理由や目的、存在の“必然性”とは後付けの解釈にすぎない
ハイデガー理論における「概念の実体化の錯誤」
~古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』に関するいくつかのコメント、およびヒューム理論との比較
http://miya.aki.gs/miya/miya_report44.pdf
に5章を付け加えました。引用部分は、古東哲明著『ハイデガー=存在神秘の哲学』(講談社現代新書、2002年)からのものです。
理由や使命がなければ生まれてはならないのでしょうか?
理由や目的がなければスポーツをしてはならないのでしょうか?
・・・そんなわけないでしょう!
特定の普遍的な人生の目的・生きる目的というものがあらかじめ決まっている方がかえって恐ろしくないですか? (そして実際にそんなものはない)
普遍的な「生きる意味」や「存在の意味」を問うこと自体が倒錯なのです。
倒錯した問いにのっかるのではなく、倒錯した問いの何が問題なのか、そこを明らかにすることが哲学の仕事なのだと思います。
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5.理由や目的、存在の“必然性”とは後付けの解釈にすぎない
古東氏は、「存在の無根拠」(古東、183ページ)に関して以下のように説明されている。
・・・どうにもおかしな”理屈”である。”理由や使命、目的がなければ存在しないことが当然”という理屈である。存在することに理由や目的が必要なのだろうか? 理由や目的がなければ存在してはならないのだろうか? 理由や使命がなければ生まれてはならないのだろうか?
問題はむしろ、ハイデガーや古東氏の”必然性”に対する考え方なのである。実際、目的や使命など関係なしに様々なものは存在している。事物はただ存在しているだけで、必然やら偶然やらというのは後付けの”解釈”にすぎない。必然だ、偶然だというのは解釈次第、文脈次第でどうとでも言えることなのだ。
目的や使命、理由についても同様で、これらも後付けの解釈なのである。
むしろ物や人が存在するのに特定の目的や使命、理由が必要だとしたら、そちらの方が気持ち悪い(そして古東氏の言われるように、実際そうなってはいない)。特定の普遍的な人生の目的・生きる目的というものがあらかじめ決まっている方がかえって恐ろしいではないか。ハイデガーにとって理由・目的があることが当たり前だ、という”思い込み”が出発点になっているのであろう。ニヒリズムだと考えるのは、そういった思い込みから来ているのではなかろうか。
私たちがスポーツを楽しむのにいちいち「理由」やら「目的」を用意してからのぞむであろうか? 理由や目的がなければスポーツをしてはならないのだろうか? 結局のところ、そういった「理由」や「目的」というものはスポーツという行為の“前提”としてあるものではなく、あくまで“後付け”でこじつけられるものなのである。人によって、その時々で様々な解釈が可能となる。そしてその解釈は変化しうるものでもある。
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