」でした。
主治医の先生から「お父さんが喘息持ちだし、お母さんがアレルギー体質だから仕方ないね。でも光化学スモッグの酷い十条で発症しないで、何で空気の良い練馬で発症したのか理解出来ない」と話していたことを鮮明に覚えています。
「すぐに入院しなければならない程ではない」ということで、定期通院は月に1日で良いけれど、発作が出たら近所の先生に行って処置してもらうようにと、近所の先生宛の返信を書いてもらい、この日は家に帰りました。
夜中の喘息発作は、その後小学4年の頃まで、ずっと続くことになります。
発作が軽いときは、高熱を出していたので、夜間診療が日課状態となってしまいました。
しまいには近所の先生も「慣れっこ」になってしまい、夜10時になると玄関を開けて待っていてくれるようになりました。
私も、熱や咳が出ると「先生の所に行ってくるね」と言って、1人で行くようになっていきました。
ちなみに、学校の体育の授業は、喘息発症後から小学4年生の途中まで、ずっと見学でした。
運動会はあまり走らないで済む玉入れと、フォークダンスだけ参加していました。
今になって思えば、両親がヘビースモーカーだったことも一因なのかもしれませんが、子供ながらに、かなりのストレスを抱えていたのでしょうね。
「辛い」という感情を受け止めて、優しく接して欲しかったのかも知れません。
子供だって、怒り、苦しみ、悲しみはあるのです。
今思えば、それに全部蓋をしてしまったから、病気という形で出てきてしまったのではないかと思います。
余談ですが、当時練馬区では、喘息治療用の保養施設が下田にありました。
学校から「その施設に、私を入れたらどうか」という話が何度か出たのですが、両親は私を下田には行かせませんでした。
今となっては、その理由は分かりませんが、もしかすると転校でのいじめと同じようなことが起こるのを危惧していたのかも知れません。
とはいえ、夜間診療の常連だったので、想定外に医療費がかさんでしまい、親もきっと大変だったと思うのですが、喘息発症以降、私は親から事あるごとに「穀潰し」と言われるようになりました。
両親に対して「私は生まれて来なければ良かった」とか「迷惑ばかり掛けていて申し訳ない」という感情が日に日に大きくなって行きました。
〜続く。
今日はここまでです。
次回は、第16話:新しい友達 に続きます。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪
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