見出し画像

ダメットは命令・賭けにおける「設定」と真偽問題とを混同している

※ 条件法における論理学的真理値設定の問題点については、
条件文「AならばB」は命題ではない?|カピ哲!|note
条件文「AならばB」は命題ではない?(その2)|カピ哲!|note
・・・で論じているので、そちらも参考にして下さい。

(以下本文)

 M.ダメット『真理という謎』(藤田晋吾訳、勁草書房、1986年)に掲載されている「真理(1959)」(1~43ページ)で条件法の真理値について論じられている。本稿ではその問題点について指摘しておこうと思う。
 ダメットは条件法の真理値について検討する際、「条件付き賭と真理関数的条件法を当てにする賭」(15ページ)を引き合いに出している。「条件付き賭」は前件が偽の場合賭けが不成立、「真理関数的条件法を当てにする賭」では前件が偽ならば命令は守られたと解釈されている。
 しかしこの議論には根本的誤解がある。ダメットは賭けの勝敗や命令の遂行と、真偽判断とを同じように扱うことで、真偽判断の問題を混乱させているのだ。「関心と結び合った帰結」(4ページ)をもたらすのはあくまで勝敗や命令の遂行に関してであって、真偽判断に関してではない。

(1)勝敗、賭け、命令:何をもってゲームや賭けの勝ちとなるのか、何をもって命令を遂行したと判断されるのか、それらは人為的に変更可能。一つの賭け、一つのゲーム、一つの命令においても、そのルールを当事者が人為的に変更することができる。
(2)真偽:観点・視点により様々な真理は見いだせる。しかし特定の観点・視点における真偽判断は、人為的に変更できない。あくまで与えられるものであって人為的に変更することができない。

前件が命令を受けた人の能力内にあるような条件付き命令(たとえば、母親が子供に「外出するのなら、コートを着て行きなさい」と言う)は、つねに真理関数的条件法での賭のようなものである。

(「真理(1959)」15ページ)

・・・しかしよく考えてみてほしい。外出しなかったから賭けが成立しなかった、という見方も可能である。結局のところどちらでも良いのだ。なぜなら人為的ルールだからだ。
 ダメットは命令について次のように説明しているが、

しかしこのように考えることもできるのである。

・・・これはダメットの言う「条件付き賭」となる。しかし真理関数的条件法に従った命令内容にするのか、条件付き賭に従った命令内容にするのかは、命令する人がどう考えるかにかかっているのであって、別にどちらが正しいとか間違いとか判断できるようなものではない。そもそも真偽の問題ではないのだから。
 さらに言えば、命令に従う方の論理から言えば、

と考えることもできる。もちろん命令を受ける人の気持ち的に、真理関数的条件法のような考えを自らに課すこともできる。どう考えるかは個人の勝手である。

われわれはその概念の眼目、何のためにその語を使うのかということ、をも説明しなければならないのである。分類は真空の中にあるのではなく、われわれの何らかの関心とつねに結び合っている。だから、あるものを一方もしくは他方の部類に振り分けることは、その関心と結び合った帰結をもつことになる。

(「真理(1959)」4ページ)

・・・まさに命令や賭けにおける”人為的設定”そのものがダメットの言う「眼目」あるいは「関心」にあたるとも言えるのである。
 そもそも罰せられるとか、命令を守るとか、それは真偽問題なのであろうか? 罰せられないことが真理で罰せられることが間違い(偽)なのであろうか?
 いや、そんなことはなかろう。ダメットは眼目やら関心と真偽問題とを混同してしまっているのである。既に述べたように、罰則や命令は人為的に変更可能、見方、気分その他さまざまな要因によって結果が変わっていく。結論から言えば、命令や罰則のルールは真偽関係そのものではなくあくまで前提条件、条件設定でしかないのである。真偽関係として示すのであれば、以下のようになるはずなのである。

上の表において、A=彼は命令を守った、B=彼は罰せられない、つまりA→Bとは「命令を守れば罰せられない」という条件文となっている。そして「条件付き賭」やら「真理関数的条件法を当てにする賭」の設定がこの真理値が成立する前提条件となっているのである。
 これは論理学における真理値設定とは全く異なる真理値表である。しかしこれもやはり真理値としては「正しい」のである。「命令を守れば罰せられない」という条件下において、(賭けや命令の設定とは異なり)恣意的に真理値を変更することはできない。
 そして、外出やコート着用の関係を、前提条件なしのただの事実関係として見做せば、以下のように考えることもできる。


しかし、これはあくまで一度きりの事実関係であり、普遍的な論理関係ではない。これでは真理値表にならない。つまり条件法の真理値表が成立するためには、特定の前提条件の想定が必要であることを示している、とも言えるのではなかろうか。
 たとえば明日遠足の日で、「明日雨が降らなければ遠足に行く」ということが決定事項となっていたとする。そういう前提のもとで「明日雨が降らなくても遠足に行かない」という言及は(今日時点における)事実に反していると言えよう。真理値表は以下のようになると思われる。

これはあくまで「明日雨が降らなければ遠足に行く」という命題が真であるという前提条件における真理値であって、明日遠足当日になって小雨だったからやっぱり遠足に行った、とかそういう話はまた別の問題である。
 本稿の第1章・第2章で扱った「晴れたら散歩に行く」という命題も普遍的に正しいものではない。それゆえに前提条件がはっきりしないまま考察しても真理値に関して迷いが生じてしまうのだ。

 ここまで見てきたように、条件法の真理値は前提条件により異なる値をとりうる。結局のところ条件法の論理学的真理値(設定)が唯一の正しい真理値であることを支持する事実はどこにも見出すことができないのである。
 否定・連言・選言に関しては事実関係として説明できるのに、条件法になったとたん、賭けや命令のような特殊なシチュエーションを引き合いに出さざるをえないのはどう考えてもおかしな話なのである。


ある文の真理条件を規定することはその文の意味を決定するのに十分ではない、それ以上の何かが規約されねばならないのだ、と言うべきなのか。そう言うよりはむしろ、われわれの真偽の観念をすっかり放棄すべきなのである。

(「真理(1959)」20ページ)

・・・このダメットの指摘が非常に的外れなことは明らかである。条件法の真偽について解明できないのはダメットが真偽問題ではない命令や賭けをもって条件法について論じようとしたからであって、真偽の観念を放棄する必要などまったくないのである。
 そして少なくとも条件法真理値の論理学的設定の普遍性を正当化するものは(とくに前件が偽である場合において)どこにも見当たらないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?