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論理・倫理・死 ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第13章「死について、幸福について」に対する若干のコメント


論理・倫理・死 ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第13章「死について、幸福について」に対する若干のコメント

http://miya.aki.gs/miya/miya_report43.pdf

書きました。たいした内容ではないですが・・・とりあえず簡単にまとめておきました。これで最後です。

本ページでは1章だけ掲載します。

うまくダウンロードできない場合は、こちらのページからどうぞ。
経験論研究所:レポート一覧

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 本稿は野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)第13章「死について、幸福について」(282~307ページ)に関していくつか簡単にコメントしたものである。
 正直なところ、ウィトゲンシュタインに「幸福に生きよ!」(野矢、307ページ:『草稿』1916年7月8日からの引用)と言われたところで、「余計なお世話だよ!」といわざるをえない・・・”哲学的言葉遊び”に深入りするつもりはない。
 本文中の引用部分は『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』からのものである。

<目次>

 ()内はページ
1.ウィトゲンシュタインの誤った論理観・経験観 (1)
2.倫理は世界の内にある (3)
3.私の死がどのようなものかは因果的に推測されるのみ (4)

1.ウィトゲンシュタインの誤った論理観・経験観

 これまでに何度も説明してきたが、以下の論理観・経験観は根本的に誤っていると言わざるをえない。

論理は語りえない。世界の事実を経験するようにして論理を経験することはできない。しかし、現実の全体を要素的な事態へと分解するには複合命題と要素命題の間に成り立つ論理的秩序が了解されていなければならない。論理を欠いた経験は、ただ現実の刺激がその現実世界全体として未分節のままに、つまりないが何だか分からないままにわれわれを促し、何がなんだか分からないままに反応するというにすぎず、それゆえそれはもはや「経験」と呼ばれる資格を失う。したがって、論理は経験を成立させるために要請されるという意味で超越論的である。

(野矢、288ページ)

・・・具体的には次のようなことである

① 「現実の全体を要素的な事態へと分解する」という考え方が誤っている。事実として、現実は全体として現れない。全体としての現実は、その都度その都度個別に現れる事実を因果的に繋ぎ合わせることで導かれる。しかしそれでも全体というものはあくまで想定されている・構築されているものであって、個別の具体的経験として現れることはない。
② 私たちが個別の具体的経験をつなぎ合わせたり全体像を描いたりできるのは、そこに言葉の媒介があるからである。言葉と対象としての事実が繋がり合う。そしてそれにより対象(事実)と対象(事実)との関係構築(つまり因果関係構築)がより明確にできるようになっているのである。
③ 言葉の意味としての対象は、あくまで事実(具体的経験)として現れる。それも現実である。
④ 言葉と対象としての事実が繋がり合い、さらに事実どうしの因果的繋がり合いが導かれることで、現実世界の認識が導かれる。論理はその現実世界を分析する中で見いだされるものであって、論理が経験に先立つことはない。そして論理の正しさは現実世界のあり方により確かめられるものなのである。

 既に以下のレポートでも触れたが、

主体否定と思考 ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第10~11章の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report42.pdf

『探求』において、上記の論理観は全く否定されている(野矢氏の説明によれば)。

『論考』における答えは、もちろん、「世界にア・プリオリな秩序は存在する」というものであった。では、『探求』の答えはどうか。答えは微妙にならざるをえないが、少なくとも『論考』のような意味において、すなわち私が「強いア・プリオリ」と呼んだ意味において、論理がア・プリオリな秩序として成立することは否定される。論理は、世界のあり方に、人間という生物のあり方に、われわれの経験のあり方に、依存したものでなければならない。少しフライング気味に言わせてもらおう。『論考』においては論理が世界と人間の可能性を限定した。だが、『探求』においてはまったく逆に、世界と人間の限界こそが論理を限定するのである。

(野矢、361ページ)

 いずれにせよ、論理は「語りえない」ものではない。具体的事例を挙げた上でその正しさを検証することができるものである。



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