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長女の障がいを確信した日

喜びと絶望を、同時に感じたことはあるかい?
私は、あるよ。

私には15歳と13歳の娘が2人いる。
写真は10年前のもの。当時5歳と3歳。

長女は特別支援学校に通う中学3年生。
思春期・反抗期真っ只中、IQ20の重度自閉症。
自閉ちゃん界隈で言えば、スーパーエリート中学生だと勝手に思っている。

次女は私立中学に通う中学1年生。
最近、数学のテストが30点を超えた記憶はないが「前より1点上がった!」とどこまでもポジティブな性格の子だ。

今日は長女が自閉症だと分かった時のことについて書こうと思う。

なんで書こうと思ったかと言うと、シンプルに書いたことが無いからだ。

もし「我が子が発達障害なのでは・・・」と言う人が読んでいるとしたら、今読むには辛い内容かもしれません。
診断がおりて、受容の過程にいる人にとっては、10年後は自分や家族がどんな気持ちになるか?参考になるかもしれません。
現在の状況に合わせて、読み進めるか決めていただければと思います。


ではでは本題に。

2008年12月に生まれた長女は、いわゆる「育てやすい」子だった。
今思い返せば、育てやすすぎた。

母乳はよく飲み、夜泣きに悩まされた期間は2〜3ヶ月程度だったと記憶している。
首の座り、寝返りは順調で、外からの刺激に対する反応も普通にあった。
喜ぶとニコニコしながら手をパチパチする、どこから見ても「普通」の女の子。

当時は長女にオシャレさせるのが大好きだった。
ベネッセの育児雑誌、たまごくらぶやひよこくらぶに良く掲載してもらっていて、明るい未来しか想像していなかった。

6ヶ月健診を過ぎたあたりから「少し成長が遅いかな」と焦り始めた。
これまで順調に成長していた長女が、育児書に書いてあるより遅かったり、また違う順番で発達をし始めたからだ。

まずハイハイをする前に立ってしまった。
長女の下半身は常にピンとこわばっていたので、大人が両脇を抱えてテーブルに手を置かせると立つことができた。
おままごとの時に、強制的にテーブルに立たせられたリカちゃん人形のようだった。

子ども特有の柔軟性がまったく感じられなかったのも違和感があった。
膝を曲げられなかったのだ。座る時も胡座をかかず、常に足はピンと伸びていた。
※この特性は今でも残っている。成長に連れて、足は曲げられるようになったが、常に足が緊張しているため、長女の太ももはアスリート並みに固い。キック力が半端なく、福祉施設と自宅の扉を蹴って壊した経験もある。キックボクサーになったら世界が穫れるかもしれない。

嫌な予感は当たるものだ。
10ヶ月健診で「精神運動発達」に引っかかった。
ググったら「パラシュート反射」というテストがクリアできなかった。

6〜7ヶ月までの成長チェックはすべて「はい」だったのに、9〜10ヶ月で初めて「いいえ」がついた。

1ヶ月後の再検査で反射テストはクリアしたが、この辺りから「この子は他の子となんか違う・・・」と不安が止まらなくなってきていた。

心の「疑惑メーター」が、0%から30%に上がっていったような感覚を覚えた。

とにかく反応が薄いのだ。
名前を呼んでも振り返らないし、おもちゃを渡しても笑わない。
何より「心が通じない」という感覚があった。

特に不安を感じたのが、ママ友さんたちが我が子の近況を話す時だった。

「最近トイレに行くと泣きながら追っかけてくるのよ〜」
「テレビの体操が大好きで、リモコン渡してくるのよ」
「私以外の人が抱っこすると、大泣きして私の方を向くのよね」

ママ大好き。

言語がなくても子どもたちは体で精一杯表現する生き物らしい。

私は1度もこの経験をしたことが無かった。

周りのお友だちとは明らかに違う長女。笑顔と笑顔で見つめ合うなんて、テレビの世界だけなんじゃないの?え?盛ってるよね?
と本気で思っていた。
パンパースのCMは合成だとさえ思っていた。

長女の無表情な表情を毎日見ていると、私もどんどん表情を失っていった。
笑いかけても返ってこない。笑いかけることがだんだんアホらしくなってきた。育児を義務のように感じるようになる自分がみじめだった。
目にする世の中の笑顔の親子全員が憎らしかった。

