戦争で死んだ祖父へ
敵国から降ってきた手榴弾を、両手で受け止めて海へ走る。
投げようとしたその瞬間に爆破。祖父は御年25歳で満州にて戦死しました。
「トヨミさんのおかげで僕らは帰ってこれました。」
「トヨミさんが命を救ってくれました。」
「あそこでトヨミさんが受け止めてくれなかったら全員死んでました」
「ありがとうございます。」「ごめんなさい。」
「僕が死んだらよかった…」
日本で祖父の帰りを待ちわびる家族のもとへ、妻のもとへ
遺骨を届けた部下たちは、そう叫んで男泣きに泣いたそうです。
遺骨を抱えた妻…私からすると祖母は当時24歳。
2歳の男の子とおなかに赤ちゃんがいました。
その赤ちゃんが私の母にあたります。
どれほどに、この話を聞きながら育ったでしょう。
曾祖母から…。祖母から…。母から…。
お線香の香りが漂う、ほの暗い和室の長押に置かれた白黒の祖父の写真を
小さいおかっぱ頭の私が見上げていました。
怖くて。でも誇らしいような気持ちと会いたい気持ちもあって。
見つめていると、ふーとこちらに近づいて来そうで、いつも走って部屋から飛び出していました。
曾祖母は息子を亡くし、祖母は夫を亡くし、母は父を知りません。
昭和の初め、それがどれほどの苦労を生きることになったのか、私はまだわからずにいます。
祖母は自分の背丈の倍ほどもある荷物を背負って,行商にでていました。
遊びに行ってもあまり言葉を交わした思い出がありません。
「おかあちゃんはどうしてか、私にいつもきつかった。」
いつもわたしにひとりごとのようにこう言っていた母もまた、
あまり言葉数の多い人ではありませんでした。
嫁ぎ先で夫に先立たれ、2歳の長男とおなかに3月の子がいては実家にもどることもゆるされなかったのだと思います。
が、それよりも祖母にはその選択はなかったかもしれません。
嫁ぎ先を離れることは、そこここに気配の残る大切な夫との日々を無かったことにしてしまうから…。
それでも自分の悲しみだけでなく息子を亡くした姑の寂寥と、父の居ぬ二人の子どもたちの不安と寂しさと、それを一心に引き受けた祖母とを思うと、想像だにできず心が動かなくなってしまいます。
祖父は海へ爆弾を投げながら何を思っていたのだろう。
とても残念なことに祖父のこの死を「自己犠牲」と、わたしは学んでしまいました。
皆の、誰かのしあわせのためには、自分の身を投げ出す。
自分にはそうしないとならない何かがある。
「皆」と「誰か」のなかに、自分の大切な人は入っていません。
そうしても構わない…とすら思っていて、大切な人はいつも置いてけぼりです。むしろそうしたほうが喜ばれるのではないかとも思っていました。
自分は人のために身を差し出す。
それであなたは悲しむか?むしろよくやったと言ってほしい。
いや、言ってくれますよね。
そこには自分に向けた刃とともに、底知れぬ怒りのようなものがありました。
…ついこのあいだまで。
この間のお盆のことです。
今年は母の初盆でした。
父はとうに亡くなっていましたので、母と父の連名の戒名が刻まれた位牌に沢山の花をお祀りして過ごしていました。
そんな3日目。
あぁ今夜は送り火だな…と思っていると、ふわっと情景が浮かんだのです。
とびきりの笑顔の母と、うれしそうに盃をかたむける祖父の姿。
あんなに嬉しそうな幸せそうな母の顔は見たことがありません。
そして軍服姿でしか知らない祖父は、浴衣を着て胡坐をかきほんのり赤い顔をして笑っていました。
幻覚でしょうか。
行き過ぎた妄想でしょうか。
死んで初めて、84年の月日を経て初めて見つめ寄り添う父と娘。
爆弾が爆発した瞬間浮かんだ、妻と息子とお腹の子。
おかあちゃんの向こうに父を見ようと、何度も何度もおかあちゃんをまさぐった母。
会いたくて会いたくて会いたくて会いたかった。
悔しくて悔しくて悔しくて悔しかった。
ただ、しかたなかった。
そうか…。
「自己犠牲」じゃなかったんだ。
お盆が過ぎてまだそれほどの日は経っていません。
わたしは娘たちから届くLINEの返信を誰よりも一番にすることにしました。
他のだれかではなく、一番に娘たちのことを考え、慮り、大事に大事に思うようになりました。
生きて大事な人を大事に想う。
死ぬまでそれを大事にする。
伝える。
そうやって生きていいこと。
わたしはようやく…そのことに気づけました。
ありがとうございます。
あなたの孫でよかったです。
わたしはもう少し、こちらで頑張りますね。
終
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