この記事を書くにあたり、母子手帳を見返してみたら、1歳以降の記録は真っ白だった。

できることが無かったのか、それとも書くのが怖かったのか、今となっては覚えていない。

このあたりから「自閉症 発達障害」というワードが脳内にチラつくようになり、毎日携帯やPCで「自閉症 症状」というキーワードを狂ったように検索していた。
この症状は当てはまるな・・・これは当てはまらないな・・・と一喜一憂しては「明日は長女がお友達の◯◯ちゃんみたいに言葉を話してくれますように」と真剣に祈りながら眠っていた。
しかし、朝になっても何も変わってなくて落ち込んだ。

とは言えまだこの子は1歳だ。
これからどんどん成長して追いつくかもしれない。
そんな淡い期待は捨てきれなかった。
ネットにもそんな経験談が乗っていて、密かな励みになっていた。

この時私のお腹の中には、次女がいた。里帰りはせず、自宅の近くの産婦人科で次女を無事出産した。

入院中、夫が長女を連れて、私の部屋へやってきた。
産後、約3日ぶりの再会だった。

久々に長女の顔を見れて、私は心底嬉しかった。
と同時に、感情を失いかけていた私がこんな気持ちになるなんて、と少し驚いた。

手を広げて抱きしめようと思ったら、長女は私の顔を見ることなく、病室の外へ走り出してしまった。
ママの顔を見ても笑顔も見せず、さらに無視までした長女の行動に、心底落胆した。

追いかける夫の足音を聞きながら「やっぱり長女には何かある」
これまで30%ほどだった「疑惑メーター」が50%まで進んだ。

長女と同様、次女も育てやすかった。
1〜2ヶ月の時までは、同じ頃の長女とさほど差を感じなかった。

違いと言えば、長女より髪の毛が薄く額の上がほぼハゲ上がっていたことくらいだ。あと長女よりも泣き声が大きかった。(ちなみに現在の次女は髪の毛が超多く、相変わらず声は大きい)

しかし「その日」は突然やってきた。
確か次女が4ヶ月の頃だっただろうか。

次女のオムツを変えていた時だった。
次女と目が合った。
私の目を見て、次女がニコッと微笑み返した。

ママ大好き。

次女の瞳が、間違いなくそう言っていた。

そうだったのか。
ママ友が言っていたことって、こういうことだったのか・・・!

私は生まれて初めて、喜びと絶望を同時に経験した。

うれしさと悲しさで感情がぐっちゃぐちゃになり、私はひとりで遊ぶ長女を背に、嗚咽していた。
「疑惑メーター」が100%に達し、長女には障がいがあると確信した瞬間だった。

その後は早かった。
市の療育センターに連絡し、発達外来のある病院を予約した。

病院に行けるまで半年かかった。
医師から受けた診断は「自閉症」だった。
長女が2歳4ヶ月のことだった。
念のためセカンドオピニオンももらいに行ったが、結果は同じだった。

確信があったと言っても、受容には時間がかかった。
2年くらいは時間もお金もかけて、「普通」を目指して相当あがいた。
ABAというアメリカの行動療法を取り入れたり、毎日2時間かけて療育施設に通わせたりした。
けれど普通には届かなかった。

夫や、夫の両親ともかなりケンカした。ママ友も失った。
辛かった。生きるか死ぬか、そんな日もあった。

けれど、今も私は生きていて、幸せを感じている。

長女は15歳になり、来年は特別支援学校の高等部に入学する。
社会に出ることも含めて、長女がどうしたら幸せになれるのか、日々夫婦で考えている。

現実が100%受容できているかと聞かれたら、答えはNoだ。

海外旅行に行けないな、とか。子どもが健常なら普通にできることができない場面に遭遇した時、
「長女を授かる前に戻ったらどうなってたんだろう」と思うことは、今でも、何度だってある。
医者から診断されたあの日を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうなほど苦しい。

けれど、

「今ある幸せ」を噛み締められることも、
次女が障がいのある子に偏見なく育っていることも、
家族でワンチームになって長女を支えていることも、

悪くない人生だなと受け止められている。

長女に障がいがあるからこそ、応援してくれる人たちがいたり、掴めたものもある。

障がい児を育てるのは大変だが、健常の次女だって思春期はなかなかに大変だ。

私が今「働き方に関わる仕事がしたい」と思っているのも、長女を育てたからだ。

禍福は糾える縄の如し
今日も今日とて生きていく。

ちょっぴり大変な我が子を育てる母として、今日も普通に生きていくのだ。

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